選び (7)
夜の帳が下り、学院の寮は静けさに包まれていた。
アリアンは部屋に戻ると、肩から鞄をそっと下ろした。
ポケットに手を入れ、ヘレンから渡された小さな紙片を取り出す。
窓辺から差し込む月明かりの下で、その一行の数字がくっきりと浮かぶ。
まるで手軽に逃げ出せる出口のように見えるのに、胸を強く圧迫する存在だった。
ベッドの端に腰を下ろし、じっとその紙を見つめる。
心の中には絶え間なく声が響く。
「何が欲しいの? 答え……それとも、ただもう一度父さんに会いたいだけ?」
かすかな声で自問しながら、指先は無意識に紙片を握り締めた。
頭の中を過去の記憶が次々と押し寄せる。
父の腕に抱かれたあたたかさ、優しい声。
だがそのすぐ後に、冷たい現実が顔を出す。
血に染まった事実、裏切りの言葉、痛み――。
部屋の隅からはセレナの寝息が聞こえた。
規則正しく、落ち着いた呼吸音。
アリアンはその寝顔を横目に見ながら、胸の奥がさらにかき乱される。
セレナはあの男を絶対に許さないと言った。
けれど、自分の中にはまだ理解したい気持ちが残っている。
父の冷酷さの裏に、本当に何もなかったのか。
何も言えない理由があったのではないか。
「……セレナ。」
小さく名前を呼んだが、それ以上の言葉は出なかった。
わかっていた。
今この気持ちを口にしたら、セレナは全力で止めるだろう。
でも――
心の奥から聞こえる声は一層強くなる。
「私は知りたい。」
紙片をそっとポケットに戻し、アリアンはゆっくりと横になった。
目を閉じても、胸に巣くうそのざわめきは、消えてくれなかった。
◆ ◆ ◆
昼下がりの陽光が寮の廊下を優しく照らしていた。
アリアンは小さなバッグを肩にかけ、部屋の扉をゆっくりと閉める。
振り返ると、静まり返った部屋の中にセレナの姿はなかった。
それがむしろ都合が良かった。
彼女がいたら、絶対に止められてしまう。
でも、もう決めていた。
心の奥に居座る父への疑問と期待が、すべてのためらいを押しのけていた。
そっと深呼吸し、アリアンは歩き出す。
宿舎の廊下を抜ける足取りは早く、しかし慎重だった。
外に出ると、学院の中庭は冬休み間近の穏やかな空気に包まれている。
遠くの芝生では数人の生徒が笑い声を上げていたが、その声もどこかぼんやりとしていた。
アリアンは人目を避けるようにメイン通路を外れ、裏門へと向かう。
ポケットに入れた紙片を指先で確かめ、胸の鼓動が早まるのを感じた。
このことを誰にも言わずに済ませるしかない――そんな決意が瞳に宿る。
だがその様子を、誰かが見逃してはいなかった。
学院の渡り廊下の影に立つカルマが、腕を組みながらその後ろ姿を目で追う。
「……どこへ行く気?」
小さく呟き、口元にわずかな笑みを浮かべた。
けれどその目は鋭く、疑念と警戒が滲んでいた。
カルマはゆっくりとその場を離れ、足音を忍ばせて彼女の後を追い始める。
◆ ◆ ◆
車はやがて街外れの荒れた工業地帯へ入り込む。
錆びついた柵を抜け、ひび割れたアスファルトを軋ませて進んだ末に、廃工場の前で停まった。
アリアンは深く息を吸い込むと、ゆっくりと車を降りた。
足元の砂利がざり、と乾いた音を立てる。
胸の奥では心臓が痛いほどに脈打っていた。
手のひらには冷たい汗が滲む。
ヘレンは無言で先を歩き、アリアンもその後を追うように朽ちた大扉をくぐった。
中は暗く、崩れかけた壁や折れた鉄骨が影を作り、空気はひどくひんやりしていた。
「アリアン、来たのか。」
低く沈んだ声が、工場の中央から響いた。
アリアンははっとして顔を上げた。
割れた窓から差し込む弱い光に、男の背中が浮かび上がる。
その姿に、心臓が一瞬止まりそうになった。
「……お父さん。」
掠れた声が喉を震わせる。
言葉はすぐに途切れ、胸の奥から込み上げるものを必死で飲み込む。
視界が揺れる。
思い出と現実が混ざり合い、頭の中が真っ白になった。
ゆっくりと男――イアンが振り返る。
黒い瞳がかすかに光を帯び、唇にわずかな微笑を刻む。
「来ると思っていたよ。」
その声は妙に優しかった。
「……私……」
アリアンの喉が詰まり、指先がかすかに震えた。
「本当に……それが、全部……あなたにとって価値があることだったの?」
イアンはすぐには答えなかった。
鋭くも穏やかにも見える目で、娘の顔をじっと見つめる。
そして、低く落ち着いた声で告げる。
「価値があるかどうかは、結果が決める。お前は……その鍵だ。」
「鍵……?」
アリアンは一歩後ずさり、声がわずかに震えた。
「私は……あなたの道具じゃない! 私を使って……自分の計画を達成しようとしてるだけでしょう!」
イアンは微笑を消し、ゆっくりと近づいた。
声はあくまで静かだが、そこに冷たい圧が潜んでいた。
「アリアン。お前はまだ知らない。世界がどれだけ醜く、残酷かを。
だからこそ、自由を与えるために、私は――」
「自由?」
アリアンの声がかすれ、目に涙がにじんだ。
「その“自由”は……セレナやみんなの痛みの上に築くものなの?
