35枚目 「Melancholic」
ラエル・イゥルポテーは第三大陸北部、灼熱と極寒の白砂漠の中心に位置する人族の王国「パリーゼデルヴィンド」の出身だ。
彼女は齢八歳にして戦火に巻き込まれ、砂漠に家族そろって放りだされることになり、一年半をパーソナルサンドクラフトで過ごした上、拠点が確立してからも七年弱もの期間をサバイバルして生きてきた。
その中で人と触れ合うことを重度に求めていた彼らがのめり込んだのが、蜘蛛を祀りあげた悪徳宗教である。
食物と外の情報を持って来る彼らに頭を垂れ、貢物としてパーソナルサンドクラフトまで渡してしまった一家は、遂にはラエルを差し出した。――いや、正確には順番が違う。
一人目は父親で。二人目は母親だった。
そして先月砂漠の外に連れ出された彼女は、あの場に残った最後の一人だったのである。
オアシスの水が一夜にして泥になった。育てたなけなしの植物が一瞬で草木灰になった。
砂魚が襲って来られない結界が周囲に張り巡らされ、夜間地中から現れる氷柱すら溶かしつくして。そうしてまで彼らは。ラエルをあの場所から連れ出したのだ。
「ふぁあ」
嫌な夢を見てしまった。ラエルは寝ぼけ眼を擦りながら思い、それから掌を顔から遠ざける。
よく目がかゆくなったらこの指で擦り、母と父に怒られたものだ。特に白魔術師だった父からは口を酸っぱくして言われた。「目が傷つくからやめなさい」と。
生き延びる根性が身についたという点では母の教育が役に立った。
人と関わる上で必要な事はあらかた父に教わった。
両親に教えてもらった知識はそう多くないが、確かにラエルのことを生かしている。
「忘れないものね。親離れなんて、もっとあっさりと済むものだと思っていたけど」
ラエルは顔を濯ぎ、身体を清め、それから衣服に手を伸ばす。
一週間と少しの生活の中で、文化的な服装をするのにも慣れてきた。思い出してきたと言った方がいいだろうか。
元々は祖国でそれなりの生活をしていたラエルである。彼女が七年弱の間サバイバルに身を投じて尚、テーブルマナーや物事の理解に不便していないのは、戦争が始まる前にある程度の生活知識が叩き込まれていたというだけだった。
皿とナイフがあればそれを使い、無ければ鷲掴みで構わない。
それが黒髪の少女の生き延びる手段だっただけだ。
手にしたメモ帳には、指文字で記録した昨日の寝言が書き留められている。勿論、二つ目の占いの結果も。
「鉄格子って、不吉」
鉄格子という言葉から想起するのは、先日まで自分が閉じ込められていた、あの檻である。
記憶に新しいからか、触れた時の冷たさが昨日の事のようによみがえる。
幻触感が気持ち悪いので、もふもふの枕を抱きしめて暖をとった。
そう言えば、もし檻を探すことにしたとして。昨日と同じように花柄のスカートでは場違いかもしれない――思い至ったラエルは、考えるよりも行動してみる事にした。この場合の行動というのは、起床したらハーミット・ヘッジホッグに回線を使用して連絡を取るという事なのだが。
ラエルは背後を振り返る。
目覚まし鈴はまだ鳴っていないようで、設定した時間まであと三時間もある。部屋着のまま試しに部屋の外を覗いてみれば、案の定、廊下は黒々としていて、吹き抜けの向こうに星まで浮かんでいた。
「……」
顔を濯ぎ身体も流してきたというのに、何ということだ。あんまり眠れていないんじゃなかろうか。
「んー、でも。目は冴えちゃってるし」
少し悩んで、一度部屋に引っ込んだ黒髪の少女。
数分後、彼女は装いを新たにして廊下に出ていた。といっても、部屋着の上に支給物の一つであるフード付きロングローブを羽織っただけなのだが。
ローブの色はありふれた茶色。何処か鼠顔の顔の色に似ている。
散歩をする気になったのは、ラエルが夜の魔導王国を探検したことがなかったからだ。
彼女は人混みを避けるために朝一番に起床し、その後は必ず誰かと一緒に行動を取るようにしていた。
土地勘がないから、というのも理由の一つだが、魔族が人族に向ける敵対心の程度を測りたかったというのが本音である――そしてそれは、昨日の一件で、ある程度把握できた。
烈火隊の二人と別れた後、商業区で視線を集めたラエルにかけられた言葉はどれも優しいものだった。何が買いたいのか、何が必要なのか。そんな些細な言葉ばかりがかけられた。
それこそ、恐怖を感じないラエルでも違和感を覚えたぐらいに、だ。
彼らに嘘を吐いている様子は無かった。彼らは純粋にラエルを案じているだけだった。
ただ、それだけではなかったような気もする。奇妙な違和感の正体だけ、彼女は掴めずにいた。
とはいえ。ラエルは目的の物を購入することができたし、視線を避けるという選択をしなくてもいいだろう、ということを学習した。人混みは苦手なままだが、立ち入れないほどでもないと思うようにはなった。
そこで、散歩だ。
夜出歩くのは流石に失礼かと思って躊躇していたが、その遠慮をする気がなくなった。
あの針鼠や三つ編み騎士なら、ラエルが妙なことをした瞬間に取り押さえるぐらいの実力と人脈があると考えてのことだ。
それは一種の信用とも呼べる何かだったのだが、ラエルは自覚できていない。
「吹き抜けからだと、星がよく見えないのね」
ラエルの部屋に繋がる扉は、筒型の棟の内側にある。
廊下を挟んで吹き抜けのバルコニーがあるのだが、そこから見上げられるのは十一階から上の様子と、僅かな星空だけだ。
パノラマのように雲海と天球を眺めたければ、棟の外側に面した回廊へ赴く必要がある。
「まだ行ったことはないけれど……」
ラエルは独り言をしながら、周囲を確認する。
暗い棟内は、やはり誰の気配もしない。見回りの人や使い魔も、今はここを通る時間ではないらしい。シンとしているばかりで、どうにも寂しい。
黒髪を翻し、ラエルはバルコニーから回廊へ引き返した。
始めて通る廊下を抜けて、走り寄ることはせずとも、速足にはなる。
壁一面に嵌め込まれた硝子板の向こうには、一面に星が散っていた。雲海を黒で塗りつぶした、暗黒の上だからこそ映える白い星。
灰の月と青の月も目に入る。どちらも半分ほど、満ちていた。
砂漠で見慣れた夜空とはまた違う――どこか寂しい、空だった。
「……」
怖いことは分からない。恐ろしいことは感じられない。ただ、驚愕と不安は胸中にある。
こんなに壊れた自分にもそうか、まだ動く心は残っていたのだと、ラエルは思った。
ベッドに入ろうと思った。できるだけ早く、誰にも会わないままで部屋に戻りたい、と。
与えられた恵みを十分に活用して、三時間後に起床するための養分を蓄えなければならない。
ラエルは踵を返す。消費してしまった分、水分をとって寝ることにしようと思った。
暗い廊下を抜け、ルームキーをかざして部屋へ戻る。
頬をぐにぐにと指で遊びながら布団にもぐりこむ。
目を閉じた。息をたっぷり吸って、余韻を持たせるように吐いた。繰り返した。
……すぐに意識は落ちるだろう。
まどろみの中で少女はぼんやりと想う。
あの星空を金髪少年が見たとして、果たしてどのような感想を抱くのだろう。と――それは、誰の得にもならない、ただの興味だった。
期限まであと、五十八日。




