80枚目 「長い夜」
……すこしだけ、昔話を聞いて欲しいの。
ああ、我らを産み育んだ赤い土よ。燃え盛る火を飲み干した死なずの鳥よ。
大いなる羽ばたきの元に王が産まれたその日、与えたのは意思か。知恵か。心か。
命の移り変わりすら慈しみ、変えられない過去を憎しむ為の、情動か。
変化を受け入れて尚生き残るための、欲望か。
「……歌?」
「いいえぇ、詩よ。初めて聞くかしらぁ」
「はい」
本を閉じ、見知らぬ知識に喉を鳴らす。針頭がもさもさと動いた。
資料室の一階、誰も居なくなった館内で蔵書を読み漁る少年がいる。
浮島に来てからずっと本を読んでいる彼は、巻き毛の司書にそう答えた。実に素直で裏表のない返事である。
しかし、司書は口をとがらせる。
肌を隠すための鼠顔が、白い指先で押し上げられそうになった。
「辞めてください。危ないですよ」
「あらぁ、つれない人」
返す手で元の位置に鼠顔を落ち着け、少年の斜め向かいの席に座る司書。
「暗い所で本を読むと目が疲れなぁい?」
「そうでもないです」
「……王様、取り寄せてくれるらしいわぁ。貴方用の翻訳術式、装身具型の。前に使ってた趣味の悪い冠とは違うみたい。良かったわねぇ?」
「そうですか。……後でお礼をしてきます」
「えぇ。それがいいと思う」
司書は赤い目を細め、革の表紙を眺める少年に目を移す。
女性が目の前に座ったからか、少年は本を開こうとすらしない。
「ねぇ、ハーミットくん」
「なんですか」
「私と二人になった時ぐらいは、その被り物外してくれない?」
「……命令なら、従います」
「ふふ。宜しく」
「…………」
少年は鉄の腕輪が嵌った手袋で、徐に顔を晒す。
金の髪。黄金の瞳。蒸れた白い肌からは病的なまでに生気を感じられない。
睫毛の影がおちる目は、濁った琥珀の様だ。
青く濁った、琥珀色。
司書は――ロゼッタは、その瞳の色を忘れない。
「ヒトらしい目ね?」
「……初めて聞く感想です。それは」
「ふふ。少しも褒めてないわよぅ」
魔族の彼女にとっては。たった、六年前のやり取りだ。
――そうだぁ。ハーミット。知っていて損はない占いなのだけど。聞きたい?
センチュアリッジ作戦から帰還して暫くのこと。
仕事に忙しかったハーミットにかかって来た回線の一つに、ロゼッタからの連絡があった。
当時はラエル・イゥルポテーを含めた五十名弱の解放者に対する対応に追われる真っ最中であり、針鼠の少年の疲労もピークに達するかどうかというギリギリの線だった。
比較的図太く精神が鋼でできている黒髪の少女とは違い、精神崩壊一歩手前の解放者たちをどの国のどの町に受け入れて貰うか、親元や家族に返せる者がどれだけいるのか、その確認作業に昼夜問わず取り組んでいたのである。
そこに「怠惰の舌」からの連絡とあれば、無視できないだけに心労は増すばかり。
仕事を切り上げ、できる限りのことを終わらせてから資料室に赴くと、館内は消灯して閉まった後。利用者は軒並み退館しており、人の気配は殆どなかった。
照明の灯りが半分落とされ、明度を落とした赤い絨毯を眺める。
顔を上げてみれば、数年前は毎日のように目にした、眩むような本の群れがあった。
「来たわねぇ。来ると思ったわぁ」
「お疲れさま。ロゼ」
「ふふふ。疲れがあるのはお互い様よぅ、来てくれて嬉しいわぁ。ハーミット」
眠たげに手を振るのは二階の欄干を乗り出すようにした女性だ。赤紫の巻き毛とシックなロングスカートがフワフワと揺れる。
ハーミットは硝子の目をこすりながら手を振り、鼠顔をパージする。
琥珀の瞳が橙の灯りに反射して、瞳孔の茶色が赤い瞳を射抜いた。
「本題に入って欲しいのね。良いわぁ、説明の手間が省けるもの」
「ごめん、急かしてしまって」
「現に忙しいのでしょう? 貴方が謝ることじゃあないわぁ」
かどのない欄干の上で足を組むロゼッタ。一階から見れば危なっかしい格好だが、階層を移動すること自体がタイムロスになることもあるのだと彼女は言う。
それはそうと、少年は晒された生足に目のやり場を失い視線を逸らした。
「で、今回の占いは芳しくなかったのか?」
「ええ。『このままだとラエル・イゥルポテーは不幸になる』」
「は?」
「おめでとう。貴方は二割を引き当てた――彼女が順当な運命から転がり落ちていく運命に、巻き込まれたのよ」