……あなた、セレナのことだって娘だって言ってたじゃない!」
イアンの目がわずかに鋭くなり、口元の線が冷たく引き締まった。
「セレナは私を裏切った。お前にはその意味が分からないだろう。」
その時――
暗闇の奥から低い声が響いた。
「――じゃあ、お前は分かってるっていうのか?」
アリアンはびくりとして振り向いた。
そこには、工場の壁際の影から歩み出るカルマの姿があった。
その双眸は薄暗い光の中で金を帯びた緑にきらめき、氷のように冷たい光を放っていた。
「……カルマさん?」
アリアンは目を見張り、声を震わせた。
「どうして……ここに……」
イアンは口元を歪め、嘲るように低く笑った。
「アリアン。いい客を連れてきたな。実に親孝行な娘だ。」
カルマはアリアンを一瞥もしないまま、イアンを真っ直ぐに睨み据えた。
その声は刺すように鋭かった。
「五年前に来られなかった分、今埋め合わせに来た。……嬉しいだろう?」
イアンは鼻を鳴らすように笑った。
「五年越しで? ……何をするつもりだ?」
カルマの目が細まり、声が低くなった。
「何をするって? お前がエンを傷つけ、ソレイアを奪った……
その借りを、ここで返す。」
「借りだと?」
イアンはあざ笑うように目を細めた。
「お前ひとりで? それで私に勝てるとでも?」
カルマの唇が歪む。
「試してみる?」
その瞬間、空気が弾けた。
カルマの全身が赤い光に包まれ、一直線にイアンへと飛ぶ。
指先から放たれた炎が刃のように弧を描き、胸元を貫こうとした――
だが床が轟音を立てて裂け、そこから這い出た巨大な魔獣がカルマの進路を遮った。
獣の咆哮が廃工場を震わせる。
イアンは口角を冷たく釣り上げ、黒い瞳に残酷な光を宿した。
「ソレイア……あんなに近くにいたのにな。
手を伸ばせば触れられる距離で、何も気付けなかったとは。」
声が低く冷たく、突き刺すようだった。
「……滑稽だな。」
「……ふざけるな!」
カルマの目が鋭く光り、怒りと混乱がないまぜになった声を吐き捨てた。
「お前の口からソレイアの名を出すな!」
イアンは肩をすくめ、軽蔑を込めた声で言い放つ。
「その程度の理解力でよくも粋がったものだな、カルマ。」
再び床が割れ、続けざまに魔獣が這い出てくる。
廃工場は地獄のような咆哮に満ちた。
カルマは素早く後退し、背中から大きな翼を広げると音もなく舞い上がる。
目には冷たい光が宿り、声はさらに低く鋭くなった。
「またその程度の小細工か。」
両手を広げると、周囲の空気が一瞬で熱を帯びる。
手のひらで渦を巻いた炎が膨れ上がり、巨大な火球となって魔獣めがけて放たれた。
爆音と共に炎が魔獣を包み込む。
悲鳴が木霊し、黒煙が工場の天井を突き破るように昇った。
カルマの目が細められ、口元には冷たい笑みが浮かぶ。
「そんなもので私を止められると思った?」
赤い光の尾を引きながら、再び地を蹴るように飛び込むカルマ。
そのたびに炎が炸裂し、魔獣たちが断末魔を上げた。




