覚醒 (5)
そう言うと、イアンは懐から一本の細長い短剣を取り出した。
刀身は暗紅色に鈍く光り、刃全体に緻密な符紋が刻まれている。それらは彼の魔力に反応し、脈動するように微光を放っていた。まるで、一つひとつが禁術を封じる封印のように。
「この刃は、お前のために用意した特別な道具だ。翼膜の端にある神経節を切開すれば、暴走する寸前の反応値が観察できる……かもしれないな。」
その口調は妙に優しげだった。
「……狂ってる。」
その時、鋭く怒気を孕んだ声が地下室に響き渡った。
「やめて!やめなさい、もう十分よ!」
アリアンが駆け込んできた。彼女はイアンに向かってまっすぐに走り、怒りに染まった瞳で彼を睨みつける。
「彼にこれ以上何をするつもりなの!?」
しかしイアンは微塵も動じず、むしろ当然のように足を振り上げ、彼女の腹部を強く蹴りつけた。
ドンッ!
アリアンは壁際まで弾き飛ばされ、肩から崩れ落ちた。唇から滲む血をぬぐいもせず、それでも彼女は震える膝を押さえて立ち上がろうとする。
「口を出すな、アリアン。」
イアンは感情のない声でそう告げ、手にした短剣を再びノックスの翼の付け根に向ける。刀身の輝きが、ノックスの汗に濡れた肌に鈍く反射した。
ノックスの視界が歪む。
アリアンが倒れた姿、イアンが再び近づいてくる影、何もかもが滲んで見えた。
彼はすでに身動きが取れず、魔力も制御を失いつつあった。
——もう、どこまで耐えられる?
彼の中で何かが、限界を越えようとしていた。
苦痛の波に飲まれながらも、ノックスは意識を繋ぎとめようと必死だった。彼の背中では、暴走しかけた魔力が渦巻き、翼が反応する。
——封じられている符紋陣をどうにかしないと、何も守れない。
彼は僅かに残った意識を集中させ、視線を地下室の壁へ走らせる。符紋の光が一つ一つ脈動する中、たった一つ、わずかに輝きが弱まった紋があった。
……あれだ。
ノックスは、自分の中にかろうじて残っていた魔力を糸のように細く絞り、その一点に向けて緩やかに流し込んだ。
破壊ではない。解放でもない。
――ただ、一縷の「逆流」。
その一手に賭ける。
イアンがその動きを察した。
「……ほう。最後まで足掻くとは、見上げた執念だ。」
彼は微かに口元を歪め、短剣を握り直した。
「でも、それで状況が変わると思うなよ。」
彼の手が、ノックスの左翼の一番太い骨の根元をつかむ。短剣の刃がそこに添えられた。
「これは、ただの“反応”を見たいだけだ。」
次の瞬間、刃が静かに下ろされた。
ザリ……。
金属が何かを裂く音。翼の根本が反応し、ノックスの全身に凄まじい衝撃が走る。
「……ッ!」
彼の背中が跳ね上がり、口から漏れたのは、声にならない叫び。
だが――
その直後。
「……!?」
ノックスの翼が突如、完全に展開した。
空気が唸る。
暴風のような魔力が周囲を吹き飛ばし、イアンの身体が半歩、後方に押し返された。
短剣が手を離れ、遠くの壁に突き刺さる。
イアンが一瞬、表情を曇らせた。
それは、一瞬の「隙」。
ノックスは、そこを見逃さなかった。
「っ……!」
彼は焼け付く背中の痛みを堪えながら、最後の魔力を一点に集中させ、例の符紋へと流し込む。
もう、脈も、思考も、限界だった。
けれど、その魔力は――
確かに届いた。
符紋の一つが、ビクリと震え、異常な光を放ちはじめた。
その時、空気全体が揺れた。
封印された結界が、ついに音を立て始める。
「――っ!」
イアンが我に返った時には、すでに遅かった。
轟音と共に、魔力の衝撃が符紋の一点を貫き、深紅の光が地下室全体に走った。
制御装置のエネルギー中枢がかき乱され、連鎖していた封印の魔法陣も次々と崩壊を始める。
