Y先生との書簡 ~創作について色々良いことを言ってもらったので、何かの足しになればと公開はするものの、特に結論はない内輪ネタ的な何か。ポイントgetには役立ちません悪しからず~
予めご注意。
解決はしません。結論もありません。
単に、それぞれのスタンスを表してるだけです。
どっちが正しいかとか、そういう話ではないので、「ふーん、まーこんなことがあったんだなー」 的な気楽さで読んでいただければ。
Y先生はなろうの中でも実力派で、その文章には定評があり、また、新参者にも丁寧にアドバイスを下さる優しい方でもあります。
砂礫のお知り合いの方は、これ書いただけでもY先生がどなたか気付かれることと思うので、ここでしっかり覚えていていただきたいことは……
『アドバイスいただくなら、Y先生にお願いすれば大丈夫!』
はい、これですね。
さて、こうして、しょっちゅうタメになるアドバイスをくださるにも関わらず、生意気にも砂礫はしょっちゅう 『ここはこう思ってるんでこうしたんです!』 的な反論をY先生にしており、そこからしばしば、やりとりが長引くことがあります。
今回も、拙作 『君にはもう、言えないけれど』 に貴重なアドバイスをいただいたことを切っ掛けにそうしたやりとりが行われました。
その内容が、皆さんにもちょっと興味深いものを含んでいるのではないかと思いましたので、Y先生の許可をいただいた上で、一部をここに公開しようというのが、当エッセイの主眼です。
(本来は感想欄、メッセージでされたやりとりですが、なぜ 『書簡』 というタイトルにしたかといえば、大正・昭和期の文士みたいでカッコいいから!)
このやりとりで話題となっているのは、『君には、もう言えないけれど』 ラストの部分。
この短編は、自らの死期を悟った母親の一人称で語られています。
母親は、不器用で向こう気が強く、口うるさいため息子にも嫌われている。
しかし、ラストでこの母親が、息子に対して 「ありがとう」 と心の中で話しかける。
(もうすぐ死ぬんで機能低下してて、口に出しては言えない。
――― 君には、もう言えないけれど。
で〆です)
こういうシーンです。
では、始めましょう。
=====2020年09月**日======
Y先生 ⇒ 砂礫
(前略)
また烏滸がましくも、怒られるのを承知で好みの問題を挙げてしまいますと……。
最後の「ありがとう」とつく言葉はすべて無くても良かったかな、と。
あれでちょっと、ここが感動するところ……みたいに感じてしまって、逆にちょっと冷めてしまったのかも知れません、天邪鬼なので。(汗)
エンタメならさておき、純文学って特に、行間に滲ませ、雰囲気として読ませてきたことをあえて言葉にしない方が、しっくりくる部分ってあると思うんです。
ここが(個人的には)まさにそれで、息子に対しての感情というか想いはもう充分に読者に伝わっているので、わざわざの「ありがとう」は要らないと感じてしまうのです。言い過ぎというか。
直接の「ありがとう」はないのに、その空白に、「キミにはもう言えないけれど」――の方が、この母らしくていいんじゃないかな……とか。
まあ、毎度ながらあくまでこちらの勝手で個人的な好みの問題でありますので、「よけーなお世話だ、この」と、悪態混じりにこんな感想はくしゃくしゃポイしていただければ、と思います。
いつも申し訳ありません……が、なんかちょっとでも役に立てばと。
=====2020年09月**日======
砂礫 ⇒ Y先生
そうなんですよー、おっしゃること、めっちゃ良くわかるのです!
この部分が、純文学チックではないんですよね。
まー言わば安っぽいというか(笑)
しかしですね。
こちらは、おバアちゃんの要望なので、仕方がないのですよ……!(爆)
私も、性格に難があるはずの彼女が、こんなベタなことを言い出すと思わなかったのですが、言い出されてしまったんですよ。
たぶん、死ぬ間際に始めて、彼女なりのプライドとか思い上がりとか、それが少し溶けて見えてきたものがあるんですよね。
それで、息子のために、死ぬ前にちゃんとこう言ってやりたいんだけど、もう言えないんです……。
なので圧がこっちにきたんですよ。
ええ。私は書くのめっちゃ嫌だったんですけどね!
