78枚目 「血で描く」
「ただいま」
「どうしたんですかぁ、その『何も発散できなかった上に戸惑いと疑問しか残らないような消化不良及び不完全燃焼の最たる例』……みたいな表情は」
「大筋は当たらずとも遠からずよ」
施錠を済ませた黒髪の少女は、ワンピースのままでベッドに突っ伏す。
赤い目を半眼にしたストレンは、溜め息混じりに水を用意した。
「はい」
「……ありがとう」
「それでぇ、どうだったんですぅ? 『デェト』とやらは」
「脈なし」
「はぁ、まあ、当然でしょうけどねぇ――って」
カップを取り落としそうになったのはストレンの方である。
ストレンにしてみれば、三時間も異性と二人きりの時間を共有していれば何もないのが不思議なのだ。魔族にとって仕事以外での密会はそのまま逢瀬を指す隠語でもあるのだから。
「因みに彼と話したのは半時間くらいで、その後は散歩してたわ」
「っつ、う、あ、このっ、そういうことなら私も誘いなさいようっ!」
「嫌よ、どうして一人の時間まで貴女に割かなきゃいけないの」
「まるっきりそのままで貴女に叩き付けたい言葉ですねぇっ……!」
中身をこぼしそうになったカップを机に置き、ラエルの手にある水を奪って飲み干すストレン。
ラエルは「あ」と言葉をこぼしたものの諦めたのか、耳元の柔らかな白に顔を埋める。
「……ねえ、ストレン。気になることがあるのだけど、いい?」
「べ、別に構いませんが! 貴女がその『彼』とやらに脈がなくて落ち込んでいるのを慰める必要とかあったりしますぅ?」
「ないわよ。えっとね、部屋を出る前の話の続きを少しだけさせて欲しいのだけど」
ラエルは髪を解き、ベッドの枠を背にして床に座りこんだ。
テーブルの上で反省文の資料を広げるストレンは、その椅子に座ったままラエルに向き直ると腕を組む。
「どうして禁術に気づいたのか、でしたっけ?」
「違うわ。その検討は済んだでしょう――術者の意図、の話よ」
意図。
ラエル・イゥルポテーの部屋の前に描かれた魔法陣が目指した目的。
「この数日考えていたのよ。こんなに用意周到に禁術を使う魔術師であれば、当然その作用を知らない訳がないんじゃないかって。なら、ヘッジホッグさんが気づいたみたいにそうなることは予想できたはずなのよ」
「そういえば、『催眠』の副作用って何なんですぅ?」
「大量の空の陣を書く」
「あぁ! あれですか」
そう。空の魔術陣。内容の無い、空っぽの式。
勿論魔力を込めても何も起きる事は無く、だからこそ空と呼ばれているのだが。
「ずっと気になっていたの。魔術陣って、魔力を均等に行きわたらせないと発動しないでしょう? なのにどうして、火系統の基本式を重ね書きしたんだろうって。書くように仕向けたんだろうって……ストレン、あの陣を書いた時、発動しないものを書いているのに変だとは思わなかった?」
「いえ、いいえぇ。違和感はありませんでしたぁ。純粋に『ラエル・イゥルポテーの部屋が綺麗に燃えるといいなぁうふふん』的なテンションだったと思いますがぁ」
「……貴女の動機はともかくね」
ラエルは宙に指を向ける。
「初めに描かれたのは悪戯の術式でしょう?」
上部にペイントマークの入った丸いイラストを描く。
「次が空白式と火系統の基本式」
下部に複数の円と、それに重ねて幾つも三角形を書く。
「最後に、連鎖陣――いや、ここでこんなに高度な式を持って来るのであれば二番目の基本式をどうにかして欲しかったのだけど」
