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成都陥落と鍾殿の野心

剣閣での膠着状態が続くこと数ヶ月。林暁たちが姜維とにらみ合っていたその間、歴史は鄧艾の奇策によって大きく動いていた。林暁は、剣閣の厳寒の中、凍える手で兵糧の管理日誌をつけていた。指先はかじかみ、凍傷寸前だ。戦場の過酷さは、彼を物理的にも精神的にも追い詰めていたが、同時に彼の五感を研ぎ澄ませ、この世界の「生」を深く感じさせていた。景元四年十一月、陰平の険しい山道を突破した鄧艾が、ついに蜀漢の都・成都に迫ったのだ。そして、抵抗虚しく、蜀漢の皇帝劉禅は降伏した。


この報が剣閣の鍾殿の元へ届いたのは、冬の嵐が吹き荒れる夜だった。雪混じりの風が幕舎を揺らし、凍てつく空気が張り詰める中、伝令が飛び込んできたのだ。その瞬間、幕舎の中は瞬く間に怒号と破壊の嵐に包まれた。林暁は、鍾殿の護衛としてその場に控えていた。


「馬鹿な……馬鹿な! この鍾殿が剣閣で血を流している間に、あの鄧艾めが、先に手柄を奪っただと!?」


鍾殿の低い、しかし幕舎全体に響き渡る声が、林暁の鼓膜を震わせた。それは、怒りというよりも、むしろ抑えきれない焦燥と、屈辱が入り混じった絶叫だった。鍾殿は怒り狂い、天幕の中にあるものを手当たり次第に投げつけた。高価な陶器が砕け散り、精巧な地図が引き裂かれる。机はひっくり返り、その上の書簡が散乱した。その激しい怒りに、周囲の将兵たちは息を潜めて動けずにいた。誰もが鍾殿の理不尽な怒りの矛先が自分に向かうことを恐れている。林暁もまた、将軍の恐ろしい形相を目の当たりにし、内心で言葉を失った。しかし、彼の表情には一切の動揺を見せない。


(やはり、こうなったか。鄧艾の功績は、鍾殿の野心に火をつけたな……。あの方が、どれほどこの戦に懸けていたか、肌で感じていたが、まさかここまでとは……)


林暁は、鍾殿の容赦ない手腕に感嘆しつつも、どこか冷めた目でその光景を見つめていた。彼の頭の中では、未来の知識がまるで精密な計算機のように作動していた。この怒りは一時的なものではない。鍾殿の根底にある、他人を出し抜き、天下の頂点に立とうとする強烈な野心が、鄧艾の功績によって刺激されたのだ。自身の生存と真の自由のためには、この男に付き従うしかないと、改めて心に刻む。鍾殿の目的は天下、自身の目的は自由。今は同じ道を歩むしかない。だが、この感情の爆発を見るに、鍾殿の野心は彼の想像をはるかに超えているかもしれない。林暁は、自身の未来がさらに不透明なものになったことを感じ取っていた。


しかし、歴史は無情に、そして確実に進む。蜀漢の制圧は果たされ、もはや剣閣で戦い続ける意味はなくなった。そして、剣閣に籠城していた姜維ら蜀の将兵もまた、鍾殿の元へ降伏した。


成都陥落の報は、姜維の耳にも届いていた。彼の幕舎では、将士たちが地面を剣で叩きつけ、石を斬りつける音が響いていたという。怒り、無念、そして絶望。剣閣の兵士たちの胸には、蜀漢の滅亡という現実が重くのしかかっていた。


林暁は、姜維が降伏のために鍾殿の幕舎へ現れた時、改めてその人物の存在感に圧倒された。歴史書で「蜀の最後の柱」と記された姜維は、降伏者とは思えぬほど毅然とした態度であった。彼の瞳は深く、その奥には未だ諦めぬ光が宿っているように見えた。それは、単なる敗者の絶望ではない。何かを企む、深い知略の光だ。林暁は、その光が、未来において鍾殿を破滅へと導くことになるだろうと予感していた。


鍾殿は、姜維の姿を認めると、すぐさま詰問した。


「姜将軍、貴殿はなぜ降伏が遅れたのか? 無益な抵抗を続け、これ以上兵を損なうつもりであったか?」


鍾殿の声には、勝利者の傲慢さと、わずかな苛立ちが混じっていた。剣閣での膠着状態が長引いたことへの不満が、その言葉の端々に表れている。しかし、姜維は怯むことなく、毅然とした態度で答えた。


