ep.15 家族
夏休み十日目。
灰色世界への冒険を休止して、三日目の朝。
相沢家の居間は、朝食を終えた後の穏やかな空気に満ちていた。
大きなローテーブルを囲み、祖父母はお茶をすすり、父は新聞を広げ、母と弟の陽は和やかにテレビを観ている。
「樹、最近は湊くんと遊びに行かないの?」
不意に、母親が尋ねた。
夏休みに入ってから毎日のように出かけていた息子が、ここ数日、ずっと家にいることを心配しているのだろう。
「うん……まあ、宿題もしないといけないし。ちょっとだけ、お休みしてるだけだよ」
「そう。最近、変な事件も多いから、お母さん心配してたのよ。遊びに行くのはいいけど、門限は守ってね。湊くんにも、あまり迷惑かけちゃだめよ」
「うん……そうだよね」
樹が曖昧に頷くと、テレビのニュースキャスターが、夏休み中の子供の事故や、遠隔地で起きた誘拐事件について、深刻な声で伝えていた。
こうして休んでいる間にも、あの灰色の世界では、誰かの助けを待つ「落とし物」が、静かに光っているのかもしれない。助けられるはずだった人が、助けられないまま、悲しい結末を迎えてしまうのではないか。
樹はここ二日間、自分が見た凄惨なビジョンが原因で「落とし物」探しが中断してしまっていることに、ずっと罪悪感を抱き続けていた。
世界中で起きている大きな事件に比べれば、自分たちのしていることは、ちっぽけな町内での人助けに過ぎない。
けれど、それでも。何もしないより、ずっといい。できることがあるのなら、やるべきだ。
静かな決意とともに樹は居間をそっと抜け出すと、自室から湊にメッセージを送った。
『宿題、調子どう? そろそろ再開しませんか。僕はもう元気だから』
既読の印は、なかなかつかなかった。
*
その頃、瀬戸口家では、騒動が起きていた。
「いやあああ! あたしは行かないよぉ!」
階下から、祖母の甲高い泣き声が響き渡った。
慌てて湊が様子を見に行くと、居間で、祖母が母の千恵子にすがりついて、子どものように泣きじゃくっていた。
「あたしをここから追い出そうっていうんだろ! 鬼みたいな嫁だ!」
「お義母さん、違います……、ちゃんとお世話して下さるところのほうが……」
「ホームなんて行かん! おとうちゃんと離れたくないんだよぉ!」
テーブルの上には、老人ホームのパンフレットが数枚、散らばっていた。
この数ヶ月、ずっとこの繰り返しだった。
遠くに住む姉や兄からの助けが望めないと悟った母は、ケアマネージャーへの相談を始めていた。
だが祖母は、母が目を盗んで隠したはずの資料やパンフレットを、どういうわけか必ず探し出しては、こうして泣き喚いて暴れる。身体だけは丈夫なために、施設の順番がなかなか回ってこないことも、月を重ねるごとに母親を疲弊させているのは明らかだった。
結婚して小さな子どもがいる姉には頼れない。
東京でブラック企業に勤める兄は、休みもろくに取れない。
自然と、湊が出した結論は、一つ――俺が、頑張るしかない。
その日も、嵐のような騒動の後、ようやく祖母が落ち着いて昼寝をしたのを見計らい、湊と母親の千恵子が、納戸になっている部屋の整理を一緒にしていた。
開け放たれた襖の先は、薄暗く、埃と樟脳の匂いが混じり合って鼻をつく。使われなくなった古い家具や、季節外れの家電、誰のものか分からない卒業アルバムなどが、無造作に積み上げられていた。
「手伝ってくれて助かったわ。なかなか私ひとりだと、手がつけられなくてね。本当は、お姉ちゃんやお兄ちゃんが帰ってきてくれたら、一緒にやれたんだけど……」
この夏休み、湊の姉と兄がどちらも帰省しないとの連絡があったばかりだった。千恵子の声には、隠しきれない寂しさが滲む。
「いいっていいって。なんか宝探しみたいで、結構おもしれーし」
湊は明るい調子で答えながら、段ボール箱から出てきた古いクッキーの缶を開けた。中には、色褪せた写真が、ぎっしりと詰まっている。
「うわ、母さん、わっけえ、かわいいじゃん!」
「やだ、見ないでよ」
照れながらも、千恵子は湊の隣に座り込み、懐かしそうに写真の一枚を手に取った。
「おばあちゃんね、本当に優しかったのよ。あなたたちが小さい頃、子育ても家事も、何から何まで手伝ってくれて……。だから、お母さん、ちゃんとお返ししないとって思うんだけどね……」
だからこそ、今の状態が辛いと語る母の声は、震えていた。
湊は、何も言わずに、ただ頷いた。
母と子が、思い出話に静かに微笑み合っている。
