絆 (6)
数日後。
炎の家の中は、妙に静まり返っていた。
窓から差し込む柔らかな陽射しが、半開きのカーテンを抜けて木の床を照らす。宙を舞う埃が光の帯の中でかすかにきらめいていた。
ノックスはリビングの一人用ソファに腰かけ、膝の上には小さな魔獣アルがうずくまっていた。
アルの尻尾はそっと彼の腕に巻きつき、耳元では微かなゴロゴロ音が鳴っている。その穏やかな寝息が、妙に静かな空間を満たしていた。
ノックスはその柔らかな毛並みを指でなぞりつつも、視線はどこか遠くを彷徨い、考え込むように沈んでいた。
数日前の光景が、まだ脳裏にこびりついていた。
炎がソファに座り、本を膝に置いてページを指先でなぞりながら静かに読んでいた。
その隣にはカルマが寄り添い、両手で湯気の立つカップを包み込むように持っていた。
時折、カルマはそっと炎の顔を覗き込み、紅い髪が肩を滑り落ち、その瞳には柔らかい安堵と親しみが宿っていた。
ノックスはそんな両親の姿を、黙って見つめていた。
本来なら、こうした穏やかで親密な場面は心を落ち着けるはずだった。
だが実際は、胸の奥に言葉にできない妙な感情が渦巻いていた。
見慣れない温かさ。それは心地良いのに、同時に直視するのが怖くなるような感覚だった。
――だが今、その家には彼しかいなかった。
炎もカルマも、もうどこにもいなかった。
ノックスは小さく溜息をつき、視線を窓の外にやった。
陽射しはすでに角度を変え、部屋の別の場所を照らしていた。
彼は細めた目でそれを見やり、アルの頭に置いた指先を止めた。
アルも彼の気配を感じたのか、ピクリと耳を動かしたが、それでも膝の上からは動かずにいた。
その時、不意に玄関のチャイムが鳴った。
ノックスはわずかに目を見開き、顔を扉の方へ向けた。
アルの耳がピンと立ち、すぐに彼の肩の上へと跳び移った。
「……こんな時間に、誰だよ。」
小さくぼやきながら、立ち上がって玄関へと向かった。
扉の隙間から差し込む光が、床に長く伸びていた。
彼はドアノブを掴み、ゆっくりと回して引き開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、アイデンの姿だった。
相変わらず落ち着き払った表情で、抑揚のない声が逆に苛立たしさを誘う。
メガネの奥の視線がノックスを捉え、わずかに目を細めて言った。
「ノックス、調子はどうだ。」
ノックスは眉をぴくりと動かし、吐き捨てるように答えた。
「どうだも何も……両親が行方不明だぞ。」
アイデンはその言葉に僅かに眉を動かしたが、それ以上は何も言わず、無言で家の中へと入っていった。
そして、玄関の外にはもう二つの見慣れた影が立っていた。
アリアンとセレナだった。
アリアンは玄関先に立ったまま、少し戸惑ったようにノックスに小さく会釈をしてから、控えめに声をかけた。
「……あの、来たよ。」
セレナはコートのポケットに両手を突っ込んだまま、無表情にノックスを見やり、少しぶっきらぼうに言った。
「……お邪魔する。」
ノックスは眉を上げて小さくため息をつき、身体を横にずらして中へ招き入れた。
扉を閉めると、肩に乗せたアルの頭を軽くぽんと叩いた。
アルは素直に肩の上に伏せたものの、来訪者たちをじっと鋭い目で警戒していた。
その様子を見たアリアンは、すぐに目を輝かせて近づいた。
「え、これ……子猫?めっちゃかわいい!」
そう言って手を伸ばそうとした瞬間、アルはピクリと耳を動かし、目を細めて喉奥で低く唸った。尾がぼわっと膨らみ、明らかに触られたくないという態度を見せる。
アリアンは手を止めて固まり、がっくり肩を落とした。
「……なんでよ、そっけなさすぎない?」
ぶつぶつ文句を言うアリアンをよそに、アルの目がふっとセレナに向いた。
次の瞬間、耳がぴんと立ち、尻尾が一気にしゅんと下がると、ノックスの肩から軽やかに飛び降り、真っ直ぐセレナの胸元に飛び込んだ。
「……は?」
セレナは面食らったように目を瞬かせ、抱き留めたアルを見下ろす。
アルはまるで長年会えなかった家族に甘えるように、腕に顔を擦りつけ、満足そうに喉を鳴らし始めた。
そのしっぽはゆったりと左右に揺れ、完全に気を許しているのがわかる。
「これ……魔獣か?」
セレナは眉をひそめながらも、好奇心に抗えず小さく撫でた。アルの背中からは小さな悪魔の羽根がのぞいていた。
「なにそれ、ずるくない?」
アリアンは明らかに不満そうに頬をふくらませた。
「私が触ろうとしたら威嚇してたのに、なんでセレナにはこんな懐くのよ!」
ノックスは思わず肩をすくめて小さく笑い、アルに目をやった。
「……こいつ、見る目はあるんだ。」
その様子を見ていたアイデンが、メガネを押し上げながらぽつりと口を開いた。
「アルは気づいたんだろう。……お前を。」
一瞬、部屋の空気が静まり返った。
視線が一斉にセレナに向けられる。
セレナは小さく目を伏せ、黙ってアルを抱いたまま撫で続けた。
やがてアイデンはさっと空気を切り替えるように、鞄からタブレットを取り出した。
軽くスワイプして電源を入れると、画面をノックスたちの前のテーブルに置いた。
「座れ。これを見ろ。」
ノックスは小さく眉を寄せてソファに腰を下ろし、画面をのぞき込んだ。
そこに映ったのは、見慣れた二人の姿だった。
カルマが通信機を手に持ち、隣の運転席では炎がハンドルを握り、前方を真っ直ぐ見つめている。
「……父さん?」
ノックスの目が大きく開き、声に苛立ち混じりの戸惑いが滲む。
「なんだよ、どこ行ってたんだよ。いきなり失踪して。」
カルマはカメラ越しにニヤッと笑って、悪戯っぽくウィンクした。
「ごめんごめん、ヨルちゃん。ちょっと旅行にね――三界を一周するつもりで!」
「三界?」
「人界、魔界、神界。色々面白そうなとこ探しにさ。」
ノックスは深く眉をひそめ、諦め半分に吐き捨てた。
「……はあ。相変わらず意味わかんねえよ。」
アイデンは肩をすくめ、レンズの奥で視線を細める。
「今さら驚くな。あの二人はそういう連中だ。」
「じゃあね!」
カルマは画面の中で軽やかに手を振る。
「ちゃんと葉書送るから。じゃあ、またね!」
最後に炎が一瞬こちらをちらりと見た気がしたが、そのまま映像はぷつりと途切れ、通信は終了した。