兆し (5)
夜の月明かりがカーテン越しに部屋に差し込み、家の中はひときわ静けさに包まれていた。
アリアンは玄関に入るなりカバンを置き、急いで階段を駆け上がる。頭の中にはセレナがもう帰ってきているかどうかという思いが渦巻いていた。
静かに階段を上がる足取りには、どこか焦りが混じっている。
「セレナ、もう帰ってきてるよね? 今日、またどこに行ってたんだろう……」
アリアンは心の中でそう呟き、廊下の奥、セレナの部屋に目を向けた。
だが、父の部屋の前を通り過ぎようとしたそのとき、微かに声が聞こえた。アリアンは立ち止まり、鼓動が一気に高鳴った。
――お父さんが家にいる? そんなはず……
この家において、父の存在はまるで伝説のように希薄だった。最後にまともに言葉を交わしたのがいつだったかすら思い出せない。
伸ばしかけた手を空中で止めたまま、アリアンは扉に耳を当てた。
中から聞こえる声は途切れ途切れだったが、父の低く威厳のある声であることはすぐにわかった。
その声には一切の情がなく、命令のような冷たさがあった。
「明日の夜、回収に行け。わかったな?」
アリアンは息を呑み、さらに耳を押しつけた。
続いて聞こえたのはセレナの声。抑えた口調で小さく、何を言っているのかまでは聞き取れなかったが、その緊張感だけははっきりと伝わってきた。
再び父の声が響く。
「お前は優秀だ。あの使えない奴とは違う。私を失望させるな。失敗も許さない。」
その言葉は、アリアンの心を鋭く突き刺した。
息を止め、指先で扉の枠を掴む彼女の瞳には、衝撃と悔しさが浮かぶ。
(使えない奴って……私のこと?)
唇を噛みしめ、心の中を無数の思いが駆け巡る――その瞬間、突然扉が開いた。
反応が遅れたアリアンは、体がぐらりと揺れ、倒れそうになる。
顔を上げると、そこには父の大きな影が立ちはだかっていた。
黒のスーツに身を包み、髪は短く整えられている。
眉間には険しい威厳が宿り、その黒い瞳は深い淵のように冷たく、アリアンを見下ろしていた。
「ここで何をしている?」
その口調には一片の温もりもなかった。まるで彼女の存在が余計な付属物にすぎないと言わんばかりだった。
アリアンは慌てて笑顔を作り、声を震わせながら答えた。
「え、えっと……部屋の中から声が聞こえたから、パパが帰ってきたのかと思って……それで挨拶を……」
「邪魔だ。」
父は顔をしかめ、冷たく一瞥をくれるだけで、返事もせずに彼女の横を通り過ぎた。
続いて部屋から出てきたのはセレナだった。
彼女は濃い色の私服を着て、長い黒髪をなびかせながら、冷たい瞳で前を見据えている。アリアンにはまるで気づいていないかのようだった。
「セレナ……」
思わずアリアンは呼びかける。
セレナは立ち止まり、振り返ってアリアンを一瞥する。
だが、何も言わずにそのまま歩き去り、冷たい背中だけを残した。
廊下は再び静寂に包まれた。そこに立ち尽くすアリアンの心は、空っぽだった。
彼女は視線を落とし、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。頭の中には、父の冷たい言葉が何度も響いていた。
「優秀な子供……使えない奴とは大違い……」
喉が詰まりそうになる。目頭が熱くなったが、アリアンは涙をこぼさなかった。
窓から差し込む月光が、廊下を静かに照らす。
その中に佇む彼女の姿は、ひどく孤独で小さく見えた。
しばらくして、アリアンは深く息を吸い込み、顔を上げた。
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
「何があっても、絶対に突き止めてやる……あの二人が何を企んでいるのか。」
心の中で、彼女はそう誓った。
夜の家は静まり返り、廊下の壁灯だけが淡い橙色の光を灯していた。
アリアンはセレナの部屋の前に立ち、胸の内には抑えきれない葛藤と悔しさが渦巻いていた。
少しだけ躊躇った末、彼女はそっとドアをノックした。
