選び (1)
アリアンはそっとドアを押し開けた。
部屋の灯りは消えていて、窓の外の月明かりだけがかすかに室内を照らしている。
目に入ったのは、ベッドにだらしなく横たわるセレナの姿だった。
黒髪が乱れて広がり、赤い瞳が月光を受けてほのかに光っている。
「セレナ!」
アリアンは慌てて駆け寄り、彼女の体を隅々まで目で追った。
「大丈夫? 怪我したの? それとも具合悪いの?」
セレナはゆっくりと寝返りを打ち、薄く笑みを浮かべた。
「そんなに焦らないで。平気だよ。……ほら、あれ見て。」
指差した先には、ベッド脇に置かれた鞄と小さな袋。
中には見慣れた服や、いくつかの私物が顔を覗かせていた。
「……これ、私の?」
アリアンは一瞬呆けたように見つめ、すぐに目を見開いた。
「えっ、まさか……帰ったの?」
セレナは小さく頷き、頬杖をついて横目で彼女を見た。
「お前に必要だと思ったから、取ってきた。」
アリアンの顔色がさっと変わる。
声も少し強くなる。
「ちょっと、正気? 今あそこに戻るなんて危険すぎるでしょ。もし父さんの手の者に捕まったら——」
「捕まるわけないでしょ。」
セレナはあっさりと言い、伸びをして見せた。
その軽い口調が、逆に答えを濁しているようにも思えた。
「そんなの……」
アリアンは言葉を詰まらせ、悔しそうに唇を噛む。
「こんなののために、命懸けることないのに……」
セレナは小さく笑った。
瞳に少し意地悪そうな光を宿しながら、からかうように言う。
「でも、お前、喜んでる顔してるよ?」
アリアンはハッとして視線を落とした。
袋の中には、着慣れた古い服、よく使うノート、そしてベッドサイドに置いていた小さな飾りまで入っていた。
「……別に、こんなことしなくてもよかったのに。」
声はだんだんと弱くなり、瞳にも複雑な色が滲む。
セレナは横を向いたまま、小さく微笑んだが、それ以上何も言わなかった。
そのまま目を閉じ、眠る準備をするように息を整える。
あるいは、アリアンの目を避けるためだったのかもしれない。
アリアンはそんな彼女を見つめ、ゆっくりと鞄を下ろした。
ベッドの縁に腰を下ろし、指先でシーツをなぞりながら視線を落とす。
言葉にできない感情が胸の奥を渦巻いていた。
セレナは片目を薄く開けて、赤い瞳を向けた。
月光を受けてわずかに光るその視線は、じっとアリアンを観察するように動かない。
「……何考えてんの?」
声こそ出さないが、そんな問いかけが込められているようだった。
アリアンはその視線を感じながら、何も言えずに俯いたまま動かない。
月明かりの下、二人の間に小さくて重い沈黙が落ちていた。
アリアンがゆっくり顔を上げ、セレナと視線を交わした瞬間、胸が小さく震えた。
赤い瞳はどこか決意を宿しつつも、深い疲労が滲んでいて——炎を思い出させた。
何も言わなくても、内心を見透かすようなあの眼差し。
「セレナ……本当に、自分の手で……父さんを止めるつもりなの?」
アリアンはかすれる声で問いかけた。
セレナは一瞬だけ黙ったが、目を逸らさずに小さく頷いた。
「それしかない。」
その言葉は淡々としていたけれど、強い意志がにじんでいた。
アリアンの呼吸が詰まり、胸が苦しくなる。
指先が無意識にシーツを握りしめ、関節が白くなる。
「でも……あの人は、私の父親なんだよ……。何をしたって、それは変わらない。」
その声は震え、ほとんど自分に言い聞かせるようだった。
セレナの目がわずかに揺れる。
分かっているのだ、どれほど残酷なことを言っているかを。
イアンがどんな罪を重ねても、アリアンにとっては切り離せない「親」であることを。
「分かってる。」
セレナの声はいつになく低く、穏やかだった。
「でも、あの人は『父親』である以上のことをしてきた。お前も、全部見たろ。友達に、周りの人に、そして……お前自身に何をしたか。」
少しだけ言葉を切り、息を飲むように続けた。
「それは、許しちゃいけないことだ。」
アリアンの肩が震え、首を振った。
「分かってるよ……でも、憎めないんだ。何をされても……父親だから……」
声が途切れ、涙が頬を伝った。
愛情と理屈がぶつかり合い、どうしても解けない痛みが胸を刺す。
セレナはじっとその様子を見つめ、目を細めた。
自分がやることは、アリアンの世界を壊す。
たぶん憎まれる。
でも、止めなければ終わらない。
それだけは分かっていた。
しばらく黙っていたセレナは、そっと目を閉じ、息を整えた。
そしてゆっくり体を動かし、アリアンのそばに寄る。
ベッドが小さく沈み、アリアンは気づいたが、顔を上げなかった。
次の瞬間、セレナの腕が後ろからそっと肩を抱きしめる。
長い黒髪がアリアンの胸元に垂れ、ひやりとした感触が肌をかすめた。
アリアンは小さく息を呑み、でも抵抗せず、握りしめていたシーツから手を離した。
ただ俯いたまま、そのぬくもりを感じていた。
「……ごめん。」
セレナが低く、ほとんど耳元で吐息のように囁く。
言い訳じゃない。ただ、どうしようもない言葉だった。
アリアンの肩が小さく震え、唇を噛んだまま涙がこぼれる。
分かってる、謝らなくていいって。
でも、止められない。
「言わないでよ、そんなの……」
声が震え、掠れていた。
「分かってるけど……分かったって、痛いのは変わらないよ……」
セレナは何も返さなかった。ただ、腕に少しだけ力を込めた。
その温度だけが、二人を繋ぎ止めていた。
月明かりが静かに差し込む中、二人は寄り添って座り込んでいた。
どちらも何も言えずに、ただ互いの体温を感じ合う。
黒い髪がアリアンの胸元に絡みつき、彼女の涙を吸い込むように揺れていた。




