覚醒 (1)
夜の闇が街を包み、風の音すら耳に痛いほどに静まり返っていた。
アリアンはそっと家の扉を開け、ようやく一息つこうとした——その瞬間、鋭く響き渡る音が空気を裂いた。
「パァンッ!」
玄関口で彼女の足が止まる。
目の前に広がる光景に、息が詰まった。
薄暗いリビングの中央、セレナが床に膝をついていた。
頬にははっきりと赤く腫れた痕が浮かび、その前に立つイアンの右手はまだ空中に残っている。
彼の目は氷のように冷たかった。
「セレナ!」
アリアンは声を上げ、駆け寄って妹を抱き起こした。
「どうしたの!?」
セレナは何も言わず、ただ歯を食いしばり、イアンに冷たい視線を向けた。
そこに怯えはなかった。ただ、抑えた怒りと鋼のような意志があった。
「お父さんっ……!」
アリアンは怒りに震えながら父親を睨みつけた。
「どうして彼女を叩いたの!?何をしたっていうの!」
イアンはゆっくりと手を下ろし、冷たくアリアンを見下ろした。
その視線はまるで鋼の刃のように無機質だった。
「彼女は失敗した。」
抑揚のない声には、圧迫感が満ちていた。
「執行者でありながら、任務すら果たせず、学園祭などに出るとは何事か。」
一歩踏み出した彼の声はさらに冷えた。
「お前たちはここ数日、遊んでばかりだった。任務の優先順位を忘れた代償は大きい。貴重な機会を逃したこと、理解しているのか?」
アリアンの顔から血の気が引いたが、それでもセレナの前に立ちはだかり、声を震わせながら反論した。
「私たちは学生よ。学園祭に参加するのは当然でしょ?たとえ任務が大切でも、こんなやり方で責めるのは……!」
「もういい、アリアン。」
セレナの低い声が遮った。その声は冷たく、そしてどこか疲れていた。
「これは私の問題。口出ししないで。」
「どうして関係ないって言えるの?あなたは、私の——」
「私は、あなたの“何か”じゃない。」
その言葉は切り裂くように鋭く、アリアンの目を真っ直ぐに射抜いた。
「あなたには分からない。分かる必要もない。」
セレナはアリアンの手を振り払い、よろめきながらも立ち上がり、壁づたいに階段を上っていった。
アリアンはその背を見送りながら、胸の奥に鉛のような重さを感じていた。
彼女はゆっくりと振り返り、再びイアンを見据えた。唇がわななき、言葉にならない。
イアンはただ一瞥をくれただけで、冷たい声を落とした。
「どの問題に首を突っ込むべきか、判断できるようになれ。」
アリアンは深く息を吸い、震える声で叫ぶように言った。
「結局、私は何も知らない。いつも蚊帳の外!何もできない……!」
その言葉に、去りかけたイアンの足が止まった。
彼はゆっくりと振り向き、冷笑を浮かべながら言った。
「そうか。ならば、試してみるか?」
アリアンは思わず目を見開いた。その提案が信じられなかった。
「……何を、させる気なの?」
「悪魔の翼を持つあの少年を、連れてこい。」
イアンの目が鋭く光る。その声は冷酷で、皮膚を切る刃のようだった。
「……どうして?」
アリアンの声がかすれた。心の中に不安が広がっていく。
「彼は、炎とカルマの子供だ。」
イアンは低く、押し殺したように笑った。
「理由など聞かなくていい。手段は問わない。身体でも感情でも使え。何があっても連れてこい。」
雷が脳を貫いたような衝撃。アリアンの口から零れる言葉は震えていた。
「……エンとカルマ……って……まさか……ノックス……?」
「そうだ。」
イアンは短く吐き捨てるように言った。「反応は早いな。」
信じられない。
静かで、不器用で、でも気になる存在だった彼が——
あの伝説のハンターの息子だなんて。
足元が揺れるような感覚。アリアンの手は震え、言葉を失っていた。
「言わないさ。」
イアンは冷笑を浮かべたまま続けた。
