16:長い時を経て
あれから15年経った。今の私は26歳。クレヴェンティエ領で夫が営む診療所を手伝っている。
私たちの間には息子が1人と娘が1人、子宝にも恵まれた。まだ幼くて手がかかるやんちゃな愛する子供たち。
残念ながら私は背が低くて夫の言葉で言うならやせっぽちだ。これは幼い頃に摂取した薬が原因らしいけれど、小さくても健康ならば何の問題もないわ。だって2人も子供を産めたのですもの。
それにね、私の夫はとても背が高いの。だから私が背伸びをして手を伸ばしていると、どこからともなく走り寄ってきて取ってくれるから。ほら、何の問題もないでしょう?
私の1人きりの姉ミシェルは、女学校を卒業すると同時に結婚した。ちょっとした事情があって、ミシェル達が結婚すると時を同じくしてアレン義兄様がオベール家を継いだの。2人の結婚と爵位の継承については口さがない噂も立ったけれど、それでもミシェルと義兄様はオベールを守ると決めたのよ。ミシェルの花嫁衣装を見れなかったことはとても残念だったわ。間違いなく美しかったでしょうに。2人は式を挙げなかったの。諸々の事情があってね。
私の父、前オベール子爵も健在よ。健在、とは言えないかしら。とある地方の病院で静かに余生を送っているの。自分の名前も忘れてしまって、私たち娘のことも何もかも忘れてしまってね。
私の母、ノーラ・ジェスの話もしなくてはならないわね。
ノーラという女性は、人々の関心、注目を集めることだけが生きがいだったそうなの。ベロム伯爵令嬢と呼ばれていた時代は、それこそ社交の中心に君臨していたと聞いたわ。
当時令嬢たちの羨望の的だった第2王子殿下とのロマンスもどうやら本当だったみたい。
それならばなぜ?
不思議に思うわよね。いずれは大公妃になれたでしょうに、どうしてしがない子爵家の跡取りだった父に嫁ごうと思ったのかしらと。
「だって2番目なんて嫌だもの。」
それを口伝に聞いた時は心底驚いたわ。自分の母がそんな人間だとは夢にも思わず生きてきたから。
父を選んだ理由はさらに残酷だった。2人は愛し合ってなんかいなかったの。
「私が中心になれない社交なんて興味がないもの。それならば聖母とでも呼ばれてやろうかと思ったのよ。」
2人の娘、ミシェルとモニクのことも全て聞いたわ。
ミシェルのことはとても愛していたのですって。自分によく似ているから。
モニク、私のことは。
男の子じゃなかったことで私への興味は一度なくなったのですって。そんな母でも跡取り息子はほしかったのね。ただのプライド、だったのかもしれないし。大丈夫、悲しくはないわ。もう私の中で充分に消化したことですもの。それに私のことも一度は愛してくれたのよ、ミシェルとしてね。
ベロム領で毒草を見つけたのは偶然だったそうよ。風に乗って飛んできてしまったのかもしれないし、鳥が運んできたのかもしれない。厳重に管理していたって相手は植物なのですもの。ふらっと飛んでしまうことは防げなかったのだわ。
ノーラはベロムを去る時、それを全て処分したと言っていたの。乾かして荷物に忍ばせたものを除いてね。けれどやっぱり植物は強いから。またどこかで芽吹くことがあったのでしょう。そう、あの日私たちが見つけてしまったように。
どういう目的で嫁入り道具にそれを選んだのかは知らないわ。若くして夫を失った美しき未亡人、なんてことを計画していたのかもしれないと思うと、ゾッとしたし、それが現実に起こらなくて心底よかったと思うわ。だって結婚して10年は使われなかったのですもの。もしかすると本人もすっかり忘れていたのかもしれないわね。自分にそっくりな美しい娘が生まれたことで。
初めてモニクに飲ませたのは3歳を過ぎた頃だったと言っていたわ。ミシェルだった頃の記憶ともだいたい一致している。尤もこの場合記憶があいまいなのは私の方なのだけれど。
最初はほんの僅か、簪の先にちょんとつく程度の量だったのですって。それでも小さな身体にはとても強い衝撃だったのは想像に難くないわ。
私のベロム行きを強く反対した理由も今なら手に取るようにわかるわね。自分を美しく彩るおもちゃがなくなってしまうのだもの。悔しかったのね。ちっとも知らなかったわ。別れが辛いと言う言葉を素直に受け取ってバカみたいね。
その後数年は美しい大事な娘ミシェルと社交の場に出ることに喜びを見出していたそうよ。「姉妹のよう。」と言われるのが気分よかったのですって。それに関しては感謝したいわ。おかげでミシェルも綺麗なドレスを着て社交の場に出ることができたのですもの。
なのにどうしてミシェルに。一歩間違えば死んでしまうほどの量の薬を使ったのよ。流石にあの時はしまったと慌てたと言っていたらしいけれど。ミシェルが飲まされたのはその1度きりだったのがせめてもの救いだった。ミシェルにはなんの後遺症も残らなかったから。
