ep.8 落とし物
幸せな瞬間を見届けてから神社に戻った二人は、拝殿の濡れ縁の日陰に腰掛けて、今しがた自分たちが体験した出来事を反芻する。
灰色の世界で見つけた光る指輪と、プロポーズの予知。
こちらの世界で祝福に包まれたカップル。
樹は荷物の中から、ノートとボールペンを取り出した。
「順番に、考えていこう」
その声と表情は、まるで期末試験の難問に取り組む時のように真剣そのものだった。
「まず、どうして湊は、あっちの世界で、公園に行こうと思ったの?」
樹の質問に、湊は「うーん」と唇をアヒルのように突き出した。
「何となく、かな。なんか、呼ばれてるっていうかさ。公園に行かなきゃ、行きたいって感じがしたんだ」
「それって、湊の『物の感情が分かる力』が関係してる?」
「そうなのかな~。こっちだと、物に触ってみないと何も感じないんだけどな。でも、あっちの世界だと、触らなくても、何となく伝わってきたんだ。こっちだ、って」
「ふーん……不思議だなぁ」
湊の言葉を忘れないように、樹はノートに走り書きでメモしていく。
「で、僕が指輪に近づいたら、予知みたいな映像が見えた。それで、こっちの公園に来てみたら、本当に同じことが起きた……」
樹はノートに二本の平行線を引いた。
それぞれに『夏の世界』『灰色の世界』と書き込み、矢印で出来事を繋いでいく。
「灰色の世界の方が、ちょっとだけ時間が進んでるってことか?」
樹の描いたチャートを覗き込み、湊が言った。
「そういうことなのかな。あっちで見つけた『落とし物』が、こっちで現実に起きる。それとも逆で、こっちで起きるはずの出来事が、あっちで『記録』されているとか……?」
ぶつぶつと思案に沈む樹の隣で、湊はすっくと立ち上がった。
その目に退屈と、それ以上の好奇の色を浮かべて。
「考えるより、行ってみようぜ!」
「また!?」
「他にも『落とし物』、見つかるかもしれねぇじゃん。そしたら、その仕組みとやらも、もっと分かってくるだろ!」
言うが早いか、湊は「行こうぜ!」と、濡れ縁に腰掛けたままの樹の手首を掴んだ。
「湊、っ」
その熱と力強さに、樹は反論の言葉を失う。
結局、この奇妙な謎の続きが知りたいのは樹も同じなのだ。
樹がこくりと頷くのを見ると、湊はにかりと笑い、その手を引いて立ち上がらせた。
二人は、再びお社の中の、揺らめく入り口へと向かっていく。
*
「こっちだ」
灰色世界へ飛び込むや否や、湊は迷いなく町の中心部へと続く道を進んでいく。
湊の能力は、この色褪せた世界においてゲームの方位磁針のように、次なる「何か」の在り処を示す。
たどり着いたのは、町の小さなバス停だった。
時刻表は破れ、待合のベンチは分厚い塵に覆われている。
そのベンチの上に、今度は懐中時計がひとつ、静かな光を放っていた。
湊がそっと時計を手に取る。
「……あったかい。誰か、すごく好きな人がいるみたいだ。ずっと一緒にいたい……そんな感じがする」
湊が読み取る、あたたかで満たされた感情。
だが、樹がその懐中時計を覗き込んだ瞬間に見た幻視は、全く違うものだった。
腰の曲がったおばあちゃんの姿。
老女はバス停の周辺で視線を右往左往させ、必死に何かを探している。
やがてバスが近づいて、おばあちゃんはがっくりと肩を落として乗り込んだ。何度も後ろを振り返りながら。
樹の脳裏に流れた光景に満ちていたのは、焦りと、悲しみ、そして深い後悔の念だった。
「どういうことだろう……」
「困ってそうなら、助けてあげようぜ。よしゃ。戻ろ」
謎は解けないまま、二人は懐中時計を手に元の世界へと走った。
夏世界のバス停は、ひび割れたアスファルトの熱気の中にあった。
ベンチの後ろ、バス停の標識を支える苔むしたコンクリートの土台との隙間、その暗がりを、樹が懐中電灯で照らす。隅の方で、何かが鈍く光った。
木の枝でそれを掻き出すと、出てきたのは、古びて傷だらけの懐中時計。灰色の世界で見つけた懐中時計よりも、状態が悪い。
蓋を開けると、内側に『鈴木誠一』と名前が彫られている。
「あれ……この名前、知ってる」
湊が呟いた。
「近くの、鈴木さんちの爺ちゃんだ」
二人が鈴木家を訪ねると、出てきたのは中年の女性だった。
「あの、これを拾いまして……」
樹が傷だらけの懐中時計を見せると、女性は「まあ!」と目を見開いた。
「これ、お父ちゃんの形見なの! 何年も前に、お母ちゃんが失くしてしまって……」
女性――鈴木さん夫婦の娘だという彼女は、二人を家に招き入れ、語ってくれた。
時計の持ち主である父も、それを失くした母も、もう数年前に相次いで亡くなっていること。母は、亡くなる直前まで、夫の大事な形見を失くしてしまったことを悔やんでいたこと。
「まあまあ、嬉しいわ! よかったら、お線顔だけでも、あげてやってちょうだい」
通された和室には、黒塗りの小さな仏壇が静かに置かれていた。扉は開かれ、活けられたばかりの白い小菊と、湯気の立つご飯、瑞々しい桃が丁寧に供えられている。大切にされているのが、一目でわかった。
その中央に、寄り添って笑う、人の好さそうな老夫婦の遺影が飾られていた。
湊が、そっと懐中時計を写真の横に供える。
長い間離れ離れになっていた持ち主の元へ、ようやく時計は還ったのだ。
女性に感謝されながら家を出て、夏の眩しい日差しの中を歩き出す。
二人の手には、お菓子がたっぷり入ったビニール袋。
ふと、湊が「あ」と声を漏らし、ポケットに手を突っ込んだ。
取り出したのは、灰色世界から持ち出した、光り輝く懐中時計。
二人の目の前で、指輪の時と同じように、きらきらと輝く無数の光の粒子となって、空へと舞い上がっていく。
まるで、長い年月を越えて果たされた、老夫婦の愛情の記憶そのもののようだ。
光が夏の青空に溶けて消えるのを、二人は静かに、見送った。