まるで檻の最も重要な鎖が断ち切られたかのように、ノックスを押さえつけていた力は、潮が引くように消えていった。
代わりに湧き上がったのは――彼自身の魔力だった。
背に眠っていた悪魔の翼が、まるで意思を持つかのように微かに震え、主の覚醒を祝うかのように応じた。
しかし、事態を把握する暇もない。
その瞬間、漆黒の閃光が視界をかすめた。
セレナの姿が、闇を裂く刃のごとく駆け抜け、イアンの背後を狙う。
その斬撃は鋭く、躊躇いなく見えた――だが、ノックスの目は見逃さなかった。
その刀の軌道は、わずかにイアンの急所を逸れていた。
やはり、イアンは余裕をもって身をかわし、口元に嘲りの笑みを浮かべた。
「セレナ……お前、俺をその程度で欺けるとでも?」
しかし次の瞬間、彼の目がわずかに揺らいだ。
セレナの刃が、逸れたはずの軌道から、ノックスの頭上に吊られた鎖に切り込んだのだ。
鋼が裂ける音が地下室に響き渡る。
一閃のもとに、拘束の鎖が断ち切られ、ノックスの体が重力に引かれて地面へと落下した。
「……ぐっ!」
膝から崩れ落ちた彼は、荒い呼吸を繰り返し、全身の痛みに耐えていた。
背中の翼が未だに脈打ち、荒ぶる魔力は抑えきれず、肌を通して滲み出していた。
彼は歯を食いしばり、混乱する魔力を脊椎の奥へと押し戻す。
やがて、骨がわずかに音を立て、翼がゆっくりとたたまれてゆく。
皮膚の下へと再び沈み、残されたのは、魔力の痕跡が走る淡い輝きの「傷」。
その瞬間、背に走った痛みは、まるで焼けた鉄を押し付けられたようだった。
「ノックス!」
アリアンの声が飛んできた。
肩に手が触れ、頬に温もりが伝わる。震える手で彼を支える彼女の声は、焦りと必死さに満ちていた。
「……大丈夫?どこか……動ける?」
彼はかすかに頷きながらも、まだ体を起こせずにいた。
セレナが前に出て、二人の前に立ちはだかる。
その目は氷のように冷たく、イアンをまっすぐに見据えていた。
「……もう、これ以上お前の手伝いはしない。すべて分かっていた。お前の目的も、嘘も。」
その言葉に、イアンの目がかすかに見開かれた。
「……セレナ、お前……」
彼の顔に浮かんだのは、落胆ではなく、怒りと冷たい威圧だった。
「裏切りの代償が、どれだけ重いか分かっているだろうな?」
彼が手をかざすと、暗く冷たい魔力が空気を歪ませながら集まり、槍のような形を取って三人へと放たれた。
「逃げろ!」
セレナが叫び、ノックスの肩を支えながら後退しようとする――だが、アリアンが反応する方が早かった。
「ダメぇっ!!」
彼女は咄嗟に、ノックスとセレナの前へと飛び出す。
魔力の槍が彼女の体に直撃――しかし、次の瞬間。
「っ!?」
その衝撃は、まるで目に見えない障壁に弾かれたかのように、反転して爆ぜた。
イアンの足元が揺らぎ、数歩後退するほどの余波を生む。
「そんな……ありえない……」
イアンの声が、低く震えていた。
彼の視線はアリアンに釘付けとなり、その中には驚愕と混乱が混ざり合っていた。
セレナはその隙を逃さず、ノックスとアリアンの腕をそれぞれ掴み、叫んだ。
「今よ!走って!」
三人は、互いに支え合いながら出口へと走り出す。
通路の奥には、かすかに外の光が差し込んでいた。
背後からはイアンの怒声が響くが、誰も振り返らない。
セレナは前を走りながら、低く呟いた。
「このままじゃ、すぐに追いつかれる……でも、少しでも距離を稼ぐしかない。」
アリアンは震える脚で必死にノックスを支えながら、深く頷いた。
胸の奥に渦巻く恐怖と疑念。
だが、彼女の中ではっきりした一つの確信があった。
――もう、元の世界には戻れない。




