ep.12 お使い
樹のノートの日付は7月27日。
夏休みが始まって、三日目だ。
その日、灰色の世界に足を踏み入れた瞬間、湊は唐突に走り出した。
「やべぇ、いそがなきゃ……!」
「え、ど、どうしたの!?」
「わかんねぇ、でも、どうしても急いで行かないと!」
訳がわからないまま、樹は湊の背中を必死で追う。
辿り着いたのは、単線のローカル線が終点となる、町の駅前だった。
大きな街にあるような立派なロータリーではない。古びた無人駅の建屋から少し離れた場所に、錆びついた標識が立つバス停が、ぽつんと孤独に佇んでいるだけだ。
時刻表の文字は掠れ、バスは三十分に一本、時間帯によっては一時間に一本しか来ないことがわかる。
そんなバス停の、古くて小さなベンチの上。
一枚の切符が、淡い光を放って落ちていた。
手に取ってみると、それは東京発、この町がある市内の新幹線停車駅までの切符だった。
樹がその文字を読み取った瞬間、瞼の裏に、鮮明なビジョンが流れ込んできた。
スーツ姿の中年サラリーマンが、息を切らしてこのバス停に駆け込んでくる。
だが、バスは発車した直後で、無情にもその赤いテールランプが道の向こうへと遠ざかっていくところだった。
辺りを見回しても、タクシー乗り場などない。
男は、がっくりと膝から崩れ落ちそうになる。
その時、彼のポケットで携帯電話が鳴った。
――はい、はい、いま駅に……え、もう危ない……? すぐ、すぐ向かいますから!
泣きそうな声だった。
電話の向こうの誰かに、必死に懇願している。
「っ……!」
樹は我に返って顔を上げた。
いつの間にか、呼吸を止めていた。
胸が締め付けられるように痛い。
「どうしたんだ、何が見えたんだよ……」
樹の切羽詰まった様子に、湊が恐る恐る問いかける。
「駅前から出るバスって、確か、市民病院行きがあったよね……」
「あ、ああ。うちのばあちゃんも世話になってる、大きいとこ」
「戻ろう! バスを引き止めるんだ!」
元の世界に戻った二人は、駅まで全力で走った。
だが、ここでは、二人の足の速さには歴然とした差がある。
「湊、病院行きのバス、止めて!」
樹は、先行する湊の背中に向かって喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「お、おう!」
湊は一度だけ振り返ると、ギアを上げるようにさらに加速する。
駅が見えてきた。
バス停に、白い車体のバスが停まっている。
まさに、エンジンを唸らせ、ドアを閉めようとするところだった。
湊が、開いたままの乗車口へ滑り込む。
「すみません、もうちょっとだけ待ってください! 友達が、来るんで!」
湊は道の向こう、鈍足を必死に動かす樹の姿を指さした。
人の好さそうな運転士は、その様子をバックミラーで確認すると、
「ああ。無理せんでええよ。待っとるからね」
と苦笑した。
その時だった。単線の駅に到着した電車の車両から、スーツ姿のサラリーマンが、鬼の形相で飛び出してきた。無人改札を走り抜けて、バス停に向かってくる。
「あの人か」
湊が道を譲ると、サラリーマンは運転士へ「市民病院、行きますか!」と必死な声で尋ねる。「行きますよ。もうすぐ発車です」という運転士の言葉に、男は転がり込むようにして乗車した。
「あ、バス、間違えたみたいです! すみません! お騒がせしました!」
湊は、運転士へ深々と頭を下げる。
「待って下さったのに、すみません!」
追いついた樹も、隣に並んで頭を下げた。
「あら、そうなの?」
運転士はきょとんとしていたが、やがてドアを閉める。
サラリーマンを乗せたバスは、ゆっくりと駅を離れていった。
遠ざかるバスを、二人は黙って見送っていた。
「……こういう、人助けのパターンも、あるんだね」
樹が呟く。
「間に合った、かな」
湊が、切符を握りしめていた手のひらを、そっと開いた。
切符は夏の光を浴びて、きらきらと輝く粒子となり、空へと溶けるように消えていく。
「間に合ったよ。絶対に」
「……んだな」
二人はバスが走り去った方向を、しばらく見つめていた。
駅前から伸びる道は、青々とした田んぼの間を縫って、どこまでも一本の線のようにまっすぐ続いていた。陽炎が立ち上るアスファルトの向こう、豆粒のように小さくなったバスが、夏の光に霞む青い山並みに向かって、ゆっくりと進んでいく。
あのバスに乗った男性の、そしてその先にいる誰かの大切な時間に、どうか間に合いますように。
樹と湊は祈るような気持ちで、バスが陽炎の向こうに見えなくなるまで、ずっとその行方を目で追っていた。
遠ざかるバスのエンジン音に代わって、再び蝉時雨が二人の世界を支配していた。
*
そんな劇的な落とし物もありつつ。
夏休み最初の三日間は、あっという間に過ぎていった。
二人はこの三日間、灰色の世界で光る「落とし物」を見つけては、夏の世界の同じ場所へ出向き、持ち主の手に返すか、失くさないように先回りして声をかける、という活動を繰り返した。
落とした財布を届けた時。
無くした本を見つけてあげた時。
その度に、持ち主たちからは心からの感謝を受けた。
誰かの役に立っているという実感は、少年二人の胸を誇らしい気持ちで満たした。
だが、やりがいと同時に、似たようなことの繰り返しに、どこか物足りなさを感じてしまうのも、人間の性なのかもしれない。
「あー……なんかこう、事件みたいなの起きねーかなー」
三日目「落とし物クエスト」を終えた二人は、秘密基地である神社の境内で、恒例の「反省会」を開いていた。
山鳩の声が、茜色に染まる空に寂しげに響き渡る。一日中、世界を焦がしていた太陽が、山の稜線へと沈んでいく時間。樹のノートを日誌代わりに、その日の成果を記録するのが、二人の日課になっていた。
パキリ、と乾いた音を立てて、湊が青いソーダアイスを半分に割る。大きい方を、当たり前のように樹に手渡した。
「ダメだよ、そんなこと言っちゃ。平和が一番なんだから」
アイスをかじりながら、樹が窘める。
「わかってるけどさー。お使いクエストばっか、っていうかさ。ヒーローつったらこう、悪者を倒したりしたいじゃん?!」
「そんな漫画みたいにはいかないって」
樹は苦笑した。
異世界へ行き来しているこの状況自体が、十分に漫画のような出来事のはずなのに。
いざ体験してみると、現実は意外と地味なものなのかもしれない。
『ピンポンパンポーン』
麓の町から、五時を告げる町内放送のチャイムが、夕暮れの風に乗って聞こえてきた。
「お。ぼちぼち、帰るか」
「うん」
放送が聞こえたら解散する。
それは、いつからか二人の間にできていた、暗黙のルールだった。
樹は瀬戸口家の介護の事情を知っていたし、湊もまた樹が病弱気味で、疲れやすい体質であることを知っている。
互いの日常を壊さないための、二人なりの、静かで優しい気遣いだった。
「んじゃ、また明日」
「ああ、また明日な」
バットケースやリュックなどの「冒険セット」を、いつものようにお社裏の縁の下に押し込んで隠し、二人は並んで石段を下りていった。