断章 (3)
アリアンの頬を涙が伝った。彼女はかすれた声で尋ねた。
「じゃあ……セレナの力は……今もあるの……?」
セレナは少し黙り込んだ後、ゆっくりとうなずいた。
「実験のせいで、完全には失われなかった。ただ、体はそのせいで損傷を負った。イアンにとって私は『価値が下がった』存在になったのよ。」
彼女は短く息を吐き、記憶を追うように目を伏せた。
「だからこそ、私は隠れることができた。もう最優先のターゲットじゃなくなったから。」
セレナはふとノックスを見た。眉をひそめ、不安そうに、そして悔しげに言葉を続けた。
「でも……イアンの目標はお前に移った。お前の力は、私たち二人を合わせた以上だと彼は考えている。」
ノックスの胸が苦しく締め付けられ、低い声が漏れた。
「つまり……ずっと機会をうかがってたってことか。」
セレナは唇を固く結び、重くうなずいた。
「そう。彼の計画は止まってなんかいない。ただ方向を変えただけ。お前の力は彼にとって最後のピースなの。」
ノックスの拳が震え、声に抑えた怒りが滲んだ。
「そんな計画のために……お前たちを何度も……。」
セレナはノックスを見つめ、苦しげに、しかし決意を込めて言った。
「だからこそ、止めなきゃいけない。絶対に、あいつの計画を止める。」
アリアンの肩が小さく震え、涙声で絞り出した。
「ごめん……セレナ、私、何も知らなかった……。」
セレナはゆっくりと手を上げ、そっとアリアンの肩に触れた。
声は低く、しかし揺るぎない強さを帯びていた。
「それはお前のせいじゃない、アリアン。イアンの狂気をお前が背負う必要はない。私にとって、お前が生きてくれることが、何より大事なんだ。」
部屋の空気が重苦しく沈んだその時、ずっと黙っていたアイデンがようやく口を開いた。
低くゆっくりとした声が、張り詰めた空気を割った。
「……こうして話を聞くと、本当に重すぎる内容だな。セレナが受けた仕打ち……それにイアンの狂気じみた計画。エンとカルマにとっては、まさに悪夢だ。あの二人の娘がこんな目に遭っていたなんて……」
彼は一度言葉を切り、メガネを軽く押し上げる仕草をした。その指先は、わずかに震えていた。
アイデンの視線は部屋をゆっくりと巡り、やがて机の上に落ち着いた。
「どう説明すればいいのかも分からない。エンもカルマも、お前たちを守るためにどれだけ尽くしてきたか……それでも結局、こんな結果になってしまった。真実を知った時、あの二人がどう受け止めるのか……想像すらしたくない。」
部屋は短い沈黙に包まれた。ただ、それぞれの呼吸音だけが微かに響く。
セレナは少し表情を和らげ、低い声で言った。
「これは私たちの問題よ。あの人たちに、これ以上背負わせる必要はない。もう十分すぎるほどしてもらったんだから。」
ノックスは目を伏せ、深く息を吸い込んだ。その指先は小さく震え、無意識に自分の腕を掴む。
セレナはその仕草を見て、少し柔らかい声で続けた。
「ノックス、全部を自分で抱え込む必要なんてない。当時、私たちは子供だった。何もできなかったし、止められなかった。それはお前のせいじゃない。」
ノックスはゆっくりと顔を上げ、セレナを見つめた。
その瞳には葛藤と感謝が滲んでいた。かすれた声で、低く言う。
「分かってる……でも、やっぱり考えてしまう。もし、あの時……」
セレナは首を振り、強い声で遮った。
「もしあの時、何ができたっていうの? 選択肢なんか最初からなかった。もう過去のことで自分を責めるのはやめて。今私たちが考えるべきなのは、これからどうするか。それだけよ。」
ノックスは短く黙り、やがて小さく頷いた。
その目はまだ深い影を宿していたが、わずかに解放されたようでもあった。
「……たしかに、逃げてばかりじゃいけないな。」
セレナはその言葉にわずかに口角を上げた。ほんの一瞬だけの小さな笑みだった。
「そう。その通りよ。今のお前は、もう何もできなかった子供じゃない。」
アイデンはメガネを押し上げ、わずかに苛立ちを滲ませた声で口を開いた。
