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夏の異界  作者: キタノユ
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ep.10 それぞれの朝食

 夏休み初日の朝。

 蝉時雨が、まるで降り注ぐ太陽の光そのものに音をつけたかのように、世界に満ちている。


 相沢家の朝は、いつも静かで規則正しい。

 樹が暮らしているのは、父方の実家である。

 裏山を背負うようにして建つその家は、太い梁が黒光りする高い天井と、丁寧に手入れされた庭を持つ、典型的な日本の農家屋敷だった。

 夏の日差しも、深い軒と縁側の先の障子を通り抜ける頃には、畳の上を照らす柔らかな光へと姿を変えている。


 ちゃぶ台代わりの大きなローテーブルが置かれた広い畳の間で、一家は食卓を囲んでいた。祖父と祖母、東京から戻ってきた父と母、そして樹と、十歳離れた弟のはる。味噌汁の香りと、焼き魚の匂い、そしてテレビの朝のニュース番組が立てるBGMだけが、穏やかな空間に満ちていた。


「陽、こんど川に遊びに行かない? ママ友に誘われちゃったの」

 母親が、ご飯を頬張る弟に尋ねた。陽は「いく!」と目を輝かせる。


「樹もどう? みんなで行けば楽しいわよ」

 水を差さないように、母親は努めて明るい声で樹を誘った。家族が東京からこの町へ越してきた理由は、樹が病弱な体質であり、樹がそれを気にしていることを理解しているからだ。


「……んー、まあ、行けたら行く」

 曖昧に返事をすると、それまで黙って新聞を読んでいた父が、顔を上げた。


「樹は、夏休みに何か予定があるのか」

「え……あ、うん」

 まさか父から話を振られるとは思わず、樹は少しどもる。

 嘘をつくのは苦手だった。


「友達が……町内を、色々案内してくれるって」

 口にした途端、少しだけ、誇らしいような気持ちになった。「友達」という言葉の響きが、まだどこか気恥ずかしい。


「クラスの子か?」

「うん。瀬戸口湊くんって子」

 その名前が出た瞬間、母親の箸の動きが、ほんのわずかに止まった。その表情が、気のせいか少しだけ曇る。


「あぁ……瀬戸口さん」

「知ってるの?」

「ええ。ご近所の方から、少しだけね。瀬戸口さんのお家は、義理のお母さんの介護が大変だって聞いたわ。湊くんも、きっと夏休みはお手伝いがあるでしょうから、あまり無理して誘っちゃだめよ」

「そう、だったんだ……」


 樹は、快活に笑う湊の顔を思い浮かべた。

 そんな素振りは、微塵も感じさせなかったのに。


「上のお姉さんは、外へお嫁に行って、子どもが生まれたばかりだっていうし。お兄さんも、東京で働いているみたいでね。奥さん一人で、色々と大変みたいなのよ」


 その言葉に、祖母が「まあ」と眉をひそめ、隣の祖父の腕を軽く叩いた。


「お父さん、私らも梨花さんの迷惑にならないように、健康で元気でいなきゃいかんね」

「ああ、そうだな。朝のラジオ体操に参加するかのう」


 冗談まじりなおどけた表情で頷きあう祖父母に、梨花――樹の母親は、「あ……ごめんなさい、お義母さん、お義父さん! そんなつもりじゃ」と慌てて手を振った。


 相沢家の食卓が、ふわりとした温かい笑いに包まれた。



 一方、瀬戸口家。

 こちらも、田舎町によくある、瓦屋根の典型的な一軒家だ。

 だが、相沢家とは違い、その内部は、後から増設されたのであろう手すりが壁のあちこちに取り付けられ、床のいたるところにスロープも設置されている。玄関の隅には、折りたたまれた車椅子が置かれていた。


 台所とひと続きになった、手狭な食卓。

 湊が一人でトーストをかじっていると、母親の千恵子が、少し離れた場所でガラケーの携帯電話を耳に当てていた。


「……ええ、そうなの。うん……夏休みは、帰らない?……お受験? そんな、まだ早いでしょうに……大変ねえ……そう……」

 電話の向こうは、嫁に行った湊の姉だろう。その声には、諦めと寂しさが滲んでいた。


 その時だった。


「千恵子さん! 千恵子さーん!」


 家の奥、襖の向こうから、老婆の甲高い声が響き渡った。

 母親を、何度も、何度も、責め立てるように呼んでいる。

 千恵子の肩が、びくりと揺れた。


「俺、みてくる」

 湊が、食べかけのトーストを皿に置き立ち上がった。


 祖母の寝室へ向かうと、ツンと鼻をつくアンモニア臭がした。ベッド脇のテーブルに置いてあった水差しとコップがひっくり返っていて、畳と布団の一部が、びしょ濡れになっている。


 湊が黙々と雑巾で畳を拭いていると、電話を終えた千恵子がやってきた。

「お義母かあさん、また……!」

 その苛立たしげな声に呼応するように、ベッドの上の祖母が、子供のように金切り声を上げた。


「私なんか、死ねばいいって思ってるんだろ! だからわざと無視するんだ!」

「そんなこと、思ってませんよ」


 千恵子の声は、感情を押し殺したように平坦だった。手際よく濡れたシーツをがしながら、祖母のパジャマを脱がせようとする。だが、祖母は「触るな! お前なんか出て行け!」と、細い腕で母親を叩き、暴れた。


「ばあちゃん、風邪ひくから、着替えようぜ! 俺、手伝うからさ」

 湊が濡れた雑巾を固く絞りながら、努めて明るい声を出した。

 孫の声に、あれほど荒れていた祖母は、ぴたりと動きを止める。

 そして機嫌を直したように、大人しくなった。


 祖母の着替えとオムツ交換を終えようやく食卓に戻ると、少し遅れて顔色の悪い母親が戻ってきた。

「悪いね、湊。いつも。ありがとうね……おばあちゃんのことはいいから、友達と遊びに行っておいで」

「ん」

 湊は、短く頷くと、残っていた冷めたトーストを牛乳で胃に流し込んだ。


「あんま遅くならないようにするからさ。……帰りに、アイスでも買ってこようか!」

 母親を安心させるように、湊は、とびきりの笑顔を作って見せた。


 がらり、と玄関の引き戸を開け、一歩外へ出る。

 夏の強い日差しと蝉の合唱が、スコールのように降り注ぐ。


 家の角を曲がり、母親の姿が見えなくなった、その瞬間――湊の顔から太陽のような笑顔が、すうっと消える。

 家の中や学校ではしたことのない、力の抜けた表情。


 それぞれの朝。

 それぞれの日常。

 それぞれの場所から、二人は、あの高台にある神社――二人の「秘密基地」を目指した。


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