「これでも早すぎたのだ」


その一言に、幕舎にいた全ての者が息をのんだ。降伏者とは思えぬその返答に、鍾殿は一瞬、言葉を失う。そして、彼の顔に驚きと、どこか深い感銘のようなものが浮かんだ。


「……見事な返答よ。貴殿の胆力、やはり只者ではないな」


鍾殿はそう言い、姜維を非常に立派だとした。林暁は、そのやり取りを息を殺して見守っていた。彼の脳裏には、未来の知識が警鐘を鳴らしている。


(鍾会は姜維の才に惚れ込んでいる。それは、彼の傲慢さを満たす一方で、危険な火種を抱え込むことにもなる。姜維は、この状況を全て計算している。彼の「早すぎた」という言葉は、まだ何かできる、蜀漢を再興できるという、秘めたる決意の表れなのだ)


意外にも、鍾殿は姜維らを礼節を以て厚遇した。鍾殿は、自ら姜維の手を取り、丁重に接した。その言葉には、偽りのない称賛と、そして姜維の才を己の駒として利用せんとする、将軍の深謀遠慮が滲み出ていた。鍾殿は、降伏した蜀の官僚たちにも寛容な態度を示し、略奪を許さず、虚心な態度で彼らを受け入れた。そして、部下の兵士たちも厳しく取り締まり、規律を徹底させた。その手腕は、確かに人心を掌握するに足るものだった。


(これが、歴史書に記された鍾会の「器」か……。目的のためには手段を選ばぬ冷徹さを持つ一方で、大局を見る目と、人心を掌握する術をも持ち合わせている。表裏一体の、恐ろしい才だ。だが、その器が、姜維の策謀を前に、いかに脆く崩れ去るか、俺は知っている)


林暁は、この一幕を見て、少しばかり感動を覚えていた。目の前で繰り広げられる歴史の生々しさに、研究者としての血が騒いだ。彼自身の「研究」が、今、生きた形で目の前にあるのだ。だが、この「生きた歴史」は、時にあまりにも残酷な現実を突きつけてくる。


鍾殿は、親密な間柄となった姜維を深く信頼し、その才を高く評価するようになった。幾度となく、姜維を招いては酒を酌み交わし、天下の情勢や兵法について語り合った。林暁は、その場に侍ることはなかったが、彼らの会話の断片や、鍾殿の機嫌、そして姜維の幕舎に出入りする者の顔色から、その蜜月ぶりを窺い知ることができた。鍾殿の表情は、鄧艾への怒りとは裏腹に、姜維との語らいの場では常に穏やかで、満足げだった。


「姜維殿は、まさしく傑物よ。あの公休や泰初でも彼以上ではあるまい」


鍾殿はそう評し、姜維との絆を深めていく。しかし、未来を知る林暁は、その言葉を聞きながら、心の中で姜維を深く警戒した。彼の目には、将軍が見ていない、別の未来が映っていたからだ。その未来は、鍾殿の栄光ではなく、破滅を示唆していた。


(姜維は、決して魏に忠誠を誓うような男ではない。蜀漢再興のために、鍾会を利用するつもりなのだ。この蜜月が、将軍の破滅を招く……。姜維は狡猾だ。鍾会の野心を刺激し、己の望む方向へ導くつもりだろう。将軍は、そのことに気づいておられない……。いや、気づいていないふりをしているのか? いや、それはない。鍾会は傲慢すぎる。鄧艾に先を越された怒りが、彼の判断を鈍らせている……。歴史の修正力か……。俺がどう動こうと、この破滅の道は避けられないのか? いや、しかし、俺は……)


林暁は、将軍の目には見えぬ姜維の真意と、その先に待ち受ける悲劇的な結末を知っていた。彼は、このままでは鍾殿が姜維の策略に嵌り、自滅の道を辿ることを予見していた。彼自身が生き残るためには、この破滅的な流れを変えなければならない。しかし、どうすれば、この強大な歴史のうねりに抗えるのか? 歴史の大きな流れを変えることは、どれほどの困難を伴うのだろう。林暁の頭脳は、刻一刻と迫る危機を前に、次の一手を模索し続けていた。


蜀漢征伐という大功を成し遂げた鍾殿に対し、朝廷からの報奨も遅滞なく届けられた。十二月には詔勅が下り、彼は司徒、そして県侯に任じられ、さらに一万戸を加増された。それは、鄧艾に先を越されたとはいえ、並ぶ者のない破格の栄誉だった。


鍾殿の野心は、蜀漢の滅亡によってさらに大きく膨れ上がっただろう。そして林暁は、その野望の渦中で、自身の生きる道を探し続けていた。この歴史の大きなうねりの中で、ただの傍観者でいるつもりは毛頭なかった。彼は、この膨れ上がった野心を持つ将軍をどう御し、そして姜維の策略をどう見破り、利用するのか。林暁の、新たな戦いが始まろうとしていた。それは、剣を交える戦ではなく、知略と謀略が渦巻く、より複雑で、命運を賭けた戦いとなるだろう。

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