帰還 (2)
魔物の数は徐々に減っていったが、辺りの空気はむしろ重苦しさを増していった。
セレナの刀身には黒い血がべっとりとつき、肩で息をしながら素早く周囲を見渡す。その視線は警戒心を隠さず、符紋室の入口を鋭く睨んだ。
その時、暗い室内から低くくぐもった笑い声が響いた。
嘲りと軽蔑を滲ませた声だった。
「やっと主役が揃ったか。」
イアンが符紋室の影からゆっくりと現れた。全身に淡い黒霧をまとい、その双眸には不気味な光が灯っている。口元には冷たい笑みを浮かべ、気怠げな声を落とした。
「まあ、何人かの観客は別の場所に招待してあるけどね……戻るのには少し時間がかかるだろう。」
セレナの目が冷たく細められる。刀を構え、声を押し殺すように怒りを滲ませた。
「アリアンはどこだ。連れ去ったのか。」
イアンは肩をすくめ、挑発するような余裕の笑みを深めた。
「連れ去った?それは語弊があるな。人には自由意志ってものがあるだろう?」
その含みのある言い方に、セレナの怒気は抑えきれなくなる。刀の柄を強く握りしめ、血のような瞳でイアンを睨みつける。
「イアン……言葉を選べ。」
「落ち着け。」
ノックスの低い声が割り込む。彼は手に小さな炎を灯し、セレナの隣に立った。声は冷静だが、そこには揺るがない重みがあった。
「煽っているだけだ。乗せられるな。」
セレナは一度だけノックスを見た。荒い呼吸を整え、吐き捨てるように応じた。
「わかってる。」
次の瞬間、セレナの身が閃光のように跳ぶ。刀身が鋭く煌めき、イアンの喉元を狙って一直線に駆け抜けた。
だが、イアンは軽く体をずらし、冷たい笑みを零した。
「それだけか?」
声は低く抑えられていたが、その奥に滲むのはあからさまな嘲りだった。
「腕は上がったな。でも――この程度じゃあな。」
セレナの目がさらに鋭さを増す。呼吸を荒げつつも姿勢を崩さず、連撃を叩き込む。刀閃は雨のように降り注いだが、イアンはあくまで滑らかに、流れるようにかわした。
「アリアンが絡むと、感情が先走る。」
イアンの声は嘲弄を含み、酷く静かだった。
「だからお前とあいつには差があるんだ。」
「……黙れ!」
ノックスの声が鋭く割れた。
その手から放たれた炎は、灼熱の鞭のようにしなりながらイアンに向かって打ち付けられる。
しかしイアンは片手を軽く上げるだけで黒い霧の障壁を張り、炎を弾いた。
「おやおや。お前まで感情的になるとは。」
イアンの目が細められ、口元が歪む。
「魔力の流れが荒いな。……まだ治りきってないんじゃないのか。」
彼の声は妙に柔らかく、だが刺すように冷たかった。
「どうだ? 俺がくれてやった“お土産”、使い心地は?」
その言葉は鋭い刃のようにノックスの心を裂いた。
ノックスは返さず、火花が散るように攻撃を加速させた。指先から放たれた小さな火刃が幾重にも飛び、イアンを貫こうとする。
だがイアンの姿は霧のように揺らぎ、寸前でかわされる。
「おお、二人で共闘か。」
イアンの声には侮蔑と嘲笑が満ちていた。
両手を開くと、黒霧が触手のように伸び、二人を同時に襲いかかる。
セレナは鋭く鼻を鳴らし、刃を閃かせて黒霧を断つ。
ノックスは一気に跳躍し、足元に爆炎を起こして空中を制しつつ、炎の刃を連続で投げ放った。
「へぇ、意外と連携取れるじゃないか。」
イアンの声は四方から響き渡った。
姿は黒霧に紛れて見えない。
「でもな――まだまだ足りない。」
セレナもノックスも黙り、血のように鋭い視線で周囲を睨み据えた。
次に来るであろう攻撃を、決して逃さぬように。
符紋室のドームはすっかり黒い霧に覆われていた。
本来穏やかに光を放っていた符紋の刻印はまばらに瞬き、まるで今にも消え入りそうな灯火のようだった。
地面の振動はますます激しくなり、裂け目は広がり続け、その奥からは狂気じみた魔力の波動が滲み出ていた。
アイデンは符紋室の入口前に立ち、額に冷たい汗をにじませていた。