んで、消せないんです。おバアちゃんに恨まれそうで。
思うに、Y先生は 『短編ならこう』 『純文学ならこう』 という確固たる美の枠があって、そこに納めるような書き方をなさるので、美しく玄人ウケする作品が仕上がるのだと思うのです。
で、私は良し悪しでいうと余り良くはないんでしょうが、そこから、はみ出る部分を無視できないんですよね。
割りきれない部分とか、はみ出る部分。
それって、そんなにダメなものなのか? というのはしばしば私のテーマでもありますので…… 言い訳ですが(笑)
そういったものも込みで、もう少し上手く書けるよう精進したいところです。
いつも、どうもありがとうございます。
=====2020年09月**日======
Y先生 ⇒ 砂礫
どうも、お疲れさまです。
砂礫さんの、そこから溢れた部分を無視できない――という言葉に、「なるほど、そういう感じ方・見方もあるんだなあ……」と考えさせられました。
こういう『寛容さ』も大事なんだろうなあ、と。
……で、実際おっしゃるように、私は私なりのこだわりってのを持ってるわけですが、もしかしたらそれが『頑迷』になっちゃったりしてないか……? とか思っちゃいまして。
一応、自分では『寛容』でもあろうと心がけてはいるけれど……さて、本当にそう出来ているのか? と。
こういうのって、自分じゃ気付かないうちに……だったりしますもんね。
……そんなわけで、砂礫さんみたいに、もっと『寛容』でもなけりゃならんよなあ……と、反省しきりなのでございます。
=====2020年09月11日======
砂礫 ⇒ Y先生
Y先生、丁寧なお手紙どうもありがとうございます!
実は私も先生からいただいた感想には、色々と考えさせられてまして。
私の作品が文学好きな人にあまりウケないのって、たぶん、こういう、感情的に流れていっちゃう作り方にあるんだろうなー、とか…… (笑)
好きな書き方で好きにものを書くというスタンスは、もともと、なろうに登録した時からそれが目的ではあったのですが、あまりそっちにこだわりすぎると、上達はしないのかなー……
などと、考えることしきりでしたのですよ……。
『君にはもう……』 でも、Y先生にああいう言い訳はしたものの、確かにあの 『ありがとう』 は鼻につくところではあると思うんです。
一方では、言い訳の通り、『脳ミソの活動停止しかけで生涯で一番素直になっちゃってる人間が、最後に息子のために言ってやりたかった言葉』 でもあるんですが……
その辺をですね、そのまま出さないで、上手いこと書けるように考えてみる、そういうことも必要なのかも、と思います。
(一人称的なモノローグにすると、もうどうしてもああなってしまうのですが、だからといって、三人称に変えるとあの話では引き込む力が出てこなさそうで…… なかなか難しいです。)
精進します、というのはそういう意味で、特に含みはないのですが…… なんか気を遣わせちゃって、こちらこそ申し訳ないです。
そして、いつもワケも分かっておらぬのに生意気申し上げてすみません!
