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3)そして、その功徳

  

 爾時世尊復告曼殊師利童子言曼殊室利有諸衆生不識善惡唯懷貪悋……


 その時、世尊はふたたび曼殊室利童子に告げた。


「曼殊室利くん。もしいろんな衆生たちがいて……善悪を認識できずただ欲望を貪り、布施(与えること)や施しの果報(その結果のキックバック)を知らず、愚かで疑い、智慧がなく信じる心も無くて、ただ財宝をかき集めて守ることだけに必死で、乞い求める者を見ると不機嫌になり、何ももらえないのに何かをあげるなんて行為はその身の肉を引き裂かれるほど深く痛いと感じて、何もかもを惜しむほどの。

「また無限にケチで貪欲な衆生がいて、とにかく財物を集めるだけ集め、自分のためでさえなお使わず、いわんや父母、妻子、奴婢、小作人、また乞い求める者のためにも使わない……そんな有情の命が終わると、餓鬼がき界や、あるいはゲジゲジワームみたいなものに生まれ変わっちゃう……。」


 餓鬼とは、「ナマイキなお子様」のことではなく、その語源となった、常に飢餓状態にあって死ぬまで満足できない死霊、目に見えない鬼のことであります。外見的なイメージとしてはグールとかに近い。

 地獄界よりは少しマシだけど畜生界よりは酷い生まれ変わり先で、「三悪趣さんあくしゅ」のひとつとされてます。



「そんなところへ生まれ変わっちゃう状態の衆生でも、昔、人間だった時に少しでも薬師瑠璃光如来の名号を聞いたことあって、悪趣にいるときにかの如来の名前をしばらくの間でも思い出すことができたならば、その名を念じたとたんにその苦しい一生を終えて、人間界へと戻って来て生まれ変わり、以降は『悪趣で苦しみ、楽になりたくても楽になれない』ということを畏れ、その恐ろしさを(生まれ変わっても)忘れなくなる宿命を得るんだ。

「そして修行を好み、施し行為を讃え、施すときは所有するものすべてに惜しむことがなくなる。自分の頭、目、手、足、血肉とかを分けてほしいという人が来てもあげてしまうほどになり、いわんや財物なんか惜しむものか。


「それからね、曼殊室利くん。もし有情たちが、如来にいろいろ教えてもらっても尸羅しーらー(シーラ、戒律を保つこと)を破ったり、尸羅は破らなかったとしてもその他の法則・規則を破ったり、尸羅と法則・規則にしたがっていたとしてもあるべきものを壊し正見しょうけん(正しい見解)をこぼちたり、正見を毀さなくてもブッダが説明した深い意味のあるお経をたくさん聞けるのに無視してぜんぜん理解しようとしなかったり、たくさん聞いて耳を傾けたとしても増上慢を起こしたり、増上慢で心が覆われひっくり返され自分こそが正しく他人はみんな間違ってると正しい真理を嫌い貶し悪魔を伴侶としたり、そんな自分から邪見(間違った見解)に逝ってしまう愚かな人で、また無量倶胝(くてい)(10,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000)の有情を巨大な穴(悪い状態)に叩き落しちゃう。そんな、地獄で鬼に生まれて無窮むきゅう(永遠)にそんなところを流転するに価するような有情たちでも、もしこの薬師瑠璃光如来の名号を聞き、悪い行いを捨ていろいろな善い教えを学び行うならば、もう悪趣には堕ちないョ。


「いろいろ悪い行いを捨て善い教えを学び行うことができなくて悪趣に落ちちゃう者は、かの如来の本願の威力によって、ちょっとだけその名号を聞く体験が起きれば、彼の命が終わると人間界に生まれ変わり、正見を得て心楽しく善に生きようと精進し、家を捨て(出家して)家族とかの狭いレベルに囚われず如来の教えを受けることができて、学んだところを受持できて犯し毀つことなはく、正しい見解で多く聞いてとても深い意味を理解し、増上慢を離れ正しい教えを貶すことなく悪魔に近づかず、しだいに行を修めていろいろな菩薩行を速やかに成し遂げていくんだョ。