震える手で符紋装置を必死に操作し、内部と外部のエネルギーの流れを安定させようと試みるが、画面上の数値は既に乱れ切っていた。
「くそっ……冥域の霊の封印が崩壊しかけている。」
小さく罵るように吐き捨て、符紋室を覆う黒霧を睨む。
「今すぐ結界を修復しなければ、取り返しがつかなくなる……!」
「アイデン!」
カイルの声が上から響いた。金属の翼を大きくはばたかせて地面に降り立ち、その表情には焦りが色濃かった。
「魔獣が次から次へと湧いてくる!こっちはもう限界だ!」
少し離れたところにはタロスが巨斧を構え、肩で息をしていた。
その斧は黒い血に染まり、鋭い刃を地面に突き立てていた。
「こいつら、どんどん強くなってる。数もさっきより多い……援軍が要るぞ。」
アイデンは深く息を吸い込み、周囲を一瞥した。
特異班の学生たちが、裂け目から這い出る魔獣を必死に食い止めている。
火炎、氷刃、その他の魔力が交錯し、魔獣の咆哮と攻撃がぶつかり合う音が戦場を満たしていた。
「援軍なんてすぐには来ない。」
アイデンは冷静に言った。
視線を符紋室の黒霧に据えたまま、その声には硬い決意がこもっていた。
「でも退けない。何としても冥域の霊を解放するわけにはいかない。」
「カイル、タロス。ほかの学生を率いて魔獣を掃討しろ。時間を稼いでくれ!」
その声は低く、しかし揺るがない。
「了解!」
カイルは翼を広げ、一直線に前線へ飛び込む。
手にした短剣が鋭く光り、急降下のたびに魔獣の関節を正確に断ち切り、動きを封じた。
タロスは低く咆哮をあげ、大斧を振るった。
迫り来る魔獣を真っ二つに斬り裂く。
その巨躯と怪力は戦場で圧倒的な威圧を示し、多くの魔獣を引き寄せていった。
「怯むな!全力で支えろ!」
タロスは振り返り、吠えるように学生たちを鼓舞した。
そして再び斧を振るい、背後から襲いかかろうとした魔獣を弾き飛ばす。
「はい!」
学生たちもそれに応え、自分の魔法や武器を駆使して戦線を支えた。
火花と魔力の光が交錯する混沌の中で、それでも連携は次第に形を成し始め、アイデンに符紋室の修復に集中する余地を作っていった。
一方、符紋室を覆う黒霧の中で、イアンの姿はぼんやりと揺らいでいた。
まるで周囲の闇に溶け込むように、不気味な冷笑を浮かべ、ノックスとセレナを交互に見渡す。
「面白いな。双子が揃って俺に挑むとは。」
その声は低く、嘲るように響いた。
「ノックス、本気で勝てると思ってるのか?それとも――この妹を使って俺を倒すつもりか?」
セレナの瞳が鋭く光る。
返す言葉はなく、ただ刀身に冷たい殺意を宿し、一歩踏み込んだ。
刃が閃き、流星のようにイアンの胸元を突く。
しかしイアンは片手を軽く上げただけで、黒霧の障壁を生み出し、その攻撃を易々と受け流した。
「セレナ!」
ノックスの声が響く。
その手には炎が集まり、長い火の刃を形作る。
横からイアンの動きを縛るように斬りかかる。
イアンは鼻で笑い、身体を黒い霧に変じてするりと避けた。
その声にはあくまで余裕が滲む。
「息は合ってるがな……まだまだ脅威ってには程遠い。」
セレナは足を止め、肩で息をつきつつも鋭い眼光を向けた。
そして再び踏み込もうとした時、横からノックスの声が低く響く。
「忘れるな。これは俺がやることだ。」
セレナの目が一瞬鋭さを増した。
振り返りざま、噛み殺すように言う。
「まだ、了承なんかしてない。」
ノックスの眼差しは変わらなかった。
炎を纏うその手は、再び細い火の鞭を作り出し、イアンへと正確に振り下ろす。
「了承するかは問題じゃない。覚えておけ。」
セレナは歯を食いしばり、刀を強く握りしめた。
「命令するな!」
次の瞬間、全身のバネを解き放つように一気に距離を詰め、斬撃を放つ。
イアンはその様子を冷ややかに見やり、黒霧を刃のように変じて応戦した。
その口から漏れる声は小さく、しかしはっきりと軽蔑を滲ませていた。
「……家族の絆だと? 滑稽だな。」