m(_ _)mぺこぺこぺこぺこ……
=====2020年09月**日======
Y先生 ⇒ 砂礫
(前略)
こちらも、砂礫さんのおっしゃることにこっちで勝手に感銘を受けて、反省してただけなんで、あまりお気になさらず。(笑)
さておき、好きにものを書く……というやり方でも、改めて見返したとき、ここはこうした方が良かったとか、こうしてみようとか試行錯誤していけば、自然と上手くなる……んじゃないかなあ、と思ったりするんですが。
どうしたって、個々人のクセとか色ってもんはあるんですし。
私も、一応皆さまから多少は腕前を褒めていただいてますが、ただただ書いて書いて書いて……、小難しいこと考えずに書き続けた結果でしかないわけで。
ちなみにあの「ありがとう」についてですが、私は本当に、ただ「無くても大丈夫」と思っただけなのです。
ありがとうと書いてしまうと、読者にその言葉しか想像させることが出来ません。
少なくとも、そのイメージが一種の想像の縛りとなってしまうでしょう。
でも、「空白」なら、「君にはもう言えない」というその言葉が、感謝であるのはわかるとして、どういう感謝の言葉か、あるいは言葉以上のものなのか……それを読者に想像させる余地があり、そしてそれをさせるのに堪えうる作品だと、そう思ったがゆえのあの感想でした。
消えゆく意識に伴い、形を取れない言葉――でも、だからこそ、そこにはよりハッキリと見える「想い」がある……と、まあ、そんな風に思ったというわけでして。
……とか言ってるのがまた、反省した押し付け、こっちの枠組みにはめて考えすぎって感じですね、すいません。(笑)
つまりはまあ、書き直さずとも、もう充分に表現出来ていたと考えます。
ゆえに、無くても大丈夫だったんじゃないか、と思ったってことなんです、ええ。
(後略)
====キ=リ=ト=リ=セ=ン====
とまぁ、こういうやりとりがもう少し続いたわけですが……。
いかがだったでしょうか?
このやりとりは、同じ題材を挟んで話し合った結果、両者の創作に対するスタンスの違い、というのが鮮やかに出ている点で、非常に興味深いのではないでしょうか。
では、どちらがどういうスタンスに立っているのか…… ということを、改めて見ていきましょう。
まず、Y先生のスタンスが如実に現れてるのが、こちら。
"これが短編を書くときのポイントだと思うんですが……。
連載長編ならまだしも、短い文量でまとめる必要がある短編は、ことさら『何について書くか』というテーマ・主軸の設定が重要になってきます。
それ以外のすべては、そのテーマ・主軸を引き立てるために使う……といっても過言じゃないくらいに。
そうしてメインを絞り、それだけに焦点を合わせるのを意識することで、短編として、全体が1つのテーマに沿って引き締まると思うからです。
短編はまず削ってナンボです。寄り道してる余裕なんて無いと考えましょう。
あれもこれもと詰め込むのはダメです。絞って下さい。
いるかいらないか分からないようなものは、ほぼいりません。切り捨てましょう。
引用:『読まない方がいいボンクラ式文章講座』(https://ncode.syosetu.com/n0644fh/16/)"
Y先生の 『明確な美の形』 感じていただけたでしょうか。
先生にとっては 『こうあるべき』 作品の姿が明確にあって、そこに向かって造形していく…… そういうスタンスでいらっしゃるのでしょう。
先生の非常に美しく完成度の高い作品からも、それは伺えます。
さて、一方で、砂礫のスタンスといえば……
ごめんなさい、ありません(←こら!)
