44枚目 「Turning Point」
「今、同情したわね」
その瞬間を紫目は見逃さなかった。目の前でつづられた言葉の余韻と、僅かにゆがめられた目尻。男の表情が語ろうとしている意図を。
偽善を。
「そう、貴方は私のことを可哀相な人間だと分類するわけだ。可哀相だと知っていたなら手を出さなかったのになんて、これから的外れも甚だしい後悔でもするつもりかしら――ふざけるなよ」
確かに、ラエルには恐怖を伴う感情を感じることはできない。いつからか分かったものではないが、ドクター曰く感情欠損患者だ。魔族と獣人が国民の大半を占める魔道王国に放り込まれた、まだまだ子どもの人族だ。
しかし。それで嫌がられたり気味悪がられるならまだしも、慰められる覚えはない。他人と違うものを否定する人の本能は許せても、劣っているから同情するべきという浅ましい考えには同意できない。
勿論ラエルは同情を知らないわけではないし、誰かが誰かにそうするのであればそれは個人の自由だと思っている。その結果として人間関係が広がることもあるだろうし、生まれる友情もあるだろう。コミュニティの質を除けば同情される側からすればいいことづくめだろう。
人はそれを、馴れ合いと呼ぶ。
傷を嘗め合おうが、やさしい言葉を掛け合おうが、やり方を間違えればただ毒を与え続けるのと同じだ。とすれば、現状打破に向けてあれこれあがく黒髪の少女にそれを向けるのは。何一つ悲観していない少女に対して、その状況に同情を向けるにしても限度があるだろう。
この男はラエルの生き方を何一つ知らない。それでいて心の底から可哀相だと感想を漏らしたのだから、しょうがないといえばその通りだったのだが、ラエルからすればそれは相手方の事情であって自己の事情ではない。
ラエル・イゥルポテーからは「恐れ」の感情が抜け落ちている。
その症状は周囲が理解しているよりも深刻だ。恐怖を知らないということは、集団から疎外されることに恐怖を抱かないということでもあるのだから。
「貴方が私に向けた感情は、以前私を襲おうとしたときよりもえげつなく醜いものよ。見える目を持っていて観察できる知性があるというのに、目の前に立っている私がそこまで弱い人間に見えるというのなら獣よりも物分かりが悪いわ。理解を放棄するのは構わないけれど、それが『私』を否定していいことと等しいだなんてまさか、そんなバカバカしい考えをもってはいないでしょうね。貴方の目の前でこうして意見する私を、ただの強がりだろうとか、あまりにも憎らしい恐ろしいとか思ってのことなんだろうな、なんて思われていたらと思うと――あまりにも期待外れで笑ってしまいそうだもの」
紫の目を細め、ラエルは言う。
金髪少年は隣に居ながらあっけにとられて止めるどころではなかったし、その圧にさらされているドゥルマからすればたまったものではなかった。
「今思い返せば、手枷で頭をかち割るのは確かにやりすぎたとは思うわ。それによって貴方の観察力と勘が鈍ってしまったというのなら尚更、謝ります」
黒髪の少女は一度、鼠顔を胸に抱いて頭を下げた。
それも数秒のことで、静寂は長くは続かない。
「……貴方に限った話ではないのだけど。誰も彼も私を枠に嵌めすぎよ。ちゃんと話す機会はなかったし運も悪かったけれど、戦争のせいで記憶が吹っ飛んでて可哀相だとか、きっと砂漠での生活は苦しかっただろうとか、両親を人売りに連れ去らわれたのも哀れだとか、そんなことを考えて支援とかしてくれてるのかもしれないけれど。そもそもあんまり記憶がないのは私が歳を重ねたからであって極めて正常なのよ? 砂漠での生活は悪くなかったし、現状をそれほど悲観してるわけでもない。確かに感情欠損なのかもしれないけれど、そうだからというだけで私がショックを受けるとか勝手に想像してくれちゃって、理想と現実をごっちゃにされて困るのはこっちなのよ……!!」
「……っあれぇ!? 思ったよりも流れ弾が多い!?」
「そりゃあどちらかと言えば貴方の常にくよくよくよくよしてる態度の方がそこの結界越しの男よりか、よっぽど気に食わないのよヘッジホッグさん!! そんなに私が悲しい運命を背負ったか弱い女に見える訳!? そりゃあ乙女心としてはそう見えて欲しいけれど!! 否定はしないけれど!!」