その様子を、開け放たれた襖の隙間から、影になった廊下で、祖母がじっと見つめていることに、二人は気づかなかった。
そして夕方。
夕飯の支度をする母親の見えないところで、事件が起きていた。
「あら、お義母さん?」
気づいた時には、いつも閉まっているはずの祖母の部屋の襖が開いており、玄関の引き戸も、わずかに開いていた。
「ばあちゃん!」
湊は二階の自室の窓から、夕暮れの道を一人で覚束ない足取りで歩いていく祖母の姿を見つけ、教科書を放り出して階下へ駆け下りた。
慌てて樹が外へ飛び出して追いかけると、二軒先の家の前で近所の奥さんが祖母の腕を掴んで引き止めてくれているところだった。
遅れて、母親も血相を変えて家から出てくる。
「お義母さん、どこへ行こうとしてたんですか!」
「うるさい! 離せ! あたしは行くところがあるんだ、行かなきゃならんのだ!」
祖母は、母親の手を振り払い、暴れた。
「ばあちゃん、俺と散歩行こうぜ。な?」
湊が祖母の痩せた肩を優しく抱き寄せると、あれほど荒れていた祖母は、ぴたりと動きを止める。
「……湊かい。ああ、そうしようかね」
「俺とばあちゃんでゆっくり帰るから、母さん、先に戻ってていいよ」
湊が言うと、母親は疲れ切った顔で、近所の奥さんに何度も頭を下げていた。
祖母を部屋へ連れ戻し、ようやく寝付かせた後、湊は台所へ向かった。
ダイニングの棚に向かって、母親が、俯いて立っている。その肩が、小さく震えていた。
「もう……っ」
絞り出すような、嗚咽が聞こえる。
「早く、死ねばいいのに……っ!」
「……」
湊は、その場に凍りついた。聞こえてはいけない、母親の心の叫び。
足音をたてないように少し戻ってから、湊はわざと大きな足音を立て、底抜けに明るい声を作った。
「母さん、腹へったー! 」
びくり、と母親の肩が跳ねる。慌てて涙を拭うと、
「おかえりなさい。おばあちゃんのこと、ありがとうね」
と、無理に作った笑顔で振り返った。棚の上に何かを戻してから、小走りに台所へ向かう。
湊の目は、ダイニングの棚に置かれた写真立てを見やった。
それは、十五年ほど前の家族写真。
まだ若く、幸せそうに笑う母。今は亡き父と祖父、父にくっついている幼い頃の姉と兄。
そしてその中心で、まだ赤ん坊の湊を満面の笑みで抱きしめているのは、今とは別人のように若々しく、優しい顔をした祖母の姿だった。
*
夕飯を終え、湊が自室のドアを閉めると、ようやく一人の時間が訪れた。机の上に置きっぱなしにしていた二つ折りの携帯電話が、ちかちかと緑色の受信ランプを点滅させている。
開くと、数通の未読メッセージ。
部活の仲間からの他愛ない近況報告、クラスの女子からの「夏休みヒマ?」という探るようなメール。
それらに、「おう」「ヒマじゃねーよ!」とだけ素早く返信してから、一番下にある名前に指を合わせた。
『相沢 樹』
メッセージを開くと、画面の向こうから、樹の少しだけ不安そうな、けれど期待に満ちた声が聞こえてくるようだった。
『宿題、調子どう? そろそろ再開しませんか。僕はもう元気だから』
灰色世界への冒険と、「落とし物」探しの誘い。
「堅いな~、樹らしいけど」
湊の口元が緩む。
家の重たい空気から解放してくれる、二人だけの秘密の冒険。
もちろんだ、行こうぜ、と返信を打ちかけた、が、指が強張って止まる。
樹からの、優しい誘い。
今すぐ「行く」と返事をして、明日、すべてを忘れて冒険に出かけられたら、どれだけ楽だろう。
母の疲れ切った背中と、祖父の記憶にすがりついて泣く祖母の姿が、鉛のように湊の心と体を重たくする。
湊は、ディスプレイを睨みつけ、迷った末に、当たり障りのない返事を打ち込んだ。
『宿題もうちょっと時間かかるからまた連絡する!』
すぐに、樹から返信が来た。
『宿題、よかったら一緒にやらない? 図書館でもいいし、秘密基地でもいいし』
その誘いに、再び湊の心が揺れる。
行きたい。
樹と、秘密基地の神社へ。
あの静かで穏やかな空間へ。
あそこにいる時は、樹の前では、無理に騒いだり笑ったりする必要なんてない。
ただ、沈黙を共有するだけでも良い。
湊はぐっと唇を噛むと、震える指先で、返信を打ち込んだ。
『サンキュ! たまには自力で何とかしねーと。どうしても困ったらまたヘルプ頼む~(号泣する顔文字)』
送信ボタンを押すと、湊は携帯電話をぱたりと閉じた。
受信ランプは、もう光らない。
夏の夜の重たい沈黙が、部屋に満ちていた。