下方に大きな半円を重ねるラエル。それを見てストレンは首をひねった。
「何ですかそれ」
「え、貴女が書いたんじゃあないの?」
「私が書いたのは火の基礎術式までですよぅ。まあ、大分抵抗しながら書いた覚えがありますけどぅ。意図まではいまいち思い出せませんねぇ。そういえば、書いた後、残った自我を振り絞って共同訓練場の使用許可を取りに行きましたけどぅ」
「使用許可?」
「施設の使用には許可が必要ですからねぇ。私、貴女と対面した時点で自我がおぼろげでしたしぃ」
「え、待って。そうじゃなくて」
ラエルは指文字をかき消すと立ち上がり、ベッドに腰掛けて対面の姿勢をとる。
「もう一度、聞いても良い?」
「いいですよぅ」
「貴女、私の部屋を荒らしたのは間違いないかしら?」
「えぇ。弓でしゅばばっと」
「その時、何か書き置きとかした?」
「いいえ? 実行犯だってばれるじゃあないですかぁ、そんなことしませんよぅ」
「――……!!」
思い返せば。そうだ、明らかな違和感だった。
ストレンはこれまで何度もラエルに嫌がらせをしながら、あの喧嘩で自白するまで一度たりとも自分が犯人だと主張したことはなかったのだ。
しかし、ストレンの言うことが正しいなら矛盾も生じる。
鼠の巣で確認した文字の血にはストレンの魔力が通っていたはずである。烈火隊を束ねるアネモネがそう言ったのだ。誰も嘘を吐いていなければ、それで間違いない。
あの場に居合わせた三人に、ラエルを騙す動機もないだろう。
状況と、情動の矛盾。
「ストレン――ストレン!」
「な、なんですかいきなり大声で」
「貴女、最近誰かに血をあげたりした!? 血を抜かれた覚えは!?」
「お、落ち着いて下さいよぅ、血? 血でしたら、魔導王国出身者は生まれた時に幾らか抜かれている筈ですがっ」
肩を掴まれてがくんがくんと揺らされるのを止めさせたストレンは、思いっ切り眉間に皺を刻んでラエルを引き剥がす。
「急にどうしたんです、なにかトラウマでも踏みました!?」
「ああもう違う違う、魔術に使用できるぐらい抜かれた覚えはない!?」
「魔術……あぁ、直近なら一カ月ほど前に?」
「どこで!」
「一棟の受付ですよぅ。私、犯罪者さんの治療で地下に潜ることもあるので」
……つながった。
共同訓練場の使用受付は、ラエルが牢屋へ降りた時に血を抜かれた場所と同じだ。
「訓練場の使用申請をしたとき、誰が担当だったか憶えていない?」
「意識が朦朧としていたので流石に人相までは。受付さんは沢山居ますし……あぁ、でも。髪の色が赤と黒の斑でしたね」
赤と黒の混ざり髪。
ラエルの脳裏にモスリーの顔が浮かぶ。彼女にとって一番身近な斑髪の女性である。
確か、彼女と髪の色の話をしたときに誰かのことが話題にあがった気がするのだが――。
(問題なのは、本人の許可なく抜かれた血液が使用されてるかもしれないってことで)
さらに、突くべき違和感は他にもある。
悪戯の術式――ラエルの頭上に落ちてきたペイント液。床にそれが沈着しなかったことだ。
床を汚してしまえば部屋の中に居るラエル・イゥルポテーの掃除手間が増え、さらなる嫌がらせ効果を期待できたはずなのに、ストレンはなぜそれをしなかったのか。
事実、ラエルはペイント液を落とすのに物凄く苦労している。肌に色素沈着したことばかりに意識が行っていたが。あの時、服だって汚れていたはずなのだ。魔導王国の衣類洗浄駆動が高性能すぎて、黒髪の少女が気がつかなかっただけなのだとしたら?
