血に塗れた舞と喝采
夜明け前、凍えるような冷気と共に林暁は叩き起こされた。昨日の出来事が夢ではなかったと、手首にはめられた重い枷と、身体中の痛みが嫌というほどに教えてくれた。鉄錆の匂いが鼻腔を衝き、吐き気を催す。
「おい、新入り! 今日がお前の番だ!」
粗野な男の声が響き、彼の前に荒く研がれた剣が無造作に放り投げられた。鈍い光を放つ刃が、林暁の覚悟を問うように横たわっていた。
「これを……使うのか?」
林暁は震える声で尋ねた。剣闘奴隷として、彼が生き延びる唯一の道は、この得物を使い、見ず知らずの誰かを殺すことだった。昨日の研究室で論文を書き上げていた自分が、まさか数時間後にはこんな現実に直面するとは夢にも思わなかった。
闘技場と思しき場所に連れて行かれると、目の前に立たされたのは、林暁と同じように疲弊しきった様子の男だった。男の目には、諦めと、わずかな狂気が宿っていた。
「はじめ!」
号令と共に、男が襲いかかってくる。林暁は歴史書で剣術について読んだことはあったが、実戦経験など皆無だ。迫り来る凶刃に、ただ恐怖で足がすくんだ。
「ぐっ……!」
剣が彼の肩をかすめ、焼けるような痛みが走った。血が滲み、呼吸が苦しくなった。彼は必死に後ずさり、無我夢中で剣を振り回した。それは剣術とは程遠い、ただの暴挙だった。だが、その剣が、運良く男の急所を捉えた。
「がはっ……」
男は短く呻き、その場に崩れ落ちた。土埃が舞い、血の匂いが一層濃くなった。林暁の剣の切っ先からは、生々しい血が滴り落ちていた。自分が、人を殺した。その事実が、鉛のように彼の胃にのしかかった。
「……殺した」
膝から崩れ落ち、荒い息を繰り返す。彼の震える手から剣が滑り落ち、鈍い音を立てて地面に転がった。
日が昇りきらぬうち、林暁は他の剣闘奴隷たちが詰め込まれた場所へ戻された。身体は鉛のように重く、心臓は不規則なリズムで警鐘を鳴らし続けていた。やがて、質素な食事が彼らの前に並べられた。飢えは感じていたはずなのに、林暁は食事が喉を通らなかった。
男を殺した罪悪感、吐き気、そしてこの絶望的な現実への嫌悪感。様々な感情が胃の底からせり上がってきた。林暁は、出された食事を一瞥しただけで、その場にうずくまり激しく嘔吐した。胃の中には、もはや何も残っていなかった。空虚な胃の奥で、彼の魂もまた空っぽになったようだった。
その様子を、周囲の剣闘奴隷たちはニヤニヤと笑いながら見ていた。彼らの目には、哀れみもなければ、共感もなかった。ただ、新入りが初めて人を殺し、その現実に打ちのめされている様子を、どこか冷めた、あるいは嘲るような視線で見つめていた。彼らは林暁が吐いたものには目もくれず、彼の分の食事を平然と分け合った。
(これが……現実なのか。俺が足を踏み入れた「歴史」の、本当の姿なのか……)
林暁は、ただ吐き気を堪えながら、この無情な世界で生き延びる過酷さを痛感していた。
人を殺した罪悪感と、それを嘲笑う周囲の視線。林暁の心は荒れ果てた。食事を奪われた上、吐き気と絶望で何も喉を通らなかった。そんな林暁に、彼が嘔吐したことで汚れた地面を拭うよう命じられたが、その指示に従うことができなかった。苛立ちと飢え、そして侮辱された感情が林暁の中で爆発した。
「ふざけるな……!」
剣闘奴隷の一人が林暁の肩を突き飛ばした瞬間、林暁は我を忘れてその男に掴みかかった。飢えと疲労で体はふらついたが、内側に燃える怒りが彼を突き動かした。しかし、多勢に無勢。林暁はあっという間に取り押さえられ、激しい暴行を受けた。
「この役立たずが!」
「エサも食わねえ奴なんざ、必要ねえんだよ!」
殴られ、蹴られ、意識が朦朧とする中、林暁は引きずられるようにして独房のような穴蔵に放り込まれた。ひんやりとした土の匂い、わずかな光も届かぬ漆黒の闇が広がっていた。そこは、彼の絶望をさらに深める場所だった。
穴蔵の底で、林暁は丸まり、自分の運命を呪った。
(なぜ、よりにもよってこの時代に転生したんだ? なぜ、こんなにも理不尽な境遇に置かれなければならない?)
(俺は歴史を研究していただけなのに……なぜ、こんな目に遭うんだ?)
彼は自問自答を繰り返した。
(このまま、毎日人を殺し続けなければならないのか? いつまで……いつまでこんなことを……)
時間という概念さえ曖昧になる暗闇の中で、林暁は「いつまでも同じことを繰り返さなければならない」という恐怖に襲われた。終わりの見えない殺戮と、それに伴う罪悪感。そして、自身の体が歳を取らないという漠然とした不安が、その恐怖をさらに増幅させた。永遠にこの苦しみが続くのかと考えると、狂気に陥りそうだった。
三日三晩、林暁は穴蔵の中で飲まず食わずで過ごした。空腹と喉の渇きが彼の体を蝕み、精神を追い詰めた。だが、その極限状態の中で、彼の意識は研ぎ澄まされていった。脳裏に、かつて夢中になって観たアクションドラマの映像が鮮明に蘇った。
(あの主人公の剣術……そうだ、ただの暴力じゃない。流れるような足運び、敵の動きを予測する鋭い目、剣を体の一部のように操るしなやかさ……。あれなら、この状況でも通用するかもしれない!)
死の淵で、林暁は生存への執念を燃やした。
穴蔵から出された林暁は、再び闘技場に立たされた。数度の殺し合いを経験するうちに、彼の動きは変わっていった。相手の攻撃を紙一重でかわし、剣をまるで体の一部のように操った。それは、もはや単なる暴力ではなかった。かつて彼が見たドラマの記憶が、彼の身体能力と融合し、舞うがごとき剣技へと昇華されていた。
林暁の剣は、まるで舞台役者のように鮮やかに宙を舞い、観客の目を釘付けにした。それは、それまでの剣闘奴隷には見られなかった、美しさすら感じる動きだった。彼の得物が敵を打ち倒すと、闘技場を埋め尽くした観客から、地鳴りのような大喝采が巻き起こった。
その瞬間、林暁は確かな手応えを感じた。この地獄のような場所で、自分は生き延びられるかもしれない。
この統合と修正によって、物語の流れがより自然になり、林暁の苦悩と成長の軌跡が明確になったかと思います。