ep.16 記憶
夏休み十一日目。
灰色世界への冒険を休止して、四日目の朝。
樹は久しぶりに図書館へ行こうと、鞄の支度を始めていた。
宿題を済ませるため。そして、これまでノートに書き溜めてきた、あの世界の情報を整理し、改めて本で調べ物をするためだ。
樹の家から図書館へ行くには、町を東西に分ける大きな川を渡らなければならない。
相沢家や瀬戸口家があるのは、川の東側の山沿いに広がる住宅街。対して、川の西側には、大型スーパーなどの商業施設や、役所、そして樹の目的地である図書館が集まっている。
夏休み期間中、図書館は午前九時に開館する。樹は、その時間を狙って家を出た。
川に沿って、山裾をなぞるように続く車道を歩く。朝のうちはまだ日差しも優しく、アスファルトの熱も心地よい。川面が太陽の光を反射してきらきらと輝き、この時間は車通りが少なく、聞こえてくるのは水のせせらぎと、鳥のさえずり、そして遠い蝉時雨だけ。
その、真っ直ぐな道を歩いている途中だった。
不意に、こめかみを内側から針で刺されるような、鋭い痛みが走る。
「っ……!」
樹はその場に立ち止まる。
目の前が、古いテレビのように、ノイズ混じりの映像で乱れ始めた。
――はっ、はっ、ぜぇっ……!
息を切らしながら走っている、自分の足元。見慣れたスニーカーが、必死に地面を蹴っている。
――ひゅっ、こほっ、こほっ!
苦しそうな喘鳴。激しい咳。それでも、懸命に走っている。
緩慢に流れる景色は、まさに今、自分が歩いているこの川沿いの道。
道の向こう、川に架かる大きな橋が見えた。
そこに背中を丸めた、小さな人影が歩いている。
――おばあさん!
ビジョンの中の自分の声が、叫んでいた。小さな人影は、寝間着姿の老婆だ。自分は老婆がいる橋に向かって、喘息のような音を立て、激しく咳き込みながら必死に走っている。
「これって、予知……!?」
我に返った瞬間、樹は訳も分からないまま走り出していた。きっとこの先に、あの老婆がいる。そして、何か、良くないことが起きる。
やがて、遠くに古びた錆び橋が見えてきた。
いた。
欄干に、身を乗り出すようにしている人影。
寝間着姿の老婆だ。
橋の上から、対岸のどこかに向かって、懸命に手を伸ばしている。
「おばあさん!」
ビジョンの中と同じ言葉を叫んで、樹は橋の中央へと続く最後の直線に躍り出た。
老婆の体が、さらに前方へ傾く。片足が、欄干の外側へとぶらりと浮いた。
落ちる――!
樹は、残っていた全速力で、老婆の背後へと滑り込んだ。
「だめです!」
無我夢中で、その細い身体を後ろから抱きしめる。そのまま歩道側へと、力任せに引き剥がした。勢い余って樹は老婆を抱きしめたまま、背中からアスファルトに倒れ込む。
キィィッ!と背後で甲高いブレーキ音。通りかかった大型トラックがすぐそばで急停車し、運転席から、血相を変えた運転手が駆け寄ってくる。
「おい、大丈夫か坊主! おばあちゃん!」
それとほぼ同時に川下側から、影が飛ぶように走ってくるのが見えた。
「ばあちゃん! ……え、樹……!?」
息を切らした湊が、信じられないという顔で、倒れ込んだ樹と、その腕の中にいる自分の祖母を交互に見た。
「行かにゃ……行かにゃならん……!」
老婆は、まだ川の向こうへ行こうとするかのように、虚空に向かって必死に手を伸ばしている。
「ばあちゃん、俺だよ! 湊だよ! もう大丈夫だから」
湊がその手を握り、宥めるように語りかける。
すると、あれほど混乱していた老婆の瞳に、ふっと、穏やかな光が宿った。
焦点が、ぴたりと湊の顔に合う。
「……湊?」
それは、いつものヒステリックで子供に返ったような声ではなかった。
「湊。おとうちゃんのタンスの、二番目の引き出しだよ」
湊の遠い記憶にも残っている、優しくて、芯の通った声。
「え?」
「おとうちゃんのタンスの引き出しを開けなさい。番号はね、0305だよ」
「ばあちゃん……?」
「0305。いいかい、覚えるんだよ」
祖母の口元が、綻ぶように微笑んだ。
そこへ、さらに川下側から、湊の母親が追いついてきた。台所から飛び出してきた、エプロンとサンダル姿で。
「お義母さん!」
涙ながらに、彼女は義母の身体に抱きつく。
「なんだい千恵子さん。甘えん坊さんだねぇ。よし、よし」
その声と、背中を優しく叩く手つきは、子育てに疲れた若い嫁を励ました頃の、昔の優しい姑そのものだった。
「……」
樹は、瀬戸口家に起きた何か小さな奇跡を。その中心で祖母の手を強く握りしめる湊の横顔を、静かに見つめた。
*
祖母の徘徊が悪化したことを受けて、瀬戸口家の長女と長男が、週末を待たずに相次いで里帰りをした。それからの展開は、怒涛だったと、後に樹は湊から聞いた。
湊が祖母から託された言葉を頼りに、納戸の奥にしまい込んであった開かずの箪笥、その二番目の引き出しに隠されていた小さな金庫を暗証番号で解錠したところ、中から出てきたのは、一本の貸金庫の鍵。それは、川の対岸の町にある銀行のものだった。
高校生二人に難しいことは分からないが、とにかく、祖父が家族のために遺した物のおかげで、祖母は瀬戸口家からほど近い老人ホームへ入居できることになりそうだ、という。
「そうなんだ。良かったね……!」
久しぶりに訪れた、二人だけの秘密基地。神社の濡れ縁に並んで腰掛け、湊のおごりのソーダアイスをかじっていた。
「樹。マジで……ばあちゃんのこと、助けてくれて、ありがとうな」
「もういいって」
樹は、照れ臭さを隠すように、アイスに大きくかじりついた。数日前、湊が家族全員を連れて、相沢家へ正式な御礼に訪れたばかりなのだ。あの時は、事情を聞いた樹の両親も祖父母も、そろって涙腺を緩めていた。
「おばあちゃん、家族のために一生懸命、大事なことを思い出そうとしてくれてたんだね」
橋の上から、川の向こうへと懸命に手を伸ばしていた姿。あれは、川の対岸にある銀行の貸金庫の場所を示そうとしていたのかもしれない。
「ってわけだからさ!」
不意に、湊が勢いをつけて濡れ縁から地面に飛び降りた。そして、くるりと樹の方へ向き直る。
「『落とし物探し』、またやろうぜ!」
いつもの、にかりとした太陽みたいな笑顔。その奥に、重荷を下ろした安堵が滲んでいる。
「うん、行こう!」
樹も大きく頷くと、アイスの棒を口から離し、湊の隣へと飛び降りた。
止まっていた二人の特別な夏休みが、再始動した。