「いや、その……ちょっと待ってくれ。それは俺に関係ある占いなのか?」
ハーミットは言い、それから自身が持ち歩く回線硝子を一瞥した。
勿論この時点ではまだ、彼の手元に黒髪の少女の連絡先は無い。
「俺じゃなくて、彼女本人に伝えるべき事柄だろう」
「個人の問題じゃあないから貴方に伝えているのよ。察しなさい」
言い放つと、ロゼッタは欄干から飛び降りた。下には背の高い本棚がある。
二回の落下を経て一階へのショートカットを実行した司書に、金髪少年は逸らしていた視線を戻す。
赤い瞳は血のように、琥珀を焼き焦がすような視線だった。
「貴方が救ったから、貴方がどうにかしなければいけないの」
「……」
「貴方は選択したでしょう? 一人だけ助けられない結末ではなく、全員助けられるがどうしても一人逃がしてしまう結末を。私たちは『受容』した。あの場の全員が同罪よ」
赤い唇が告げたのは、既に選択が終了した予言と分岐。
受容するとたしなめられた、あの選択だ。
「……ああ、選んだよ」
「じゃあ、責任を取りなさい。方法は任せるわ――但し、このことは王様には内緒ね」
「なぜ」
「分からない? あの娘は私たちが危惧する痣があるのでしょう?」
司書は長いスカートを翻す。館内のあちこちに留まった蝙蝠たちが一斉に目を剥いた。タペタムがカンテラの灯を弾いて白く輝く。
闇に浮かぶ銀河の如く。
「浮島の外に出てしまったら最後、彼女の命は保証されないわぁ」
「外であれば、だろう?」
「内側なら、手を下せるのは何処の誰だけかしらねぇ」
「…………」
「そういうことよぅ」
細められた赤い瞳には、白い水晶が浮かぶ。
未来を予言する魔法。怠惰の舌は容赦のない選択を迫る。
ハーミット・ヘッジホッグは、人智の及ばないその能力を信用するしかなかった。
そうして始まったのが黒髪の少女の観察だ。少年は監視者という立場を有効活用し、片っ端から情報を集めることにした。
最初の一週間は疑惑。
次の一週間は困惑。
その次の一週間は当惑。
ラエル・イゥルポテーという少女は思った以上に難解で、簡単にラベリングできるような類の人間では無かった。
どのような好き嫌いがあって、どのようなことが得意で苦手で、どのようなことに興味関心を持ち、どのような素質を持つのか。
会話を重ね、分析を続け、少女が被っていた猫を一匹剥がす毎に、少年は何処に焦点を当てるべきか大分迷った。
あまりにも人と関わって来なかったという少女は、そのブランクを感じさせないほど人付き合いが上手かった。
自尊感情も人並みにあって下手に削れることはなく、傷ついた心も自力で癒すことができていた。
他人を巻き込んで状況を解決しようと動いたり、かと言って自身の将来や目標を見失うことなく、少しでも疑問に思ったあれこれを次々と掘り起こして知識としていく。
眩しすぎる成長を見せる彼女が、これからどうして「不幸」に転ぶというのだろう。
司書の占いが外れたということだろうか。それとも、彼女の就活をサポートすることが何かの分岐点になっていただけの話なのだろうか。
占いや予言はその時期を明言されない曖昧なものが多い。
いつ来るか分からない選択の瞬間を待つハーミットが予兆を感じたのは、少女が監獄でとある因縁深い男性と顔を合わせた時だった。
あの時。黒髪の少女の中で「第三大陸に降りる」という目標が明確化されてしまった。
予言の時期を超えるまでの間、浮島から出るその行為はイコールで死と繋がったままだ。
だからこそ針鼠の少年は黒髪の少女に嫌われる覚悟であらゆる事を誤魔化し続け、情報をわざと錯綜させてきた。
与えても問題ない謎を目の前にちらつかせ、食いついたら一度自分から引き離す。
そうして自身が動ける時間を増やし、彼女を見守りながら「その日」を待ちつづけた。
一週間と少し前、倒れる程に根を詰めて走り回っていたのはそのためである。
……正直な話、彼は少女があの回答にすらたどり着けないとすら思っていた。自国が地図に無いその時点でショックを受けて部屋に引きこもるか、こちらにたてついて部屋から出られなくなるか、そのどちらかに転ぶと踏んでいたからだ。