「生体にのみ色をつける」のではなく、「床に色がつかないようになっていた」とすれば。
床にペイント液が付かないよう回廊にあらかじめ術式を伏せて――いやしかし、そのような大規模な手間、黒髪の少女の部屋の前だけということも考えられる。
「ストレン、私に嫌がらせする用に買った例のペイント液、まだ持っていたりするかしら」
「……あ、ありますけどぅ」
何に使うんですか、と言いかけたストレンの手から小瓶を受け取り、裸足のまま廊下に出る黒髪の少女。
ノーモーションで床に叩き付けた。
砕け散った硝子の内側からカラフルでビビットなタトゥー液が溢れる。
「何するつもり――ってぎゃああああ!?」
「うるさいわね何時だと思ってるの?」
「夜ですよ! そしてここは回廊です! なぜインクをぶちまけたりして……へ」
じゅうううううう。と、肉を焼くような音がする。
インクが泡立ち沸騰して、色を失くし蒸発していく音である。
灰色の回廊は一面に毛足の短い絨毯で構成されているが、その一片も色づく気配はない。
「なんですかこれ……昔お弁当ぶちまけた時は染みになって大変だったのにぃ!」
「『点火』」
「ふぎゃあ!?」
突如燃え上がった黒髪の少女の指先に悲鳴をあげるストレン。
人差し指が示すのは床だ。壁に穴を空ける勢いで暴発を続ける下級火系統魔術が、灰色の絨毯をじわじわと焦がしていく。
どうやら止めることができなかった自分を悔いているらしいストレンが手で顔を覆う。
ラエルは構わず、適当な場所に半円を描いた後に手袋を装着して回廊の絨毯を引っぺがした。
「…………」
「私、何も見てませんから! まさか公共物を破損する犯行現場だなんて何も、何も!」
「ストレン。これ、なに?」
「はい?」
視界を覆っていた指を外し『点火』で切り裂かれた灰色の絨毯の亡骸を目に入れたストレンは、二重の意味で息を呑む。
はがれた絨毯の下、床に書き込まれたリボン状の魔術式。
赤。所々掠れて黄色い。
液だまりは濃い茶色。つまり血だ。
血液をインク代わりにした、魔術陣である。
「これ、は」
「……どれだけ大きい陣なんだろう、三棟の私の部屋の前にも似たような効果があったことを考えると、全体のほんの一部って感じだし。ストレン、本当に知らないの?」
「いえいえいえいえ、こんなまがまがしい術式知りませんよう、私、白魔導士志望だったので!」
「仮にも城だから、城中を巻き込んだ陣ぐらいあってもおかしくないとは思うけれど――こんなに大規模な魔術陣、魔力を行き渡らせるのだって簡単じゃあないわ。私だったら、いっそのこと溝を削って魔石を嵌め込む」
(刻めない理由。絨毯の下に書き込む理由。……ばれたくなかったし、時間も無かった?)
「協力者が少ない? それとも少人数でも発現できるとか? 魔導王国の住民が知らない内に発動させたかったとか?」
いやいや、そもそもこんな大量の血を用意できるはずがない。
十人分、百人分でも足りはしないだろう。
しかし。その前提は先程の会話で覆されたばかりだった。
血を、集める。液体のまま保存する場所がこの浮島には、存在する。
「……まさか、よね……?」
(集めた血液、その全員を対象にしている魔術、なんてことは……)
少女の思考が何かを掴みそうになった、その時だった。
ウゥゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!!!!!
――振動。床が音で揺れる。城中が爆音に包まれた。
「っ!? なに?」
「これは、非常時の鐘!? 敵襲ですか!?」
ストレンが身を翻し、修理から帰って来たばかりの魔弓を手に取る。
警戒すべき状況なのは理解できるが、ラエルには音が何を示しているのか分からなかった。
他の部屋からも「なんだなんだ」と人が出てくる。他の階も棟も同じような状況なのだろう、喧騒が相まって、浮島中が真昼のような騒がしさになる。
その状況でラエルは耳を塞ぎながら、床の術式に魔力が通い始めたことを知覚する。
「……っこれ、発動するわ!!」
「今ですかぁ!? ――っ、ああ、もう!!」
叫ぶなり、ストレンは弓を投げ捨て身を振り切った。
左足を軸に、右足を鎌状に蹴り払う。
ラエルの腹部に入るように、絶妙な角度で。
「ふ、ぐぅ!?」
タイミングがタイミングなので防御姿勢を取ることもできずラエルは蹴り飛ばされた。
黒髪の少女は部屋の中にあるベッドのマットに着地する。
「ラエル!」
「な、何よ蹴るなんて酷いじゃな」
「四天王『強欲』に回線を!!」
――ぱちん。
例えばそれは、扉が閉じた時の音。
指を鳴らす音にも、聞こえたかもしれない。
誤解しないで欲しいのは。現実にそのような音が流れたわけではなく。黒髪の少女はそのような幻聴を知覚したということだ。
聞こえていた音が全て消えるという現象を体験して。
セピアに停止した、同居人の姿を前にして。