「だが、今回のお前たちの計画は無謀すぎる。ノックスを囮にしてイアンの巣窟に乗り込むなんて、危険すぎる策だ。」
セレナは鋭く睨み返し、冷たい声で返した。
「そっちだって同じでしょ? ノックスを前面に立たせて敵を引きつけたとき、あんたたちだって彼を囮にしてた。」
アイデンの目が鋭く細まり、声も低くなった。
「だが、それは綿密に準備した上での配置だ。お前たちのような一か八かの特攻とは違う。昨日の作戦が失敗していたらどうするつもりだった?」
ノックスは二人の間に漂う張り詰めた空気を断ち切るように、深く息を吐き、落ち着いた声で言った。
「もうやめろ。俺は自分が囮になるのを嫌だと思ったことはない。それは俺が選んだことだ。」
その言葉は重く響き、争いかけていた空気をピタリと止めた。
セレナは視線を落とし、一瞬の沈黙の後で小さな声を漏らした。
「……それでも、あんたが傷つくのを見たくない。」
アイデンはため息をつき、視線を窓の外へ投げた。その横顔には疲れが滲んでいた。
「……とにかく、次の計画はもっと慎重に立てる必要がある。イアンは簡単に諦める相手じゃないし、次は絶対に失敗できない。」
アリアンは少し逡巡しながら、意を決したように口を開いた。
「……それと。昨日の戦いで、私、父さんの攻撃を反射したの。私は力を継いでないって思ってたけど……あれは何か関係があるの?」
セレナの眉がわずかに動き、意外そうな声を出した。
「言われてみれば……忘れてたわ。昨日は状況がぐちゃぐちゃで深く考えなかったけど、たしかに変だった。」
アイデンは顎に手をやり、メガネの奥の目を細めた。
「重要な手がかりかもしれないな。アリアンのその反応は、心臓移植の影響が出た可能性がある。身体検査で何か分かるかもしれない。」
アリアンは不安げに眉を寄せ、か細い声を出した。
「身体検査って……危ないことじゃないの?」
アイデンは首を横に振り、少しだけ声を和らげた。
「心配いらない。基本的な検査だけだし、侵襲的なことはしない。それに、セレナにも受けてもらいたい。二人のデータを比較することで、この手術がどんな影響を残したかが分かるかもしれない。」
セレナはしばらく考え、やがて肩をすくめた。
「別にいいわよ。検査したって減るもんじゃないし。あの実験が何を残したのか、はっきりさせられるならそれでいい。」
アリアンはその返事を見て、小さく息を吐いて頷いた。
「……分かった。お願い、アイデン校長。」
アイデンは軽く頷き、穏やかな声で告げた。
「分かった。準備が整い次第、すぐに連絡する。それまで二人とも休んでおけ。」
アリアンとセレナは視線を交わし、セレナが無言で小さく頷くと、アリアンを促すようにして出口へ向かった。
ノックスは二人の背中を見送ったあと、アイデンに向き直り、真剣な目で言った。
「アイデン、俺にも聞きたいことがある。父さんの足の符紋装置についてだ。」
アイデンの眉がわずかに動いたが、すぐに考え込むような顔になる。
「……あの装置がどうした?」
ノックスは静かに頷き、真っ直ぐにアイデンを見つめた。
「時間制限があって、使うたびに負担がかかってるのは分かる。けど、その仕組みを詳しく知りたい。研究させてほしい。」
アイデンはじっとノックスを見つめ、その目に複雑な色を宿した。
やがて、静かにメガネを押し上げて口を開いた。
「お前は……それで父親を助けたいんだな。」
ノックスは一瞬言葉に詰まり、しかし迷いのない声で頷いた。
「そうだ。もしあれが父さんを蝕んでいるなら、どうにかしたい。見ているだけなんて、もう嫌なんだ。」
アイデンの口元にわずかな笑みが浮かび、その声に柔らかさが滲む。
「……お前は本当に、立派になったな。分かった。装置の仕組みは複雑だが、資料をまとめておく。お前の怪我が少し落ち着いたら、研究を始めるといい。」
ノックスは目を伏せて小さく息を吐き、それからしっかりとアイデンを見上げ、低く礼を言った。
「ありがとう、アイデン。」