しかし現実は違った。黒髪の少女は構築したコミュニティを駆使し、全体の七割の回答を導き出して見せた。ただでさえ人族には少ない情報しか開示されていないというのに、良く辿り着けたものである。強力な助っ人がいたんだろうか。
高を括っていた少年は酷く反省した。思った以上に時間が稼げなかったことも理由にあった。王様にも勘づかれ、タイムリミットは更に縮まったように思えた。
そして先日。針鼠の努力も空しく、ラエル・イゥルポテーは烈火隊の白魔術士と仲良く喧嘩を繰り広げ、死にかけることになる。
あれは針鼠にとって、事前に司書から聞いていた「既知の事件」だった。
助けられる範囲だったから構わない。予言された内容そのままだったこともあり、少女には何も後遺症が残らなかったが――はて、この程度のイベントが、彼女を不幸足らしめる決定打だったのだろうか、と思う。
不幸というのは、何も死ぬことだけではない。
箪笥の角に小指を打つことも不幸だろう。
大切な何かを失うこともそうだろう。
生き様そのものを言い表すことだってある。
だとすれば、まだ黒髪の少女は元気だ――朗らかに健やかだ。溌溂としている。
衝撃が足りていない。
彼女の人生を歪める程の出来事が起こったわけでは、まだ。ない。
ハーミットはそう踏んで、慎重を期して情報収集と検討を続けることにした。専らの思考対象は「ストリング・レイシーに禁術をかけた相手」の捜索と確保である。
浮島に来てから『催眠』の名前を聞くことになるとは思いもしていなかったが、騒動の後、彼はストレンに一人で面会した。
副作用が空白式の乱記述だったとしても、「火の基本式の配置で言葉を作り助けを求める」などという芸当は相当の精神力が必要とされるだろうと考えたからだ。
ただ、残念ながらストレンの自我が削られていたことから記憶がおぼろげで、助けを求めたことすらも思い出せないという。
聞き出せたのは、最後に顔を合わせた相手の情報のみ。
そして、その相手こそが「主犯」の協力者であり――ラエル・イゥルポテーの部屋の前、火の基礎式を巻き込んで暴発させようと連鎖陣を上書きした人間であると判じて。彼は証拠を集め、ようやく立件できると意気込んでいた。
この件が片付けば、ようやく王様への対応に移ることができる――そんなことを考えていた。
だから、それが鳴り響いた瞬間は大層驚いた。
ウゥゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!!!!!
「――っんあ!?」
転寝していた目を限界までかっぴらき、鼠の巣の外に飛び出た所までは他の住民と同じ反応だ。
だが、見回しても襲撃の気配はなく火の手も上がっていない。ハーミットは状況を認識するなり回線硝子を手に取った。普段は使わない赤い硝子だ。
「今すぐ来られるか!?」
言い切った瞬間、視界は明滅。一瞬の間を置いてセピアに浸食された。
目に入る範囲に居る住人はあらかた固まり、動き出す様子はない。
その一方で無魔法『魔法無効化』が働いたハーミット・ヘッジホッグは無傷も同然、その影響を受けることが無かった。
腰から抜いた短剣で回廊を切り裂こうとするが、弾かれる。
(――傷つかない?)
となると、発動条件。巻き込まれる条件がある筈だと思考する。
恐らく効果範囲は五棟だけではない。浮島全体に魔術陣を仕込んだ?
「……やられた。しかもよりにもよって『時』系統か……!」
試しに拳を壁に叩き込むが、壁紙には傷一つつかない。
(効果範囲にあるものは破壊できないのか)
少年は手袋を外して壁に触れる。
触れた部分を中心に周囲が色鮮やかになったかと思うと、手を離した端からセピアに染まっていく。
どうやら術式へ魔力供給が続いているらしい。こうなると大本をどうにかしなければならない。
(人を確実に巻き込む為には血が必要だ。だとすれば、ますます一棟が怪しいけど――)
ハーミットは思考しつつ、一か月前の事を思い出す。
浮島に血を差し出した黒髪の少女の姿を。
(まさか、これが「予言」にあった分岐か……?)
黒髪の少女が居るであろう五棟の上階を見据え、少年は駆け出した。
この状況下である。無事を確認する必要があると判断したのだ――足をのせたその階段が、少女が駆け下りてくる階段と真逆の位置にあるとはまさか、考えもしなかった。