「それからね、曼殊室利くん。もし有情たちが、ケチで嫉妬深くて自分自慢して他人を貶してて。そのために三悪趣に落ちて無量千(1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000)年のあいだいろいろな激しい苦痛を受け、ついにその命が終わっても人間ではなくウシ・ウマ・ラクダ・ロバなどに生まれ変わり、ムチでビッシビシやられ続け、飢えや渇きに悩まされ続け、いつも重荷を負わされて道を歩かされ……あるいは人間に生まれることができても下賤の境遇で、誰かの奴隷としてその体を使われ続け自分の望むことなんか何もできない。そんな人でも、もし過去に普通の人間に生まれてたときに世尊・薬師瑠璃光如来の名号を聞いたという善因(善い原因)があって、今それを思い出して心から帰依したなら、ブッダの神力によってさまざまな苦しみから解き放たれ、体の器官は完全に働き頭も聡明で教養もあり、常に優れた教えを求め善き友と出会えて、永く悪魔の束縛を断ち迷いを打ち消し、煩悩の河を干上がらせて一切の生・老・病・死や心配や悲しみや苦悩から解き放たれるんだ。


「それからね、曼殊室利くん。もし有情たちが、好きな人や喜ばしい人から離れてしまい、さらに争ったり訴えたりで自他を悩み困らせ、身(行動)・語(発言)・意(思考)の三業さんごうで種々の悪い業をどんどん増していき、常に慈悲のかけらも無く、お互いにおとしいれあって害しあい続け、そして山・林・樹・塚などに宿る神霊を呼び出して人々を殺しその血や肉を薬叉やくしゃ(ヤクシャ、夜叉やしゃ、人とって食う性別不詳の鬼)や羅刹らせつ(ラーッシャサ、人とって食う女の鬼)に供え、憎む人の名前を書いてその人形を作ってブラックマジックでこれを呪い、またどくむしを使ったマジナイや屍鬼ゾンビーを眠りから起こす呪術で、相手の命と同じように自分の心身までぶっ壊していてたとしても。もしこの有情が薬師瑠璃光如来の名号を聞くことがでれば、すべての悪事も彼を害することはできず、みんな慈しみの心を起こして、その新しい状態が続くんだ。そうなると利益安楽で、損ね悩む気持ちも嫌い怨む心も無くなり、おのおのが自分の生まれた境遇に喜んで満足し楽しく生きることができて、他人の領域を侵すことなく、お互いに利益を与えあっていくようになるんだ。


「それからね、曼殊室利くん。もし、比芻びく(ビクシュ、男の出家修行者)/比芻尼びくに(ビクシュニ、女の出家修行者)/優波索迦うばさか(ウパサカ、男の在家信者)/優波斯迦うばしか(ウパーイ、女の在家信者)といった四衆ししゅうで、浄信のあまりある善男子・善女人たちがいて、八戒による斎戒をよく受持して、あるいは一年、もしくは三か月ほどもいいからよく学んで、この善根を以て西方・極楽世界の無量寿むりょうじゅ仏(アミターユス=ブッダ、阿弥陀仏の名前の別訳)の所に生まれたいと願ってて、正しい教えを学んではいるけどまだ行くかどうか決定してない人がいて。この人がもし、世尊・薬師瑠璃光如来の名号を聞いたら、命が終わるときに八人の菩薩が来て、行くべき道を神通力で示してくれて、その世界(極楽世界)で種々《しゅじゅ》の雑色ざっしきしゅうとして宝花ほうげの中に自然じねん化生けしょうするんだ。