あの時おじい様とフィンは、王都に着くと真っ先に登城して諸々の釈明を行ったの。そうして多くの捜査官と共にオベールの邸へ向かった。ノーラには隠す暇も、いいえ捜査されることすら予測できなかったでしょう。毒草は簡単に見つかり、ノーラは捕らえられた。その日のうちに離縁が決まったわ。強制的にね。これはきっとおじい様が尽力なさったのだと思うの。私たち姉妹を守るためにね。
その一部始終を目撃したお父様は逃げてしまったの。ああ、実際に逃亡したと言う意味ではないわ。現実の世界から逃げてしまって。今はまるで小さな子供みたいよ。「ノーラ」今の父が話せる唯一の言葉。私の顔を見ても誰なのかわからない。いいの、私には今大切な家族がいるのですもの。悲しくなんてない。
父にとっては永遠に美しい自慢の妻ノーラ。届くはずのなかった、届いてはいけなかった大輪の薔薇。その薔薇にはあまりにもトゲが多すぎて、お父様は傷だらけになってしまったのね。
「どうしたんだい、ぼんやりとして。」
隣に腰かけ、そっとカップを差し出してくれる最愛の夫。その瞳はどこまでも温かく慈しみに満ちていて。
「ううん、ただ幸せだなと思って。」
フィンの淹れた温かい紅茶に口をつける。あなたが淹れると紅茶ですら優しい味がするのね。
「なんだよ、僕の口癖を真似てるのかい?その程度じゃまだまだ僕には追い付けそうもないね。」
意味の分からないことで張り合って勝ち誇る可愛い人。
「はい、これも。王都から届いたよ。」
フィンから手渡されたのは王都で暮らすミシェルからの手紙だった。
「ありがとう、今読んでも?」
フィンはもちろん頷いてくれる。私は封を切り中の手紙を読み始めた。フィンと一緒に。
今は遠く離れ、今後顔を合わすことも恐らくないだろう私の大切なミシェル。
手紙にはミシェルとアレン様の1人目の息子、ルーク君の3歳のお祝いの日の話が綴られていた。
ミシェルたち現オベール子爵夫妻は、長いこと子供を儲けなかった。生まれてくる子供が辛い目に遭わないよう、時の流れを静かに待ち続けた、とミシェルは言う。辛かったでしょうに。いつか生まれてくる子供の代わりにミシェルとアレン様がその全てを被り続けたのですもの。
そしてようやく産むことを決心したミシェル達の大切な光、ルーク君。彼には幸せを掴んでほしいわね。ミシェルたちが両親ならばきっと幸せになれるわ。
手紙を一度抱きしめてから封筒に戻す。それを見届けたフィンがカップを2つ持って立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ迎えに行こうか。」
私たちが診療所で働いている時間、子供たちはクレヴェンティエのお邸で預かって下さっている。
フィンは診療所の扉に鍵をかけると、クレヴェンティエ邸とは反対の方角へ歩き出した。
夕方に患者さんが立て込んだり、急患が運ばれてきたりした日以外は、決まってこちらへ向かうの。ううん、少し遅くなった日でも私が断らない限り彼は必ずこちらに足を向ける。
そこは美しく整えられた広い庭のあるこの街に古くからある病院。私たちはすっかり慣れた階段を上り、ベッドが片側に4台ずつ並ぶ大部屋のひとつを訪ねた。
「お義父さん、今日もいい天気でしたよ。お義父さんはどうお過ごしでしたか?」
ベッドの上には真っ白な髪をした痩せた老人が、古びた人形を抱いて座っている。その瞳には光がなく、けれどいつも微笑んでいるようにも見えた。返事はない。いつものことだ。だって言葉も忘れてしまったのですもの。
私たちにはまるで気がついていないようで、人形の頭を撫でながら「ノーラ」と呟いている。
返事の返ってこない相手に対しても夫は変わりなく温かく話しかける。私は何ひとつ声を掛けられないと言うのに。
「明日もきっといい天気ですよ。今とても夕焼けが綺麗でしたから。明日気分がよければ庭を散歩しましょう。風が心地よい季節ですから。」
フィンの上着の裾を小さく引く。もう帰りましょう、子供たちが待っているもの。
「ではお義父さん、そろそろ失礼しますね。夕食もしっかり召し上がって下さいね。」
最後までフィンは穏やかに接する。私は居心地が悪くて早く病室を出たくて、ペコリと頭を下げるだけでくるりと後ろを向いた。
病院を出て門へと向かう2人を窓から見下ろす男が1人。その男の年齢を知ったら驚くに違いない。歳の倍ほども老けて見えるのだから。
男が見つめる先にいるのは、つい先ほどこの病室に立ち寄った若い夫婦。2人は子供が2人もいるとは思えぬほど初々しく、仲良く手を繋いで歩いている。
「モニク・・・どうか幸せに。」
先程まで愛おしげに抱いていた人形が床に転がったままなことに老人は気がついているのだろうか。老人は悔恨の涙を落としながら見舞客の後ろ姿をいつまでも見送っていた。




