プロローグ・2 神社
2025年 8月31日。
樹が高校一年生まで過ごした父方の故郷へ向かう新幹線は、密閉された静けさの中で速度を上げた。
車窓の外では、空を鋭角に切り取っていた灰色のビル群が密度を失い、背の低い建物と入り組んだ住宅街へ変わり、やがて河を越えた途端に視界がひらけた。
どこまでも続く稲田は、夏の日差しをたっぷりと吸い込んで光を返している。
高く昇った陽を浴びて、水の肌が瞬き、遠くには幾重にも重なる山並みが淡い藍の稜線を描いていた。都会で失われた色が、一つ、また一つと景色に戻ってくるかのよう。
規則正しく流れ去っていく電柱と、時折あらわれる送電塔。
単調な風景を目で追いながら、樹の意識は逆回転するフィルムのように、時間を遡っていった――あの、二度と戻らない夏へ。
新幹線で二時間、私鉄で一時間。
さらに単線のローカル線に揺られ、終点で降りる。
目的の駅は、自動改札すらない寂れた無人駅だ。
ホームへ降りた途端、濃い緑の匂いと、温水に飛び込んだように重い熱気が全身にまとわりつく。
錆びた駅名看板はわずかに傾き、ホームの端では、伸び放題になった夏草が風に身をあずけている。かつて通学の高校生で賑わったはずの待合室も、色の褪せたポスターが壁を埋めるばかりだ。
人の気配は、記憶よりもずっと薄くなっていた。
ジリジリと肌を焼く陽射し。穴だらけのアスファルトから立ちのぼる陽炎。
耳の芯で続くツクツクボウシの、焦るような声。
かつての夏も、こうだった。
駅を出てひび割れた舗装路を抜けると、視界は一面の青田に開ける。
陽炎が立つあぜ道を、遠くの山の青を目指して歩く。風が渡るたび、実りの重みを帯びた稲がさわさわと擦れ、しかし肌にまとわりつく空気は、秋の気配など微塵も感じさせない。
やがて道はゆるやかに山裾へ吸い込まれ、鬱蒼とした木々が強い陽を遮りはじめる。薄暗がりの奥、蝉時雨がいっそう厚く、深く響く場所に、目的地の神社はあった。
苔むした石の鳥居が、境界の標のように静かに佇んでいる。その先へ、記憶にも色濃い、心臓破りの石段が続いていた。
「湊……いるのか」
樹の問いかけに応えるように、風が鳴った。
蝉時雨を浴びながら、汗を滲ませて石段を登る。
一歩進むごとに、忘れていたはずの記憶の欠片が、足もとから浮き上がってくる。
「なあ樹、サイダー半分こしよーぜ」
「まーた難しそうな本、読んでんな」
「お前も寝転んでみろって。空が近いから気持ちいーぞ」
幻聴のように蘇る、あいつ――湊の声。
「きっつい……」
最後の一段を踏み切った途端、樹は膝に手をついた。
肩で大きく息を吸うたび、肺が灼けるような痛みを訴える。
石段が、ひどく長く感じる。
八月の終わりだというのに衰えを知らない陽射しが背中を灼き、ツクツクボウシがせき立てる。元より丈夫でもない身体は、五年間のデスクワークでなまりきっていた。
乱れた呼吸を整えて顔を上げると、古びた鳥居が変わらぬ姿で樹を迎えた。
その先には、音を吸い込んだように静謐な境内が広がっている。
一歩踏み入れると、さっきまで肌を刺していた熱が嘘のように和らぎ、空気がひやりと変わった。樹齢を重ねた楠や欅が天蓋のように空を覆い、絡み合う枝葉が外界の暑さと雑音を遮っている。地面には木漏れ日が淡いまだらを描いていた。
けたたましかった蝉の声もここでは遠く、ただ梢を渡る葉擦れだけが満ちている。
ひっそりとたたずむ拝殿。水の涸れた手水舎。
時が止まったかのようなこの場所は、いつだって二人だけのものだった。
誰にも邪魔されない、二人の「秘密基地」。
読書好きで一人を好む樹。部活帰りにアイスを片手に涼みに来る湊。
学校では交わらなかった二人が、ここでだけ、秘密を共有するようになった。
「湊……?」
境内を横切り、町を一望できる崖の手前まで進む。
緑のパッチワークのような田んぼと、合間を縫って敷かれた道と、点在する家々の屋根。
記憶の風景にくらべ、耕作を放棄されたらしい更地が少し増えている気がする。
時の流れが、風景を削っていく。
火傷しそうな手すりに前腕を預け、眼下のミニチュアのような故郷を眺める。
じり、と首筋を灼く陽が痛い。
樹は左手を目の前に掲げ、手首のブレスレットを、故郷の景色に重ねた。
「……あいつが、ここに」
掠れた声が、胸の底からこぼれる。
「来るわけ、ないか」
何年も、ずっと、考えないようにしていたこと。
心の底に沈め、決して開けないようにと鍵をかけた記憶の箱。
それなのに――ここへ来た途端、蓋はあっけなく外れてしまう。
湊。
そこにいるのか?
あの夏を、覚えているか。
お前が僕を、ここへ呼んだのか。
そのときだった。
「……っ」
くらりと、世界が揺れた。
足もとが遠のく。樹は思わず手すりを強く握った。
年々苛烈になる、殺人的な酷暑。
陽の光はもはや金色ではなく、目をくらませるほどに白く、暴力的に降り注いでいる。
熱中症か、と他人事のように思う。
季節の終わりを告げるサイレンのように鳴り響いていたツクツクボウシの声が、水底に沈んだように遠のく。
視界のピントが合わない。故郷の輪郭が陽炎のようにぐにゃりと歪み、ほどけていく。
茹だった大気がすべてを溶かし、世界は白い閃光の中へ滲み出した。
ああ、まずいな。
ここで倒れたら、誰にも気づかれないかもしれない。
そう思ったのに、不思議と怖くはない。
むしろ、白に包まれる感覚は、どこかやさしかった。
薄れていく意識の中、音の消えた世界の底から鮮やかに浮かぶのは、高一の、あの夏だ。
着崩した制服。手首のブレスレット。
樹、と名前を呼ぶ、少し悪戯っぽい湊の笑顔。
もう一度、会いたかった。
遠のく意識のふちで、懐かしい声がはっきり響く。
「なあ、樹。行ってみようぜ」
白い夏光が、音もなく世界を飲み込んでいった。