絶対的安心領域
背を壁につけたまま、ずるずるとしゃがみ込む。熱い身体と呼吸を整えようと肩を上下させるが、指先だけが妙に冷たいままで全く改善しそうになかった。喉を引き攣らせながらなんとか酸素を取り込もうとするが、胸が痛いだけ。
すぐ目の前に誰かが立った気配がした。布擦れの音の後、頭にほんの僅かな重みが加わった。耳と頬に柔らかな生地が触れ、視界が急に狭く、暗くなる。
唐突に、僕だけの部屋ができた。
「……ありがと」
いつの間にか失っていた冷静さで目の前の靴を見れば、当然それは見知ったあいつの物で、少しだけ内側が多めにすり減ったそれが踵を返して僕から遠ざかろうとしていた。
待って、と引き留めてしまったような気がした。実際には声になっていなかったかもしれない。それでも、靴はこちらに戻って来た。頭に被せられていたタオル越しに、ずしりと重みが加わった。
「早く立て」
「あと三十秒待って」
「二十秒」
「……二十五秒」
「二十」
「…………二十秒」
「よし」
靴が消える。今度は、タオルの右端から爪先だけが見える。
タオルの両端を握りしめて口元を覆った。慣れた匂いだ。自分の家で使っている柔軟剤の香りは母の趣味なので、正直自分はこちらの香りの方が好きだ。肩にそっと触れる体温も相まって、すごく落ち着く。
動かすのも億劫だった手指を擦って温める。これから屋内に戻ってまた練習が始まるのだから、せめて指だけでも動いてくれないと困るのだ。
「走ってさ、本当に肺活量って増えるもんなのかな」
隣の彼女はもうとっくに呼吸が整っていて、けろりとした声色でそう言った。疑問、というよりは、『いや、増えるはずがない』と反語が続けられそうな口調だった。
「こんなことするよりも、ひたすら楽器吹き続けた方がいい気がするんだよね。今後一生楽器と付き合っていくならそりゃ効果はあるかもしれないけどさ、私らなんて学生の間しか、ほとんどが進学したら吹奏楽続けるかもわかんないのにさ、そんな身体づくりなんてする暇あんのかなって、思うわけよ」
彼女が立ち上がる。僕と周りの世界を簡易的に隔ててくれていたタオルが奪い取られる。それは彼女の首に回され、適当に結わえられていた焦げ茶の髪を弾いた。
「この話は顧問には内緒ね。外周増やされたら嫌だし」
「言わないよ。……機嫌を損ねたら、他の人まで巻き込まれる」
まだ重たい腰をなんとか持ち上げて彼女の後を追いかける。
弱い僕はずっと、彼女に守られている。外周中だって、彼女の方が足がうんと速くて、本来なら僕が二周目に差し掛かる頃にはとっくにゴールできていたであろうに、わざわざ僕に合わせてのろのろと走って、諦めそうになる僕の背を叩いてくれた。本人に気にしなくていいと言っても、どうせ『手を抜いたほうが疲れないから』なんて言うんだ。それに、走り終えると必ず顔を青くさせる僕に、いつもああしてタオルで個室を作ってくれる。それが必要だと僕から打ち明けたわけでも、どういう状態にあるかという説明をしたこともないのに、彼女は毎回それを作ってくれる。
「……ありがとね」
「なに、気持ち悪い。いつものことじゃん」
「いつもありがとうってこと」
「……気持ち悪い」
高望みをするのなら、当然彼女の背中を追い抜きたい。勿論、彼女を追い抜けるなんて思っちゃいない。でも、少なくとも優しい彼女がわざわざ弱い僕のこと振り向いて僕を睨みながら、丸めたタオルを僕の顔面に押し付けた。
彼女の優しさで安心しきってしまうような僕じゃ、きっとその望みにはまだ、ほど遠いのだろう。