まだ勉強中ということもあり、特に短編においては、色々な書き方を試しています。
強いて言うならば、その都度 『この作品をどう造形するか』 ということを決めている……程度でしょうか。
たとえば。
・どういうストーリーにするか
ここで大体の書き方と文字数が決まってきます。
逆に 『こういう書き方を試してみたい』 からストーリーを決める時もあります。
・読者さまにどういう見せ方をしたいか。
書き出し、1人称にするか3人称にするか、1人称にする場合なら誰の視点で書くか。
そして、ここで、1人称を誰の視点で書くかでも、話の書き方は若干変わってきます。
1人称は 『キャラの語り』 であると砂礫は捉えています。
そのため、不器用なキャラであれば書き方も少々不器用に、アホキャラであれば賢い表現は一切出てこず…… キャラがどうしても言いたいことであれば、作者としては嫌でも入れる。
(どうしても入れられなければ、キャラごと作品を抹殺して書き直す)
というようなことを、読める文章の範囲内でなるべく徹底しています。
それが良いか悪いかはさておき、キャラに合わせる書き方でないと、どうしても気持ち悪さや納得いかなさが残ってしまうのです。
(逆に、ストーリー先行で美しく納めたい作品であれば、3人称か、あるいは特徴ある性格付けを敢えてしない、モブ1人称を選択しています。)
…… 良いか悪いかはさておき。
そう、ここがまた、問題です。
世の中にはたくさんの人がいて、皆が同じ考え方をする訳ではないのが当然ですから、どのスタンスをとるにしても 『良い/悪い』 は個々人の裁量においてしか判断できません。
創作においては、自分が正しいと言ってしまっては独り善がりになる危険があり、しかして、納得できないままに他の意見をまるっと採用するのも、少々違うような気がします。
できれば自他ともに納得できる作品を書きたいものですが……
ともかく、砂礫程度の腕前では 「私はこれでいいんだ!」 と思ってしまうのは、かなり危険なことでしょう。
創作が自身の内面から生じながら、なおかつ人に見せるものである以上は、自身と他者の間で常に迷うこともまた、必要なのかもしれません。
(書きたいこと書きたいように書いて人気が出たら最高だとは思いますが。笑)
というわけでY先生!
今回は (というかしょっちゅう) 生意気にも反論はしてますけど、いただいたアドバイスはちゃんと噛み砕いてゴックンして次に活かそうとは、本当にめちゃくちゃ思ってるんですよー!
いつもありがとうございます!
そしてこれからも宜しくお願いします。
読んでいただき有り難うございます。
こちらはタイトル通り、先日Y先生と行ったメッセージのやりとりが、非常に色々考えさせられる良いものだったので、拝借してエッセイに仕立てたものです。
本当は、「短編1つとっても考えてることって、これだけ違うんだよ面白いねー」 って話だけじゃなく、もうちょっとちゃんと 『純文学とはなにか』 とかそんなことをも書くつもりだったんですが……
ごめんなさい、なんか上手くまとめきれなかったので。置いときました。(どうせ結論出ないし、いいよね!)
純文学って、色んな人が色んなことを言うんですけど、ウィキ的には 『芸術』 らしいんですよ。もうこの時点で、『何をもってして純文学とするか?』 という議論には果てがないこと確定です。ええ。
トンネルの落書きを芸術という人もいれば、評論家が認めたものしか芸術と言わない人もいるじゃないですか。
それと同じで、どんなこと言っても大体は有りで、言った者勝ちなんですよ。
たとえば、先日たまたま目にした書評には 『ラノベっぽい文体の純文学作品』 という文言がありました。砂礫は一瞬目を疑いましたが、 …… 近年は面白素材で芸術作っちゃう美術家もたくさんいることを考えれば、「全然有り!」 な気もします。
砂礫自身は、純文学は 『テーマに沿って造形された文学作品』 と思っているので、あまり美しさにはこだわっていません。
美しく造形されるべき作品ならそうすれば良いけど、『そこを見せたいんじゃないんだよー』 という時に敢えて崩すことには、何のためらいもありません。
けど、それは、純文学として美しい作品や、それを真剣に追っている人を否定するものではないことを1万回くらい申し上げておきます。
……ねー。ほら。
こういう風に、まとまり無くなってくるから、結論が出ないことについては書けないですよね、なかなか(笑)
今回は、Y先生ご本人より感想・メッセージ掲載の許可をいただけたことで、普段は書きにくいことの一部をやっと形にできました。
創作が好きな方々に、何らかのお役に立てば幸いです。
そして、Y先生どうもありがとうございます!m(_ _)m
⇒ Y先生の正体が気になる方はこちら。
https://mypage.syosetu.com/1046406/
⇒ Y先生の代表長篇はこちら
『4度目も勇者!?』https://ncode.syosetu.com/n7420fe/
⇒ Y先生の砂礫お気に入り掌編はこちら
『はらはらと、はらはら』
https://ncode.syosetu.com/n8057gh/