「そうでなければ少なくとも天上界に生まれる。しかし、天界に転生したくらいではまだ報い尽くされてないほどの善根なんだから、その後はもうそこらの悪趣に生まれるなんてことはなくなる。天上界で寿命が尽きたら人間界に戻ってくる。そして、転輪王てんりんおう(チャクラ=ヴァルテ=ラージャ、武力でなく徳で大陸を治める理想的な王者)となって、四州(この世である「娑婆世界」には、須弥山を中心に東西南北の4つの大陸があると考えられていた…つまり四州=全世界)のすべてを統率し、その威徳は無量百千(1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000)の有情たちに、十善道というルールにもとづいた安心できる生活をさせるんだ。」



 十善道とは、大乗仏教で提唱された十善戒のことでしょう。


 01)不殺生(ふせっしょう):魂のあるものを殺さない

 02)不偸盗(ふちゅうとう):好意的なやりとりで得た物以外は所有しない

 03)不邪淫(ふじゃいん):道徳に反するようなHはしない

 04)不妄語(ふもうご):ウソつかない

 05)不綺語(ふきご):おだてない

 06)不悪口(ふあっく):悪口を言わない

 07)不両舌(ふりょうぜつ):二枚舌を使わない

 08)不慳貪(ふけんどん):欲望を貪ったり物惜しみしたりしない

 09)不慎意(ふしんに):不快や怒りを表に出さない

 10)不邪見(ふじゃけん):悪意のある解釈をしない


 というもので、仏教徒に推奨される日々の過ごし方の努力目標となっています。

 ただし上座部仏教のかたの話では、五戒/八戒は認めててても、十善戒はブッダの修行法とは認めていないようで、その主張にもある意味で納得できる部分はありました。が、今回の経典は上座部ではなく大乗仏教を前提にしてますので、これはこれとして認めていただきたく、そのへんの議論に深入りはしないことにします。


 また、TVのある教養番組で「仏教の十善戒は、キリスト教の十戒を真似して取り入れたもの」と断定して解説していました。

 が、その根拠は「どちらも十項目で、不殺生や不邪淫など同じものがいくつかある」というだけでした。

 双方の戒律には発想と言うか守る目的に「キ:神様に仕えるため / 仏:自分たちの平安のため」という根本的な違いがあるし、歴史的にも仏教の成立はキリスト教より500年くらい古いというのが定説であることから、TVの説には納得し難く感じました。「ユダヤ教の十戒」とか「モーセの十戒」とか言うならまだ時代差についての説明は可能ですが、「キリスト教の十戒」と言い切ってましたしね。

 結論を言えば筆者は、「似てる部分はどこの宗教にもありがちな要素だから単なる偶然で、どっちがどっちの真似ということはない」と考えておりますです。


 まあ真似であろうとなかろうと、全員がこんな感じの目標に向かって努力し続けてれば、たしかに世の中が平和で安心なものになりそうではありますね。

 さて、ブッダの解説の続きを。

 


「…あるいは、刹帝利せつていり(クシャトリア、武士階級)や婆羅門ばらもん(ブラフマナ、神官階級)、居士(民間の知識人)といった裕福な家に生まれ、あらゆる財宝が倉庫に満ち溢れ、姿はイケメンやビューティで眷属(親戚/友人/部下など)も充分にいて、智慧は聡明、勇・健・威・猛を兼ね備えること大力の士のごとくなる。

「もし女人が世尊・薬師瑠璃光如来の名号を聞いて心からこれを受持したら、以降はもう女に生まれなくなるんだ。」



 これについては、女性蔑視によるものではなく別の理由があったことは前述のとおり。女性だけの特別サービスもありましたね。



 さて、ここまで聞いて、曼殊室利童子はブッダに言った。


曼殊室利「世尊、僕は誓います。像法の時代に入ったら、種々の方便(目的を果たすための手段)を駆使して、浄信を持つさまざまな善男子善女人たちが、世尊・薬師瑠璃光仏の名号を聞くことができるようにします。たとえ睡眠中だろうと、彼らの唱える仏名が耳に届けばすぐに気づいて目覚めるようにします。」


 曼殊室利の誓いの詳しい内容は、持戒、もとい次回をお楽しみに!


 つづく!

 


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