兆し (6)
夜の冷たい風が庭を通り抜け、落ち葉が微かな街灯の光に照らされて揺れていた。
アリアンの足音だけが静かな夜道に響き、そのひとつひとつが孤独を物語っているようだった。
手に握ったスマホを強く握りしめながら、彼女の足はだんだんと速くなっていく。
セレナの冷たい目、そして父の「役立たず」という言葉が脳裏をよぎるたび、胸が鋭く痛んだ。
「どうしても……一人で抱えたくないだけなのに……」
アリアンの小さな背中は、薄暗い街灯の下で静かに揺れながら消えていく。
月明かりがその背を照らし出し、どこか孤独で、それでもなお確かな意志を宿していた。
スマホの画面は依然として沈黙を保ち、ノックスからの返信はない。
だが、それでも彼女の足は止まらない。今の彼女は、ただ誰かに話を聞いてほしかった。
夜道は静まり返り、風と落ち葉が擦れる音だけが響いている。
アリアンは街灯の下を一歩一歩進みながら、白くなった指でスマホを握り続けていた。
セレナの「あなたは邪魔なだけ」という冷酷な言葉、そして父の冷たい評価──
「役立たず」──それが自分に向けられた言葉だという現実が、心を容赦なく突き刺す。
思えば思うほど、彼女の歩みは速くなり、やがて走り出していた。
頭の中のざわめきから逃れたくて、ノックスに早く会いたくて、
たとえ彼の冷たい声でも、それがあれば自分が一人ではないと感じられるから。
だが、夜道は優しくはなかった。
急ぎ足で横断歩道を駆け抜けたその時、突き出た石につまずいてしまう。
「きゃっ……!」
体勢を崩し、勢いよく地面に倒れ込む。
膝に鋭い痛みが走り、反射的に身体を起こそうとするも、痛みが全身を襲う。
見下ろせば、膝は擦りむけていて、赤い血が滲んでいた。
アリアンはその傷に手を伸ばしたが、触れた瞬間に息を飲むほどの痛みに顔をしかめた。
涙が滲み、もうこらえきれない。
肩を震わせながら、ついにそれは頬を伝い始めた。
「……私、いったい何やってるの……」
かすれた声で呟きながら、アリアンは顔を上げる。
見上げた夜空には、誰もいない街路と、どこまでも冷たい月の光が広がっていた。
セレナの無関心な目、父の軽蔑、ノックスの沈黙──
全ての記憶が一気に押し寄せ、胸を締めつける。
膝を抱え込むように地面にうずくまり、腕の中に顔を埋める。
そして、声にならない嗚咽を風に乗せて、ただただ泣いた。
「どうして……どうして私は、いつもこんなに……役に立てないの……」
涙混じりの声は、夜風に消されるようにして、静かに溶けていく。
誰にも必要とされていないのではないかという、底知れぬ不安。
月の光が彼女の小さな体を照らす。
その肩は震え、まるで迷子になった子どものように頼りなく揺れていた。
遠くの街灯が淡く明滅し、木々の間をすり抜ける風が彼女の嗚咽をさらっていった。
それと共に、最後の抵抗も、どこかへ流れていった。
「ほんとうに……誰にも必要とされていないのかな……」
アリアンの心の奥で響いたその声は、月光の下でかすかな光を放ちながら、静かに夜に沈んでいった。
夜の冷たい風が静かに吹き抜け、アリアンは身を縮めて地面に座り込んでいた。
頬を伝う涙は止まらず、胸の奥の痛みと孤独が、底知れぬ闇のように彼女を飲み込んでいく。
そのとき、前方から静かな声が響いた。
「こんなところで、何してる?」
アリアンははっとして顔を上げた。
涙で霞んだ視界の中に、見慣れた人影が立っていた。
ぼんやりとした街灯の下、ノックスの姿が少し滲んで見えたが、その声だけは確かに届いていた。
「ノックス……?」
アリアンの声は驚きと戸惑いに満ちていた。
ノックスは彼女の少し先に立ち、いつも通りの無表情で見下ろしていた。
ただ、薄暗い光の中でその眉がかすかに寄っており、目線もどこか揺らいで見えた。
「そこで泣いて……何があった?」
ノックスの声は相変わらず淡々としていたが、アリアンにはどこか戸惑っているようにも聞こえた。
アリアンは涙を拭きながら、まだ信じられない様子で訊いた。
「……どうしてここに? なんで、私がここにいるって……?」
ノックスはすぐには答えず、空を一瞥したあと、ポケットからスマホを取り出して彼女の前に差し出した。
画面には、彼がかけ直した通話履歴と数件のメッセージが並んでいた。
『電話に出ろ』
『どこにいる』
『待ってろ』
アリアンはその画面を見つめ、言葉を失った。
ノックスは、ずっと彼女を探していた。
「……私のために、わざわざ来てくれたの……?」
その問いかけは、ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。
ノックスはスマホを仕舞いながら、変わらぬ口調で答えた。
「他に誰のために行くんだよ? メッセージ送って、電話にも出ないとか……」
その言葉に、アリアンの目からまた涙があふれた。
彼女は顔を手で覆い、さっき以上に大きな声で泣き出した。
肩が震え、堪えていた感情が一気に崩れ落ちる。
「おい……」ノックスは困ったように眉をひそめた。
「何泣いてるんだよ……」
アリアンは答えず、膝を抱きしめるようにして、腕に顔を埋めた。
泣き声は風に紛れて小さくなっていったが、彼女の震えは止まらなかった。
ノックスはその様子をしばらく見つめていたが、やがてため息をひとつついてしゃがみ込んだ。
ポケットからティッシュを取り出し、一枚を彼女の前に差し出す。
「……これ、使えよ」
その声も仕草も、いつも通りの無表情のままだったが、どこかぎこちない優しさが滲んでいた。
アリアンは顔を上げ、ティッシュを受け取りながら、涙に濡れた目で彼を見つめた。
その瞳には、複雑な想いが浮かんでいた。
ノックスはアリアンの隣に腰を下ろし、沈黙の中で夜風だけが吹き抜けていく。
街灯の下、二人の影が静かに伸び、アリアンのすすり泣く声も次第に弱まっていった。
ノックスは遠くの夜空を見上げながら、思案に沈んでいた。
(セレナのこと、彼女に任せすぎたか……)
冷たいが優秀で、容赦のないセレナ。
もし、何かきついことでも言われたのなら──。
彼はそっと視線を横にやり、まだ膝を抱えたままのアリアンを見た。
(セレナに何か言われたせいで、泣いてるんじゃ……)
「おまえ、そんなに泣き虫だったっけ?」
ノックスがようやく口を開いた。
その声音には、ほんの少しからかうような響きがあったが、どこか優しさも混ざっていた。
アリアンは赤く腫れた目で彼を睨みつつ、ぷいとそっぽを向いて小さく鼻を鳴らした。
ノックスは小さく息をつき、少し視線を落として言った。
「セレナに何か言われたんなら、気にすんな。あいつの言葉なんかで、泣く必要ない」
その一言に、アリアンは驚いたように目を見開いた。
彼がそんなことを言うなんて、想像もしていなかった。
彼女の瞳にまた涙が浮かび、それでも、今度はほんの少し──
心が温かくなるのを感じていた。




