ep.21 図書室
「うわあああっ!」
樹は、ほとんど悲鳴に近い叫び声を上げると、カレンダーから飛び退いて、一年A組の教室を飛び出した。
「樹!?」
背後から、湊の驚く声が追いかけてくる。
樹の足は、もつれるように階段を駆け上がった。いつもなら一段ずつしか上れないはずの身体が、この世界では、三段、四段飛ばしで、まるで飛ぶように進んでいく。二蹴りで踊り場に、折り返してさらに二蹴りで、あっという間に二階の廊下へ到達した。
目指すは、廊下の突き当りにある、図書室。
引き戸は固く閉ざされていたが、廊下と面した窓の一つが、開け放たれたままになっていた。樹は、躊躇なくそこから中へと飛び込む。
しん、と静まり返った、埃っぽい空間。
テーブルと本棚の数、その配置は、樹が知る図書室の光景と何ら変わりはなかった。部屋の隅にある貸し出しカウンターへと向かう。
カウンターの上に置かれた、木彫りの積み木カレンダー。
年月日を示す数字が彫られた、小さな木のブロックを、毎日手でひっくり返して使うタイプのものだ。
その、木のブロックに刻まれた数字は、先ほどの紙のカレンダーよりも、ずっと、ずっと、残酷なほどにはっきりと、その日時を示していた。
『2025年 7月 19日』
「樹、どうしたんだよ、急に!」
背後で息を切らした湊が、同じように窓を飛び越えて、図書室に駆け込んできた。
「湊……」
膝から力が抜けかけた樹の身体を、背後から湊が抱き止めるように支える。
「これ……」
樹はなんとか体勢を立て直し、震える指で、カウンターの上の積み木カレンダーを指し示した。
「え?」
湊のチョコレートボールのような丸い目が、カレンダーを見て、すっと細められる。
しばらくの静止。
もう一度大きく見開かれ、そして、また細くなった。
「…………ん?」
長い沈黙の後、ようやく湊が絞り出した声が、それだった。
思考が、全く追いついていない。頭が回らなくなったのか、
「ごー、ろく、なな……じゅういちねん後?」
と、指を折って数え始める始末だ。
2014年を生きる高校一年生の少年たちにとって、2025年は、あまりにも遠い、実感の湧かない未来の数字だった。
「あ……」
その時、樹は、貸し出しカウンターの向こう側、所狭しと書庫が並んでいる一角が、ほんのりと淡く光を放っていることに気づいた。
「湊……何か、感じる? 持ち主の気持ち、みたいなの」
「え? いや……」
湊は、首を横に振る。
「何も感じねえけど……」
「僕も、何も感じない」
この棚からは、何のビジョンも見えてこない。「落とし物」とは、何かが違うのだ。
樹はカウンターの向こう側へと回り込み、光源を探した。
それは、新聞の縮刷版が収められた、大きなスチール製の棚だった。
棚全体が、まるで内側から発光しているかのように、淡い光を帯びている。
樹が、いくつも並んだ引き出しの一つに、おそるおそる指をかける。
すると何の抵抗もなく、まるで自動ドアのように、するりと静かに引き出しが開いた。
中には、分厚い背表紙に年代が几帳面に記された、地元新聞の縮刷版が、ぎっしりと詰め込まれている。
一番手前にあった、最新版と思われる巻の背表紙には、『2025年 1月-3月』と記されていた。
「こっちも2025か……これ……持って帰れんのかな……」
湊が、ごくりと喉を鳴らす。
「そうだね。戻って、じっくり読んでみたい」
樹は最新版の縮刷版を、両手でゆっくりと取り出した。
ずしりと重い。歴史の重み、そのものだ。
「他に何か持って帰るか?」
湊が図書室を見渡すが、他の書架はどれも灰色の塵にまみれ、背表紙の文字さえ判別できない。この光る棚の中にある縮刷版だけが、まるで昨日作られたかのように、綺麗な状態を保っていた。
「……頭が、混乱しそうだから。今は、これだけでいい。一度戻って、頭冷やして、ゆっくり考えよう」
「そうだな……アイスでも食おうぜ」
湊の言葉に、樹は頷いた。
縮刷版を大事に抱え、二人は入ってきた窓へと向かう。
だが。
「え?」
窓から廊下へ出ようとした樹の身体が、見えない壁に阻まれて、こつん、と鈍い音を立てて弾かれた。
「なんで……?」
「どけ、樹!」
湊が、思い切り窓枠の空間を殴りつけ、蹴り飛ばす。だが、まるで分厚い防弾ガラスにでも阻まれたかのように、彼の拳も足も、虚しい音を立てるだけだった。
樹は、ふと、腕に抱えた縮刷版に目を落とした。
「……新聞の縮刷版って、確か、館内閲覧のみで、貸し出しは不可、なんだよね」
「え、そういうこと?!」
樹は、半信半疑のまま、縮刷版を元の引き出しへと戻した。それを確認した湊がもう一度、窓に手を伸ばす。今度は、何の抵抗もなく、するりと腕が外へ出た。
「マジだったわ。ルールに厳しいタイプみてぇだな、こっちの世界は」
湊が先に窓を飛び越えて、廊下へ出る。
「樹」
廊下から、湊の手が樹に向かって差し出された。
「ほら」
「うん」
樹は図書室側から、その手を強く握り返した。湊に引かれるまま、窓を飛び越える。
二人は五段飛ばしで階段を駆け降りて、灰色の学校を後にした。