プロローグ・1 樹と湊
2025年、夏。
国内大手の精密機器メーカーで働く相沢樹は、液晶画面に映る部品の納期リスト――彼にとってはもはや意味のない数字の羅列だ――を睨みつけながら、もう何度目になるか分からないため息を押し殺した。
タイピングの音と、誰かの電話の声だけが、生気のない空気をかき回している。
社会人になって五年。
学生時代、真面目だと言われ続けた性質は、良くも悪くも樹を従順な歯車にした。
上司やクライアントの理不尽や無茶も、「そういうものだ」と飲み込む癖がついた。胃を締め付ける鈍い痛みも、眼の奥の疲労も、都会の歯車として回り続けるために必要な潤滑油だと自分に言い聞かせていた。
ふと視線を上げた先に設置された大型モニターが、次々とニューステロップを流していた。
『極東情勢、依然緊張続く。偶発的衝突の懸念も』
『東欧での戦闘、泥沼化。停戦協議は平行線』
アナウンサーが神妙な面持ちで何かを語っているが、音声はミュートにされている。樹は、走る字幕やテロップを、ただ無感情に網膜に映していた。
戦争、経済不安、政治不信、物騒な事件。ニュースは今日も、災厄で埋まる。まるで、別の惑星で起きている出来事のよう。いや、実際に遠い。少なくとも、課長から押し付けられたこの分厚いファイルよりは、ずっと。
「相沢ちゃん〜、これ、今日の三時までにお願いできるかな。急で悪いんだけどさ、ね?」
背後からかけられた声に振り返ると、課長がさも当たり前の顔で分厚いファイルを差し出してきた。
時計を見れば、すでに昼休みは終わっている。樹の返事を待たず、彼は「よろしくね」とだけ言い残して自分のデスクへ戻っていく。樹の口は、断る言葉を発する方法を忘れてしまっていた。
「……承知しました」
虚空に向けて呟き、新しい仕事の束を受け取る。
胸の内側が削る音がした。
自席に戻り、廃棄するファイル束のように重たい身体を椅子に沈める。肺の底から絞り出すような深い溜息が、空調に攫われた。
今年も夏休みが取得できないまま、お盆が終わろうとしている。
社会人になってからの樹にとって、「お盆」はカレンダーに印刷された文字列でしかない。
無意識に、パソコンを操作する左手首へと視線を落とす。
そこには、高校時代からずっと外せずにいる、一本の古びた組紐のブレスレットが巻かれていた。
何度も水に濡れ、すっかり色褪せた紐の一部に、錆び鉄のような赤茶色の染みがこびりついている。
樹は親指の腹で、その染みをそっと撫でた。ざらりとした、粗くて乾いた感触。
「……湊」
唇から、勝手に漏れた名前。
鳴り響く電話のコールが、不意に、あの夏の蝉時雨と重なった。
ひぐらしの、黄昏を告げる哀切な声に。
「……え……」
樹の、受話器を取る手が、ぴたりと止まる。
ひぐらしの声に混じって、稲穂を撫でる風の音、水田から立ち上る蛙たちの合唱が、確かに鼓膜を震わせた。
目の前のモニターが白い靄に溶け、その向こうに、突き抜けるような青空と、草いきれの匂いを孕んだ田園風景が、鮮烈に立ち現れる。
瞬きをして、また瞳を開くと、ビジョンはさらに輪郭を濃くした。
汗が額から滴り落ちるのを感じながら石段を駆け上がる、自分の足。
古びた鳥居をくぐり抜けた、その先に――学生服の少年が立っていた。
陽光に透けるような、焼けた薄茶色の髪。
悪戯っぽく口角を上げた、人懐こい笑顔。
第二ボタンまで開いた制服。
手首にはめたブレスレット。
瀬戸口湊。
幻の中の湊が、ゆっくりとこちらを振り向き、時間が止まったような一瞬の後、口元を綻ばせて何かを言った。
声は聞こえない。
だが、樹にはわかった。
確かに湊の口は「いつき」と動いた。
――呼んでいる。
あれは過去の思い出なんかじゃない。
今、確かにあいつが、あの場所で待っている。
――帰ろう。
それは本能にも似た、原始的な渇望だった。
気づけば樹は、何かに憑かれたように有給休暇の申請書を書き上げ、嫌味を言う課長に叩きつけていた。