「入って。」
中から聞こえたセレナの声は、いつものように冷たい。
アリアンは扉を開け、中に入る。
窓際の椅子に座るセレナの姿が見えた。彼女は背を向けており、黒髪がライトの光を受けて柔らかく光っていた。
スラリとしたその背中は、月光と室内の灯りの交差する影の中に佇み、凛とした冷たさを放っていた。
「何の用?」
セレナは相変わらず背中を向けたまま、感情のこもらない声で言った。
アリアンは指先をぎゅっと握りしめ、平静を装おうとするが、声の端々には焦りが滲んでいた。
「さっき、パパと何を話してたの?“回収”って……一体何のこと?」
セレナはようやく振り向いた。
その赤い瞳は薄暗い光の中で鋭く輝いており、アリアンを静かに見つめた。
「盗み聞きしたの?」
眉をわずかにひそめながら、冷ややかにそう尋ねた。
アリアンは慌てて首を振る。
「違う! ただ……たまたま通りかかっただけ。セレナ、パパと何か企んでるの? どうして私には何も言ってくれないの?」
セレナはゆっくりと立ち上がった。
その黒髪が静かに揺れ、彼女の全体の雰囲気にさらに威圧感を与えていた。
「関係ないでしょ、あなたには。」
その言葉は、まるで冷水を浴びせかけるような鋭さだった。
アリアンは眉をひそめ、悔しそうに唇を噛む。
「どうして関係ないなんて言えるの?
私は……あなたの姉なのに!
パパとも、あなたとも、何も共有されなくて……私のこと、なんだと思ってるの?」
セレナは一瞥をくれただけで、無言で机へと歩き出した。
手元の書類や小物を整理しながら、静かに、しかし冷たく言い放つ。
「あなたはただの邪魔。」
その一言は、鋭い棘となってアリアンの胸に突き刺さった。
瞳には悔しさと哀しみが浮かんだが、アリアンは歯を食いしばり、踏みとどまる。
「私は……そんなに役立たずなんかじゃない。私だって、何かできるはず……!」
セレナは動きを止め、アリアンに再び視線を向けた。
その目は変わらず冷たく、口調も変わらなかった。
「時間の無駄よ。」
そう言うと、彼女はアリアンの横をすり抜けて、無言で部屋を出て行った。
アリアンに視線を向けることすらなく。
静かな廊下に取り残されたアリアンは、その場で立ち尽くしていた。
握りしめた拳は小刻みに震え、胸の奥が締め付けられるように痛かった。
だが、セレナの冷酷な態度は、アリアンの中にさらに強い反発心を芽生えさせていた。
夜の冷たい風が庭をそっと吹き抜け、わずかな月明かりの下で木々の影が揺れていた。
アリアンは家を飛び出し、足元はおぼつかず、顔には隠しきれない悔しさと寂しさが浮かんでいた。
彼女は庭の中央に立ち、震える手でスマートフォンを取り出し、画面をスライドして一つの名前を探す──ノックス。
「出てくれるよね……」
そう願いながら、彼の番号に素早く発信した。
耳に当てたスマホから、「プルル、プルル……」という呼び出し音が響き、その一音一音が彼女の心を鋭く打ちつける。
まるで、彼女の孤独をあざ笑うかのように。
「お願い……出てよ……」
喉が締め付けられるように苦しく、胸が押し潰されそうだった。鼻の奥もツンと痛み、涙が込み上げそうになる。
一秒ごとに心が削られていくような時間。
だが、電話は自動的に切断され、冷たい音声が流れる──「通話できません」。
アリアンはその場に立ち尽くし、しばし茫然とした。
だがすぐに唇を噛みしめ、目にはじわりと涙の膜が広がる。
彼女は顔を伏せ、手元の画面に強く指を当て、ノックスにメッセージを送った。
「ノックス、どこにいるの?」
メッセージが送信された後も、画面には何の反応もないまま。
アリアンはその場で深く息を吸い込み、なんとか涙をこらえようとした。
だが胸の奥に広がる重く、冷たい痛みは増すばかりで、まるで見えない鎖に縛られているようだった。
スマートフォンをぎゅっと握りしめ、アリアンは心の中で静かに決意する。
そして、ノックスの家の方向へと歩き出した。




