選び (4)
カルマの声が、ノックスが階段を上ろうとしたその時に響いた。
「……あんたの魔力の流れ、ちょっとおかしいよ。」
ノックスの足が止まる。
だが振り返らずに、淡々と答えた。
「平気だ。ただの疲れだ。」
「嘘つき。」
カルマは変わらぬ平静な声で、しかし鋭さを帯びていた。
椅子を軽く回し、手で背を叩くように示す。
「座れ。ほら、こっち向け。」
その口調は柔らかいのに、有無を言わせない圧があった。
ノックスはわずかに逡巡したが、結局素直に近づき、椅子の背に体を預けた。
顔を伏せたその仕草は、普段と変わらぬ無駄のない抑制。
カルマはゆっくりと彼の上着をめくり、腰から背中にかけての肌を露わにする。
指先が彼の左腰のあたりをなぞった。
そこには肌とほとんど同じ色で溶け込むような、細く深い暗赤の筋が走っていた。
翼の根にまで食い込むように刻まれたそれは、外傷ではなく、魔力経路そのものに走った裂け目。
普段は目立たないが、魔力の流れが滞る今は赤く熱を帯びていた。
カルマが小さく息を吐く。
「……この傷。」
ノックスは答えず、うつむいたまま。
食いしばった顎がわずかに震え、白くなった指先が椅子を握り込む。
その時、机上のノートPCからアイデンの声が落ち着いた調子で割り込んだ。
「セナは外傷の処置をしていたが、そこまでは気づいていないようだ。」
炎が目を細め、低い声で問う。
「……どういうことだ。」
カルマは一度モニターを見やり、声を落ち着かせて説明を始める。
「別にセナの落ち度じゃない。これは人間には出ないタイプの傷だよ。」
指でノックスの翼根を軽く押さえながら、視線は真剣だ。
「この辺り——導脈の交差点で翼根の節点。魔族にとっては魔力流の心臓みたいなもん。ここを大きく損傷すると、全身の魔力循環にダイレクトに影響する。」
声を低くしつつも、今度は優しく手を当てる。
「……翼、広げてみな。状態を見せて。」
ノックスは喉を詰まらせるように一度息を飲み込む。
そしてゆっくりと魔力を流し始めた。
だがそれは途切れ途切れで、割れた水脈を通すように不安定だった。
「……っ!」
翼膜が無理やり伸びると同時に、カルマが両手で根を押さえ魔力の流れを整える。
だがノックスの体は反射的に痙攣し、額に汗が滲む。
椅子の背を握る指は白く変わっていた。
それでも何とか翼が広がる。
震えて、荒ぶる獣のように今にも崩れそうに見えた。
カルマは指先に魔力を集め、導脈を探るようにゆっくり触れる。
長い沈黙の後、やっと小さく息を吐いた。
「……理屈上はもう癒着も終わってる。副翼骨の再生も進んでるし、致命傷は残らない。」
しかし、眉をひそめたまま指を深い節点に沿わせる。
「でも、この裂け目は……おかしい。普通の切り傷じゃない。導脈に異質な魔力の痕が刻み込まれてる。」
ノックスは顔を伏せたまま、わずかに眉を寄せた。
カルマは声を落ち着けて続ける。
「つまり、あんたの体だけじゃ排除できない。魔力が自己修復しようとするたびに、この異物を弾こうとして痛みが走る。」
炎が短く問う。
「放っておくと?」
カルマの声が少し重くなった。
「この異物が導脈に定着して、魔力流そのものを阻害する構造を作る。そうなったら、基礎魔力制御すら難しくなる。」
手を離し、軽く肩をすくめるように言った。
「今ならまだ大丈夫。若いし導脈の柔軟性もある。今からしばらく魔力出力を止めて、体に追い出させればなんとかなる。」
ノックスは静かに息を吐き、魔力を引いて翼を消す。
「……分かった。」
低く答えると、服を整え、無言で階段へ向かっていく。
部屋には短い静寂が落ちた。
カルマはその背中を見送りながら、指先で軽くカップを叩く。
その目は少し陰を帯びていた。
やがて、カルマはぽつりと呟いた。
「……あいつ、あんたに似てるね。何でも一人で抱え込むところ。」
炎は返事をせず、茶をゆっくりと回した。
その沈黙は肯定とも否定とも取れた。
カルマは小さく笑い、肩を揺らした。
「冷たいよね、あんたも。全部理屈で考えて、感情なんて二の次。」
炎は視線を上げず、ただ低く言った。
「……お前が一番知ってるだろ。」
カルマは鼻で笑い、カップを口に運んだ。
目はまだ、ノックスが消えた階段の方をじっと見つめていた。
それは未来を思うようでいて、同時にどこか遠い過去を見ているようだった。
◆ ◆ ◆
時はゆっくり流れ、あっという間にまた一週間が過ぎた。
学院の日常は何も変わらず動き続けていたけれど、アリアンにとってはどこか静かすぎるくらいの時間だった。
ノックスが休学してから、生活の中で大きなものが欠けたような感覚があった。
でもそれが何なのか、うまく言葉にできなかった。
その日、放課後の訓練場。
武器の手入れをしていたカスパを見つけ、アリアンはなんとなく近づいた。
カスパは顔を上げて手を振る。
「お、アリアン。今日はどうしたの、珍しいね?」
アリアンは近くのベンチに腰を下ろし、軽く微笑んだ。
「別に……ただの通り道。」
目は彼の手元の武器を追いながらも、どこか上の空だった。
カスパは刃を布で拭きつつ、軽い調子で話を続けた。
「そういえばさ、ノックス休学したんだって? アリアンなら知ってるかと思ってた。」
その言葉に、心臓が小さく跳ねた。
けれど顔は崩さずに、あくまで無関心を装う。
「……何も聞いてない。ただ、研究に集中したいんじゃない?」
カスパは肩をすくめて笑った。
「まあね。せっかく馴染んできたのに、すぐ休学とはな。でも、もうすぐ冬休みだし大差ないか。なんか先に休みに入ったみたいで羨ましいわ。」
アリアンは何も返さず、視線を落として地面を見つめたままだった。
カスパはその様子をちらりと見て、手を止めた。
声の調子を少しだけ変える。
「……仲良かったじゃん。冬休み中に遊びに行けば? みんなで集まればいいさ。」
アリアンはゆっくり顔を上げ、作り笑いを浮かべた。
「考えとく。」
カスパは一瞬黙ったが、すぐに刀を鞘に収め、軽く肩を叩く。
「ま、ただの提案。気が変わったら声かけろよ、俺も連れてけ。」
「……うん。」
小さな声で返し、アリアンは立ち上がった。
気楽そうな会話を装ったその時間が、逆に息苦しく思えた。
訓練場を出た後も、胸の奥はざわついたままだった。
ノックスがいないことを「大したことない」と思いたかったのに、カスパに言われたせいで変に意識してしまう。
もうすぐ冬休み。学院の空気は少しずつ浮き立ち、周りはどこか開放的になっていくのに、アリアンの心は置いてけぼりのようだった。
学院内を歩く途中、不意にノックスの姿を見た気がした。
赤い髪、落ち着いた背中。
慌てて近づくと、そこには誰もいない、静かな廊下があるだけだった。
その距離感が、いやに現実味を帯びて胸を締めつけた。
たとえ再会しても、何を話せばいいのか分からない。
見えない壁が少しずつ大きくなっていくようで、不安が膨らむのに、理由を探すこともできなかった。
もうすぐ冬休みだというのに、周りが楽しげになればなるほど、自分だけが取り残されていく気がした。




