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或る樹海にて

ただ、暖かなスープを。

 荷台に横たわる亜人の奴隷少女は朦朧とした意識の中、心の中でそう願った。空腹も口渇も潤したいが、何よりも暖を欲した。凍えた空気を肺に満たし、芯まで冷えきったその痩せた身体を折り畳み、寒さにガタガタ震えている。その身体に、芯から暖まるスープを渇望した。

 少女にはまだ希望がある。少女と共にいる者達は一部を除いて既に凍えた肉塊に成り下がった。先程まで熱を放っていたそれらは、元を正せば少女と同じく亜人である。少女と同じく奴隷である。しかしそれらとは異なり、少女はまだ生きている。今措かれているこの状況から逃れることが叶うならば少女も助かる。しかしそれは結局、『少女が自力で動くことが出来て、近くに助けてくれる人が存在する』と言う前提があるだろう。そして少女が自力でそれを叶えることはどう見ても難しい。少女の双眸は、永遠に続くと思える程に深い樹海の闇をぼんやりと見ていた。


日は既に大方沈んでおり、まもなく夜が来る。

樹海に迷い込んだ旅商人の髭面男は苦悩していた。齢四十といったところか。筋骨隆々の逞しい体つきで、傷だらけの顔が痛々しく見える。

荷台に積まれている奴隷だったそれから目を背け、どう処理するかの答えを出せずにいた。生きている内に闇市に流すことが出来ていれば相当な価値になったろうが、今では狭い空間を圧迫するだけの価値のない肉塊に過ぎない。そもそも髭面男は奴隷に興味が毛頭もない。先程から捨てれば良いと言う考えが脳を支配するが、すぐに考えを改めた。幸い、冬であるために腐敗が遅く、死臭の類いは感じ取れないが、それも人間の身である己の主観にすぎない。獣や魔物の類いには鼻の利く者が多い。既に存在に気付かれているかもしれない。樹海は木が生い茂り見通しが悪い。いつ何が襲い来るかわからない。そこの樹木の陰に何かが潜んでいるやも知れない。彼方の草陰に何かが待ち構えているかも知れない。そう言えばこの樹海で人が消失する噂があったことを思い出した。気付けば辺りは大分暗くなっている。それが夜になったからなのか、それとも樹木の生い茂るが要因なのか判断がつかない程に、髭面男の恐怖心が冷静さを欠いている。髭面男は前しか見えていない。現実から目を背け、この悪夢が醒めるのを待っていた。

 

 深淵と見紛う程に闇に飲まれた樹海の悪路を馬車が往く。

荷台に寝ていた細身の男がのろのろと起き上がった。大きく伸びをして間抜けな声を上げながら欠伸を一つした。髭面男とは対称的な、小綺麗で端麗な顔立ちをしている。見た目齢から少年と青年の中間といった若さに見える。

 さっさと仕事を終えて家に帰りたい、と言う気持ちが青年を支配している。ただ荷台の死体の横で再び寝転ぶと、すぐに微睡んだ。昨日の干し肉は塩辛かったけど美味しかった、また塩気の強い食べ物が食べたい。酒は好かないけど、酒宴の喧騒は好きだ。また金を稼いだらいつもの酒場で飲み明かしたい。と、大体このようなことを考えながら荷馬車の揺れに身を任せそのまま目を閉じて夢の続きを見ることに努めた。

 

 遠くの方から何かが軋むような音が聞こえたのを、青年は聞き逃さなかった。

 

 青年は音を立てず瞬きの間に身を起こし、しかし出来る限り身を低くして辺りを警戒した。そしてそれを帳消しにするように小さくくしゃみをした。そのくしゃみに気付いた髭面男の呼び掛けに一切の返事をせず、ただ口元に人差し指を置いている。喋るな、と言うより、静かに、と言う意味合いが強い。

