疑い深い生き物
"もし、この予測が外れてしまっていたら?"
人間は考える生き物である。それゆえに優秀であり、それゆえに生態系の頂点に君臨できた。
が、それと同時に、人間はとても脆い生き物である。相手の見た目や運動神経、価値等を見て計算した時、それを信じて疑わない。なぜなら、それは自分の脳が考えに考え抜き、これだと導き出した結論だからだ。
そして人間は、この時代に到達するまでに何体もの生物に裏切られてきた。
あるものは見た目が貧弱そうな蛇に噛まれて死に、あるものは小さな蚊に刺されて死に、あるものは生物の隠された牙によって死んでいき……
またあるものは、同族によって死んでいった。
文明が発達していく中で、人間たちにはある1つの判別基準が生まれていた。
"この生物は信じても良い存在か?"
この思考が人間たちの共通意思になった瞬間、人間は考える生き物から"疑い深い生き物"へとランクアップしたのである。
さて、少し話が長くなってしまったが、ここからが本題だ。そんな疑い深い生き物えと進化した人間という存在が、予測や自分の頭の中での計算なんて、証明性の皆無な択にいけしゃあしゃあと飛びつくだろうか。
答えは否だ。絶対に否。そんな択は選べない。そんな判断できはしない。絶対に何か、どこかへ安パイを探そうとする。
しかし、1秒の無駄が負けにつながる戦闘において、ゼロから新しい、しかも安パイになるような択を用意するなんて不可能にもほどがある。
だから枝分かれさせるのだ。自分にある避けるという選択肢を枝分かれさせ、大事をとって何度も回避行動を繰り返そうとする。
これはスポーツにも言えることであり、現にボクシングでは、相手の攻撃を誘うために体を左右に振るテクニックが、バスケにはドリブルを防ごうとしてくるディフェンスを突破するため、体を左右に振ってフェイントをかけたり、至るところに使用されている。
しかし、これら1連の動作は突き詰めれば全て無駄。なぜなら、相手の攻撃を誘いたいのなら、何度も出したり引っ込めたりをする必要はない。一度頭をぐいっと前に出し、相手が攻撃をしてきて、頭に当たりそうになった瞬間に引っ込めればいいだけなのだから。
バスケだってそうだ。ディフェンスを突破したいのなら、一度体をくねってしまえばいい。
でも、そもそもそれをできるまでの技能がないから……何よりも不安だから、何度も同じ動作を繰り返して、その分を埋めようとする。
だからチェス隊である田中イズナも、もしこの予測が外れていたらと言う疑いが頭の中をよぎり、体を縦横無尽に動かして的を絞らせないようにする……そう思っていたのだが……結果、田中イズナは動かなかった。
(なんともまぁ予想外な……!)
しかし、避けないなら避けないで構わない。何のアクションも起こさないのなら、このまま右腕を伸ばしてオーラナックルをぶつけるだけだ。
「くらえ!!」
私は自分の意思に従い、オーラナックルを発射しようとした瞬間……
「……っ!?」
田中イズナから、感じたことのある威圧感をビリビリと感じた。