ep.13 何でも屋
翌日。樹のノートの日付は7月28日。
灰色の世界に足を踏み入れた瞬間、湊が顔をしかめた。
「……なんか、すごい悲しい感じがする」
その漠然とした感情をたどった先、田畑に沿って続く広い歩道で、最初の「落とし物」は見つかった。アスファルトの亀裂から、ペット用の赤いリードが、淡い光を放っている。
「何か、見えるか?」
湊がそれを拾い上げ、樹の前に掲げた。
「女の子が、泣いてる。柴犬を、逃しちゃったみたいだ」
樹の脳裏に浮かんだビジョンは、小学生くらいの少女が、手から滑り落ちたリードを握りしめて泣きじゃくる、というものだった。
「よし、今度はペット捜索だな。逃げ出す前に確保!」
湊が、いつもの調子で神社へ戻ろうとした、その時だった。
「え……」
湊の足が、その場に縫い付けられたようにぴたりと止まる。
「どうしたの?」
「なんか……すげぇ、『助けて』って……。怖がってるみたいな感じが……」
湊の顔から、いつもの明るさが消えかけていた。
「こっちだ」
走り出した湊を、樹は追いかける。
灰色の世界では身体が軽い。運動部の湊に必死でついていくのも、さほど苦ではなかった。
辿り着いたのは、錆びついたトタン屋根が連なる工場跡地。
フェンスを軽々と飛び越えて敷地に入り、二人は、湊が「感じる」という場所へ向かう。
割れた窓から中へ侵入した、巨大な廃工場の内部。
そこに、ぽつんと、ペット用の赤い首輪が落ちていた。
「これ、もしかしてさっきのリードの……?」
追いついた樹が、その首輪に視線を落とした瞬間、こめかみを鋭い痛みで刺された。
「っぃた……!」
――キャン! キャン!
けたたましく吠える、犬の悲鳴。
ビジョンの中で、犬は何度も蹴りつけられ、細い身体をくの字に折り曲げている。逃げようとしても、引き戻され、殴られて、蹴られる。激しくぶれる映像の中に、グレーのシャツと、黒いズボンが見えた。
「や、やだっ……!!」
あまりに暴力的なビジョンに、樹は両手で空気を振り払うようにして、その場に尻餅をついて頭を抱えた。
「樹!?」
すぐさま樹に寄り添うように、湊がその肩を両手で揺さぶる。
樹はぎゅっと目を閉じたまま、いやいやと首を振った。
「目を開けろ、樹!」
「やだ、やだ! 見たくない――」
「俺を見ろ!」
湊の強い声に、樹が、はっと目を開ける。ぐしゃぐしゃに泣き濡れた樹の顔を、湊が真剣な眼差しで覗き込む。その瞳に映る自分の情けない顔に、樹はさらに涙がこみ上げた。
「何が見えたんだ!」
「よく、分からないけど……犬が、ここで、誰かに酷いことされて……っ」
「行こう!」
湊は、樹の身体を抱き起こすように立ち上がらせる。
「走れるか」
樹が頷くのを見るや否や、湊はその手を強く握り、走り出した。
繋がれた手のひらから伝わる熱が、冷えてひび割れかけた樹の心に温い水となって染み渡る。
夏の世界に戻り、最初にリードを見つけた場所へ向かう。
前方を、赤いリードで柴犬を散歩させている女の子が歩いていた。
首輪も、赤だ。
「あの犬だ!」
湊が叫んだ、その時だった。
すぐ脇の車道を走っていたトラックが、「プワァ!」と一発、大きなクラクションを鳴らした。
途端、犬が驚いて暴れ、魚のように身体をくねらせる。リードが繋がったハーネスから、体がすっぽりと抜けた。
「モモ!」
女の子の悲鳴が響く。
犬――モモは、パニックに陥り、山側の深い茂みの中へと走り込んでしまった。
湊が弾丸のような速さで女の子を追い抜き、茂みに飛び込む。