「正体が知られれば、“学生”ではいられない。“資源”になる。
そして私は、その“資源”を求めている。」
アリアンは呆然と立ち尽くし、内心の嵐に飲まれていった。
イアンはそんな娘を見下ろし、最後にこう告げた。
「手段は問わん。ノックスを連れて来い。それが、お前が“役に立つ”という証明だ。」
アリアンの唇が震える。拳を握りしめても、反論の言葉が出てこない。
イアンは冷たく笑って背を向けた。
「……期待しているぞ。」
足音が遠ざかるにつれ、リビングは再び静けさに包まれた。
アリアンはその場に立ち尽くし、震える身体でただ呆然と……ノックスの顔を、思い浮かべていた。
◆ ◆ ◆
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中にかすかなぬくもりをもたらしていた。
だが、アリアンの胸の奥に広がっていたのは、痛みと重苦しさだけだった。
彼女はベッドの端に座り込み、膝を抱えたまま茫然と床を見つめていた。
昨夜の父の言葉が頭の中で何度も繰り返される。それは鋭い棘となって、思考のすべてに突き刺さっていた。
(お前の身体でも、感情でも構わない――とにかく、彼をここに連れてこい。)
その一言が、胸に重くのしかかる。
父がノックスを連れて来いと言ったのは、単なる命令ではない。
あの目の奥にあった冷酷と執着――彼の目的は、ノックスの“力”か“存在そのもの”。それを思うと、アリアンの背筋に寒気が走った。
「彼に……害を加えるつもり……なの……?」
アリアンはかすれた声で呟いた。
その目には、どうしようもない葛藤と迷いが滲んでいた。
だが、彼女にはわかっていた。
父の命令は絶対。それがこの家のルール。
どれだけ反発しようと、結局は従うしかないのだと――
彼女は拳を握りしめ、爪が掌に食い込んでも、その痛みさえ感じなかった。
「なんで……なんで私なの……?」
絞り出すような声に、涙がにじむ。
目を閉じ、必死に平静を保とうとしたが、頭の中に浮かぶのはノックスの姿だった。
あの冷めた口調と、時折見せる優しさ――それを思い出すだけで、胸が締め付けられる。
どうしていいかわからない。
彼にどう向き合えばいいのか。
この“任務”を、どう受け止めればいいのか。
「……ごめんね。」
アリアンはぽつりと呟いた。
それはノックスに対する謝罪であり、自分自身への言い訳でもあった。
一粒の涙が頬を伝い、シーツに落ちて消えていく。
彼女にはわかっていた。
この先、どちらかを選ばなければならない。
父の命令に従うか――それとも、自分の良心に従うか。
唇を噛みしめ、こみ上げる感情を必死に押し殺す。
だが、胸の重圧は増すばかりだった。
学院に戻ることさえ怖かった。
ノックスの顔を見ることが、怖かった。
――こんな任務……私にできるの……?
混乱の渦に飲まれていたその時、
「ギィ」と扉の開く音がした。
黒い影が、静かに部屋に現れる。
その冷たい視線に、空気が張り詰めた。
「……で、どうするつもり?」
セレナの声は冷たく静かだった。
刃のような言葉が、アリアンの心に突き刺さる。
アリアンは顔を上げる。
部屋に足を踏み入れた妹――普段は決して入って来ないセレナが、今日は自ら来たのだ。
その瞳は深く、静かに彼女を見つめていた。
まるで、アリアンの迷いも弱さも、すべて見透かしているかのように。
「昨日の……聞いてたの?」
かすれた声で問いかけながら、アリアンは自嘲気味に俯いた。
「……そっか、何でも知ってるもんね。」
セレナは黙ってアリアンの前に立ち、見下ろしたまま、感情のこもらない声で言った。
「それで?どうするの?」
アリアンは首を横に振り、スカートの裾をぎゅっと掴んだ。
「わからない……何が正し




