36枚目 「霧と焦燥」
白いまどろんだ世界が、時々滲んだり鮮明になったりを繰り返して、歩き続ける俺の周りを行ったり来たりしている。
時々、こんな夢を見ていた気がすると、デジャヴに似た感覚。
……俺は、どうして。
つい昨日の様に思い出せるあの日から、どうして今日まで生きている。
この足が、何人の命の上に立っているのかも知らないくせに。
薄い革手袋に剣をとったこの掌が、染みついた赤を忘れるわけがないのに。
『何してるんだ、ハーミット』
振り返ると、緑の木漏れ日の中で、大剣を担いだ騎士が笑う。
『そうよ、あんたらしくもない。いつものお茶らけは何処に忘れて来たってのよ』
二つ目の声に、振り返ると。夕暮れの崖の上、褐色の肌をした踊り子が不満げな顔をした。
『下ばっかり向いてるなんてらしくないってったらないわ。前を向きなさい! それが嫌なら、せめて魔王城のある空を見なさい! ほら、いつも最後はどうにかなったでしょうが。今更なにを怖がってるの!?』
……怖い?
まあ、確かに怖い。違和感はある。彼らの顔が、俺には見えない。見ることができない。
そうしてようやく、ここが夢の中だと気づく。
ああ、夢だ。夢に違いない。
考えると、目の前にいた彼らは白い霧に紛れるようにして消えてしまった。
離れて欲しかった訳じゃない。分かっている。けど、だけどしょうがないじゃないか。どうあがいたところで、俺は君らと相いれない。
彼らが言う人間と、俺という人間は、産まれた時から別物なのだ。
でも。……でも、嫌だ。誰か、誰か気付いてくれ、俺はそんなに強くない。
皆の言うほど、強くない。強くなれない。
痛みを、感じない訳がない。苦しいんだ。辛いんだ。俺には重い。
ごめん。謝るから、謝るから。許してくれないでいいから。許さないで。
心臓が、痛い。
塞がった筈の、思い出がうずく。
ちゃりん。――そうして背後から、耳に染みついた足音がした。
俺は、何度もこの夢を見ている。それはきっと、魔王城に住むようになってからずっと。
だから、このまどろみが行きつく場所を知っている。
……本当に、会いたくないのに。
『どうしたのですか、ハーミット』
その人は、俺を懐かしい声で呼ぶ。
あの日と寸分違わない声で、囁く。
白い髪を絡めた指で、俺の頬を撫でる。
自然、目が合った。
あぁ。
『ハーミット? あなたもしかして』
辞めてくれ。
『私が、怖いのですか?』
何一つ、許さなくて構わないから。辞めて欲しい――。
「……」
目が覚めた。声は、出なかった様だ。
金糸が嫌な汗と共に頬を滑る。ここ最近見る事の無かった悪夢だった。
いやあ、心の準備がないときに限ってこれだから。
動悸が中々収まらないので、大きく深呼吸する。繰り返す。落ち着いた。
瞬く度に、瞼の裏に焼き付いた情景――仕事に支障をきたしかねないその幻視を振り払い、ベッドから降りて服を取り払う。
シャワー室で冷水を頭から浴びた。
危ないからあまり手本にして欲しくはない。医者としては本当に止めて欲しい行為を薬学者の自分がやっているのだから、しっぺ返しが怖い。主にスフェーンの怒る顔が目に浮かぶようだ。
いち。にー。さん。よん。ご。ろく。なな。うん、いい感じだ。そろそろ寒い。
蛇口を絞め、タオルを手に取る。支給服を着て時計を見る。
今日一番の予定が六時二十分からだからそれまでには四棟に行かなければならない――が、今は五時だった。朝風呂は済ませてしまったのでどうしたものか。
足元を見る。裸足の足の先には、山積みになった薬草、歴史、文学、法学の書籍。
昨日の夜は新刊の魔法学書を読みながら寝落ちしたんだったか。
探してみれば、積み上げた本の一つに栞代わりの手袋が挟まれている。
「昨日の俺、本をもっと大切に扱ってくれよ……付属の栞があるだろうが、せっかくあるんだから使えよ」
自分に自分で突っ込むという空しい行為。完全防音の一人部屋では滑る人間もいやしない。
「……ん。これは赤魔術士育成を推進するのに良い材料になりそうだ」
寝起きの目に活字は辛いが、これも仕事の一つである。
肩、首、腰を流れるようにほぐして、ベッドに腰掛ける。時間が来るまで読書をしていよう――金髪少年が本に目を落とした。
瞬間、ベルが鳴った。
普段はめったにならない回線の呼び出し音である――はて、昨日は何かやらかしただろうか。心当たりはメルデルの言霊治療をばっくれた事ぐらいだが、彼女は有無を言わさず眼球を飛ばして来るので、飛んできていない今のところはセーフの筈。
じゃあ、あの三つ編み騎士か? いや、この時間はまだ寝ているか。
スフェーンなら治療の予約が入っているだろうし、他の白魔術士も同じような状況だろう。
ならばあの魔法具技師が何か備品を破壊したのだろうか。それとも今最も顔を合わせ辛い王様からの着信か。その他、所々の部署での取引で何か不都合でもあったのだろうか。
人間は完璧ではないので金髪少年がミスをすることもあるし、先方がごたつくことだってあるのだ。少年はやれやれと首を振り、今度は備え付けの栞を使用して本を閉じる。
手袋を両手に嵌め、回線をつなぐ。
「おはようございます。こちら『強欲』、ハーミット・ヘッジホッグですが、ご用件は?」
『お、おはよう。ヘッジホッグさん』
「――ぶはっ!?」
吹き出した。回線が途切れる。
「あ!? ちょ、うわっ唾かかってるじゃん拭かなきゃ!!」
因みにティッシュなんて便利なものはここにはない。タオルを使う。
魔法具を磨き、そして恐る恐る掛けなおす。
どうやら運が良かったらしい。繋がった。でも、後で工房に持って行かなきゃいけないだろう。
「ごめん、トラブルがあった。えっと、どうしたのかなイゥルポテーさん!?」
『うわっ。何よ、いきなり大声で』
「いやいやいや、どうして君が俺の回線知ってんの、そっちのほうが驚きなんだけど」
『ロゼッタさんに聞いたのよ、昨日』
電話の向こうの少女が拗ねた様に言う。
『予言されたの』
「よ――予言だって?」
ああ、そうか。彼女は予言されてしまったのか。少し前の金髪少年の様に、抗い様の無い状況下で夢現の彼女に出くわして。
できるならその展開は避けたかったのだが、忠告がうやむやになってしまったのが悪かったらしい。これは完全に彼のミスである。
「何か、変な予言でもされたのか?」
『いいえ? あぁ、変と言えば変なのかも知れないけど。今日の用事は予言というより「占い」の方に沿っててね?』
「占い!?」
予言された後に説明を受けたであろうに……その直後に、占いをされた? それはトラブルを運んでくるフルコースじゃないか!!
『……貴方が嫌だって言うなら、別の人に頼むつもりなんだけど……』
「いや、ちょっと待って、聞くから。三秒欲しい」
頭の中で今日の予定を割り出す。どの用事が別日に移動可能なのか、アネモネに代わって貰えそうか。
よし、時間が空いた。行ける。
「大丈夫。それで、何を頼もうって?」
『蜘蛛の散らした糸が鉄格子辺りにあるらしい、んだって。そう言われたの――起きたら、貴方に協力を仰げって』
「鉄格子」
『分かんないけど、身に覚えがあるのは人が入るぐらいに大きい「檻」よねぇ』
回線越しの少女は、自虐ぎみにそう言った。