 「何かいる。影のように薄暗い何かが。」

 青年がその身を体現したような細い声で呟く。それを聞いて髭面男が小さく情けなく悲鳴をあげた。

 「それって、幽霊か?冗談じゃねぇ、俺は信じねぇぞ。」

 「僕は冗談なんて言わないし、何がいるか全く見当も付かないけど、多分幽霊の方がマシな部類だと思うよ。」

 ここまで話を聞いて、髭面男は先程脳裏に過った『人が消失する噂』を再び思い出した。

 「そもそもさ、ここ通るって話なかったよね。道に迷ったなら僕を起こしなよ。だからこうなるんだよ。」

 「う、うるせぇなぁ。元はと言や、お前が近道するとか抜かすから」

 言い切る前に、遠くの方から闇の向こうから金属と金属が擦れ合うような音が聞こえたので髭面男は口を噤んだ。一つや二つでなく、複数。少なくとも十以上。奴隷商達が来た方角から少しずつ迫ってくる。彼らにはこの音に聞き覚えがあった。街で滞在していれば必ずと言って良い程見る騎士達の歩く音。それに似ていた。

 「鎧が擦れる音だね、これ。」

 「人、か?よかった…」

 髭面男が安堵してほっと胸を撫で下ろす。少なくとも死ぬことはない、そう浅慮したのだろう。

 「人なら間違いなくどっかの騎士団とかでしょ。そうだとしたら僕達は捕まるよ。」

 なんなら殺されるかも、と髭面男を嘲笑しながら首を手で切るような動作を見せた後、青年は荷台の荷物を物色し始めた。

 「あと、この臭い。気付いてる?人のそれじゃないよ。残念だったね。」

 髭面男はハッとした。蛆が沸く程に放置された死体から発せられるような、おぞましい臭いが辺りに漂っていることに、青年に言われてからやっと気がついた。死臭と呼ぶには足りぬ、吐き気を催す最低な臭い。少なくとも荷台の死体はまだ腐っていない。

 「何だよこの臭い…」

 「さぁね。この時季に活動してる生き物なんていたかな。」

 まぁどうせ魔物だと思うけどね、と青年がケタケタ笑いながら言った。髭面男はそれを聞いてから急いで背中の戦斧を手に取った。それを見て青年は更にケラケラと笑いながら今度は荷台の死体を捨て始めた。青年よりも大きな死体を何の躊躇いもなく軽々と捨てていく。髭面男は眉を顰めて質問を投げ掛けた。

 「さっきから何してんだ。」

 馬車は止まっていない。死体はドチャッと音を立てながら来た道へ転がっていく。数秒の後に、闇の向こうから肉が潰れるような音が聞こえた。

 「戦おうと考えてるなら改めた方が良いよ。と言うか、僕が剣を抜いてない時点で気付きなよ。」

 髭面男の質問から間を置いて言いながら次々と死体を捨てていく。やがて件の少女だけになった時、髭面男が強い語気で制止した。

 「おい!その子は生きている!本当に何やってんださっきから!」

 しかし青年は笑いながらその行動をやめようとしない。邪悪を含んだその笑みであったが、目は笑っていなかった。

 「生きてるなら尚更囮に使えるよ。」

 溜め息混じりに言って、更に続けた。

 「いいかい?僕達は生きて帰らなきゃいけないんだよ。少しでも荷物を減らして速度を上げないとヤツに追い付かれるかもしれない。それに」

 髭面男の耳元で、青年の姿をした悪魔は囁いた。

 「僕達はこの子の命を掌握している。それを今、僕達の足で踏みにじるんだ。ゾクゾクするだろう?」

 遂に頼みは聞かれず、少女は投げ捨てられた。しかし他の死体と違いかなり軽かったようで、力加減を誤ってしまった結果、それらとは全く異なる方角へ転がって行った。

 「君、奴隷商向いてないよ。この商売に優しさは要らないんだからね?」

 青年は腐った食べ物を見るような表情をしながら髭面男を窘める。髭面男は少女が捨てられた方角を無言で見ていた。そして

 (俺が祈るのは幾ばくか違和があるが、祈らずにはいられない。どうか、生きていてくれ。身勝手な祈りだが、生きて俺達に復讐してはくれまいか。)

 心中で大体このようなことを祈った。気付けば腐臭も薄れ、静寂が戻り、気配すら途絶えた。彼らは何者かの追跡を切り抜け、間も無く樹海を抜ける。

 彼らの去った後、闇の中で何かが儚く光を放ち、やがてすぐに消えた。

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