遅れて追いついた樹は、泣き出しそうな女の子に「大丈夫。ワンちゃん、一緒に探そう」と声をかけた。
湊は、藪をかき分け、鬱蒼とした竹林の中へと進んでいく。
「モモー、出てこーい!」
声をかけながら犬を探していると、不意に、背後から別の声がした。
「どうした、何か困ってるのか?」
藪を分け入り、一人の男が近づいてくる。グレーのシャツに、黒いキャップ。肩には、ぺちゃんこのリュックを引っ掛けている。近所の作業員だろうか。
「すみません! 犬を探してるだけなんで、大丈夫っす!」
「犬? 手伝おうか」
男がさらに近づこうとした、その時だった。
女の子の手を引いた樹が、後ろから追いついてきた。
「あっちの作業小屋の方にいたよ!」
「おお、ナイス!」
湊が「見つかったみたいっす、んじゃ!」と男へ一礼する。
男は「そうか。良かったね」と短く答えると、興味を失ったように、また歩道の方へと戻って行った。
「……」
樹の目が、去っていく男の、グレーのシャツの背中をじっと見つめていた。
ヴィジョンで見た服装と似ている?
まさか。グレーのシャツの人なんて、いくらでもいる。
そう結論付けて、犬が隠れている方へ踵を返した。
発見された犬は朽ちかけた作業小屋の影で、おしっこを漏らし、ぶるぶると震えていた。
*
女の子は、何度も振り返って二人に頭を下げると、怯える愛犬をしっかりと抱きしめ、もと来た散歩道へと帰っていった。
遠ざかっていく二つの小さな後ろ姿を、樹と湊は並んで見送っていた。夏の強い日差しがアスファルトを白く光らせ、陽炎の向こうで、少女と犬の影がやがて小さく溶けていく。
しばらくして、二人がそれぞれ握っていた赤いリードと首輪が、ふわりと熱を帯びた。見れば、それは鮮やかな光の粒子となり、夏の青空へと吸い込まれるように昇っていく。
「……ヒーローっていうより、何でも屋、だね」
すべてが消え去った後、樹が冗談めかして呟いた。
「……んだな」
湊の、気の抜けたような相槌が返ってくる。樹がちらりと隣の湊の横顔を見上げると、その表情からいつもの快活さが消えていることに気づいた。
「今回も、走らせちゃってごめんね。大丈夫だった? こっちだと僕、足が遅くって……」
樹が申し訳なさからそう言うと、湊は何かに気づいたように「んなことより」と、樹の顔をまっすぐに見てきた。
「お前こそ、大丈夫かよ。さっき、なんかすげぇ苦しそうだったし」
「あ、えーっと……」
廃工場でひどく取り乱したことを思い出し、樹は気まずくなって目を伏せる。
「ごめん、驚かせちゃったよね……」
「違うって!」
湊の声が、少しだけ強くなる。
「辛いもんが見えちまったんだろ? 俺、『事件とか起きねーかなー』なんて……ごめん。そういうのって、樹が苦しい想いするだけだってこと、気づかなかった」
「湊……ありがとう。そこまで、考えてくれたんだ」
樹は、心配そうに自分を覗き込む湊の瞳を見て、努めて明るく頷いた。
「大丈夫。みんなが喜んでくれるのが嬉しいし、湊と一緒に人助けするの、楽しいよ」
湊の表情がわずかに和らぐ。
「……俺も、楽しい」
そして、真剣な目で付け加えた。
「でも、樹に無理させたくねぇから。無理な時は、無理って言えよ。約束だからな」
「うん」
樹が力強く頷くと、湊は、心底ほっとしたような顔をした。
「よし、次行こ!」
樹が拳を握って見せると、湊は「おう!」と、いつもの笑顔を取り戻した。
二人は、秘密基地への道を引き返し始める。
夏の光が、二人の影を仲良く並べて映し出していた。