「扉をくぐるまではそう思ってた面もあったけど、今は全くそう見えないよ!?」
「でしょう!?」
ふんすーっ。と、吐き出したいことを吐き出し終えたのか、乱れた黒髪をさらにかき乱して、ラエルは元の椅子に座りなおした。
腕に抱いた鼠の目には、それとなく哀愁が漂っている。
もうしばらく続くだろうと身構えていた金髪少年は顔をかばっていた両腕をおもむろに外し、結界越しの剣幕に圧されていたドゥルマも次の波が来ないと分かると安心するまでに少々の時間を要した。
当のラエルは憑き物が落ちたようにすっきりとした顔だったが、徐々にそれが曇っていく。
「……はあ。それで、何の話だったかしら。ごめんなさい、私が勝手に怒ってるだけだから気にしないで頂戴。よくよく考えてみれば貴方の犯した罪と、私が抱いた不快感からくる怒りとでは結局のところ何の関係もないじゃないの……ほんと、成長のない子どもだわ……」
(うーん、地雷はそこにあったのかぁ)
ハーミットは言いかけた言葉を飲み込んだ。これ以上炎上させても良いことはない。
しかしなるほど。「恐れない」というのは、今まで考えていた以上に厄介な性質なのかもしれない。金髪少年はようやく、黒髪の少女のことを少しだけ知ることができた。
一方、散々責められておきながら最終的に被弾した金髪少年を眺めるだけだったドゥルマはしばらく放心していた――どこかで見覚えのある目の色に、ふらふらと視線が泳ぐ。心が水の中に浮かんでいるような心地だった。
「レディ」
「何」
「悪かった」
「……そう思うなら、罰をしっかり受けて頂戴。私は貴方を許さない」
「ああ」
ドゥルマは一言答えると、これ以上は何も話す気がないとでもいうように、話す資格がないとでも言いだしそうな顔をしたまま席を立ち、向こう側へとつながる扉へ手をかける。
しかしその太い指はおもむろに下げられ、何故か振り向いた。
「なあ、レディよ。最後に一ついいか」
黒髪の少女は鼠顔を抱えながら、隣の金髪少年に目を落とす。眉間の皺は健在だが、目の濁りはいくらか引いているようだった。ラエルはその琥珀の瞳を見据える。
「貴方に許可して欲しいわ。お願い」
「……いいだろう。それで?」
「ああ、あのテントに居た俺たち兄弟を雇った外道の話なんだが。奴は名をスターリングというらしい。レディを馬車に乗せたのはそいつだとよ。ともかく、細い目をした魔族には気をつけろ……どうやら奴は、紫の目をした人間を探していた」
面会は、その会話を最後にお開きとなった。
監獄に戻ったドゥルマは、看守に連れられながら独房へと戻った。
寝る場所があり、不自由なく食事が運ばれ、健康管理までしてくれる夢のような場所が、あの再会の後ではどこかくすんで見えた。
先ほどまで目の前にいた、力強い目をした女性の姿が瞼の裏にちらつく。
そうか、そうかそうか。ああいう女だったのか。暗闇でははっきり見えなかった顔つきが、面会室の白い照明で照らされていたのを思い出す。
あんなに強い衝撃を受けたはずの、隣にいた琥珀の色が思い出せないほどにドゥルマは黒髪の少女に毒されていた。彼女は自分を許さないといった。つまりはずっと許さないでいてくれるということだろう。許さないでいてくれるのならば或いは、自分の姿は彼女の中に残り続けるのかもしれない。
どうすれば彼女の傍に行けるだろうか。
隣にいられなくてもいいから、どうすれば見守っていられるだろうか。
ああ、ああ、心が割れそうだ。
目を開けるのが苦しい。目の前に彼女はいない。
そうだ、まずはここから出る方法を考えよう。刑期を縮めてもらえるぐらい沢山沢山働いて、彼女に一目置かれるような存在になってやろう。
彼女が言う償いを終えて、彼女の望むことを助けられる立場の人間になってやるのだ――灰色の独房を出られる日を、まずは心待ちにしよう。ここでの生活に甘えていては、いつまで経っても外へは行けないのだから――ああ、それにしても。
いつの時代も、強い女は美しい。
少女の男難の相は、まだ始まったばかりである。




