ep.14 休息
夏休み七日目。
その日、二人が灰色の世界で見つけたのは、プロ野球チームのロゴが入った、鮮やかな青いキャップだった。
湊の「何かを追いかけてるみたいな感じがする」という感覚を辿った先、ごつごつとした岩が転がる、干上がった川原にそれは落ちていた。
キャップを拾い上げ、湊は頭上を見上げた。
十数メートル上に、岸から岸を架ける橋がかかっていた。欄干にはフェンスが張り巡らされている。
「野球のキャップ?」
樹がそのキャップに視線を落とした瞬間、これまでで最も強烈で、悪夢のようなビジョンが樹を襲った。
風に飛ばされたキャップが、生き物のように、ふわふわと宙を舞っている。
それを、小さな男の子が追いかけていく。
夢中になった少年が橋から身を乗り出して欄干の向こう側へ――キャップが、そして少年自身が、吸い込まれるように落ちていく。
眼下に迫る、無数の鋭い岩肌、そして――
「わぁああああっ!」
樹は絶叫し、後ろに倒れるように腰を抜かした。
「樹!?」
湊が咄嗟に樹の身体を抱き止める。踏ん張った足が、ガラスの粒でギュギュッと軋むような音を立てた。
「はっ……、はぁ……はぁ……っ」
樹は湊の腕の中で、自分の身体を抱いてがたがたと震えている。
「何が見えたんだ?!」
「橋、あの、赤い大きな橋から、男の子が、落ち……! すぐ、戻らないと……っ」
「赤い橋……分かった! 樹、立てるか!」
湊に支えられながら、樹は何とか立ち上がった。
いつもの秘密基地の神社に戻ってきても、樹はもう一歩も動けなかった。湊は灰色世界で拾ったキャップを、樹の手に握らせる。
「俺、行ってくるから! 樹はここで、休んでろ! 絶対に動くなよ!」
返事も待たず、湊は石段を飛ぶように駆け降り、麓に止めた自転車に飛び乗ると、ペダルが壊れるほどの勢いで赤い橋へと向かっていった。
一人残された樹は、お社の段差にずるずると座り込んだ。
両膝を抱え、俯く。
身体の中心が、ひゅんと冷たくなるような恐怖に、何度も鳥肌が立って止まらない。
ここ二日ほど、事故に関係する「落とし物」が急に増えた。
夏休みや帰省シーズンで、子供たちの行動範囲が広がっているせいだろうか。
今日一日だけでも、似たような事故の落とし物は三件目だった。
湊に「人助けは楽しい」と言ったのは本心だ。誰かの役に立てることは嬉しい。けれど、こうも痛ましく凄惨なビジョンが続くと、意思とは裏腹に身体が鉛のように重くなり、足が震えて動けなくなっていた。
樹はしばらく膝を抱えたまま、蝉の声も聞こえないほどに両手で頭を抱えて、自分の世界に閉じこもった。
だがしばらくすると、すぐそばに柔らかな温かみを感じる。樹は顔を上げた。
「あ……」
腰掛けた段差の横に置いていた青いキャップが、自ら光を放ち始めていた。
いつものように落とし物は、きらきらと輝く無数の粒子となり夏の空へと溶けるように消えていく。
間に合ったんだ。
湊が、キャップの持ち主の子を、助けてくれたんだ。
心底安堵した瞬間、張り詰めていたものが涙になって溢れ出す。
樹は、しゃくりあげる呼吸を必死に抑え込みながら、ひたすら湊の帰りを待った。
早く、早く帰ってきて、と。そればかりを心の中で繰り返す。
夕暮れのひぐらしの声が、やけに悲しく耳に響いた。
程なくして、麓の方から、がしゃん、と乱暴に自転車を倒す音がした。続いて身軽な足音が、一息に石段を駆け昇ってくる。
「樹!」
鳥居を潜って境内に足を踏み入れた湊が、樹の正面に駆け寄り、その場に屈んだ。
ぜえ、と湊の荒い息がすぐそばで聞こえる。
「樹、大丈夫か? 具合は?!」
ひやり、と頬に冷たい感触があった。樹が泣き腫らした顔を上げると、水滴をびっしりとつけたスポーツドリンクのボトルが、目の前に差し出されていた。
「……キャップの子は?」
かすれた声で尋ねると、湊はボトルを樹の手に優しく握らせながら、こくりと頷いた。
「ああ、大丈夫だ。橋から落ちる前に、俺がキャップを拾ってやった。お前の持ってたキャップは? 消えただろ?」
「うん……そっか、良かった……」
樹は、水滴が浮かぶボトルを、熱い額に押し当てた。目眩を、恐怖を、すべて吸い取ってくれるような気がして心地よい。
樹の表情が少し和らいだのを見て、湊は心底ほっとして隣に腰を下ろした。
「なあ、樹」
湊が、改まった声で切り出した。
「あっちの世界へ行くの、しばらく休もう」
「え……? 僕は大丈夫だよ……」
「大丈夫じゃないだろ」
樹のわかりやすい強がりは、湊にはお見通しだった。
「ヒーローにも、休暇は必要なんだぜ。それによ、夏休みの宿題もしなきゃだしさ」
その不器用なフォローが、完全に自分を気遣ってのことだと、樹には痛いほど分かっていた。自分のせいで、湊の楽しみを奪ってしまうことが、樹には申し訳なかった。
だけれど、湊が本心から樹の心身を案じていることも、痛いほどに伝わる。
痛ましい事故のビジョンを見るたびに、樹の心がひび割れそうになっているのも、本当だ。
しばらくの沈黙のあと、やがて樹は小さく頷いた。
「……うん。分かった」
こうして、二人が始めた「落とし物」を探す冒険は、しばしの休止符を打つことになる。
やがて、麓の町から五時を告げる町内放送の、少しひび割れた寂しげなメロディが風に乗って届いた。
最後の日差しが境内を斜めに長く横切り、木々の葉の一枚一枚を金色に縁取っていた。昼間の暴力的な暑さは和らいだが、風はまだ夏の熱を名残惜しそうに含んでいる。
ひぐらしが町内放送のメロディを引き継ぐように、郷愁を誘う声で鳴き始めた。