190枚目 「胸郭が孕むもの」
真っ白に塗り揃えられた漆喰の壁と石畳。色鮮やかな窓枠と手すり。
日が傾き始めた町を震わせるように、聖樹信仰教会の鐘が十六回鳴り響く。
この後は夜と昼の狭間とされ、朝まで鐘が鳴ることはない。
夜明けを告げ、労働の終わりを告げるのが時報の役割なのだ。
つまるところ、午後四時の鐘をもって蚤の市二日目はお開きとなる。店じまいする商人たちは石畳に広げた敷物を畳んで鞄に詰めると、各々とった宿へと引き上げていった。
真っ白な石畳に骨竜の影が落ちる。
周辺住民が出している屋台などは人が引き払うだけでそのままだった。
「屋台は片付けないのね?」
「夏の蚤の市は規模が大きいからな。元々三日間の予定だったし、初日に大きなトラブルがあったから延長もあり得る気がする」
「凄いわね。祭りが三日も続くなんて……私、子どもの頃に水祭りっていうものを見たことがあるけれど、半日で終わっていたわよ」
「水祭り?」
「ええ。私の故郷は水が貴重な地域なの。だから水に感謝を捧げる祭りをした――夕方までに片づけないと凍っちゃってたから、その辺りの事情もあったのかしらね」
「夕方までに片づけないと……凍る?」
「ええ。間欠泉とかも綺麗に凍るのよ」
「間欠泉が……凍る……」
キーナはラエルの言葉に眉根を寄せ、想像する。黒髪の少女に関する情報を整理する中で、この人は雪国育ちの人なんだろうな。というあらぬ誤解が生まれていた。
少女の顔立ちや体つきからは、極寒の地よりも乾燥した大地を走り回っているようなイメージしか湧いてこないが。
(そういえば白き者が住む第四大陸は雪国の筈だけど細身の人が多い印象があるような……なるほど、なるほどね?)
案外、見た目はあてにならないのかもしれない。
的外れな解釈を抱いたキーナは、また一つ自分なりに答えを見つけられたことに安堵し、納得する。その勘は外れているのだけども。
「なんにせよ、この後の清掃を手伝ったら今日の仕事はおしまいだ! あと一時間、気合で乗り越えるぞ……!!」
「え、えぇ……?」
やけにテンションが高いキーナに連れられてラエルは本邸の方角へ踵を返す。
妙に後ろ髪を引かれたような感覚がしたが、今は気にしないことにした。
西地区。
鐘を耳にした獣人が足をとめる。頭上にある陸橋の影が落ち、周囲は薄暗い。
ツノつきの青年ペンタスは商品を風呂敷に纏めて背負い、歩を進める。
(めぇ……昼間から路上で飲んだくれる男女の誘導とか、意地でも撤退を拒む商人さんの説得とか、町をあちこち走り回ってのごみ拾いとか。祭りは、後片づけが一番体力いるんだよね)
去年、一昨年と続けてキーナやネオンが疲れ果てる様子を目にして来た彼にしてみれば、蚤の市の終わりを告げる時報は町中の関係者たちに闘いの始まりを告げるものだと認識していた。
そして、友人がそのような状況下に居るというのに、自分はこうも粛々と店じまいをしてスペースを空け、祖母から譲り受けた引き出しの箱搭載の収納風呂敷を片手に帰路を行く途中である。少しだけ、罪悪感がある。
いや、彼が棲み家としているマーコール工房の入り口はとうに過ぎており、今は小さな看板が片付けられたパン屋――もとい彫刻工房をめざしているのだが。
(はぁ。気まずい)
しかし行かねばならない。何故なら彼が手にした商品の――見事に磨き上げられた小さな骨竜の彫り物――の製作者に、売り上げの報告をしなければならないからだ。
黒い角をカリカリと爪で弄る。時間稼ぎにはならなかった。
半眼のまま立てつけの悪い扉を叩く。
奥から人が立ちあがる気配がして、扉の鍵が外された。
耳に痛い音を立てて引かれた扉の向こうから、自身より背の高い黒毛の獣人が顔を出す。
彼は風呂敷を手にした青年をみるなり、「べぇ」と低い声で中に入るように促した。
一方、青年ペンタスはゆっくりと首を横に振る。
「めぇ。この後、キーナたちと教会の展示を見に行こうって約束してるんだ」
「……そうか。夕食はどうする」
「めぇ、そっちこそ。どっちの方がいい」
アイベックの胸に風呂敷を押し付けるペンタス。どうやら野暮だと思っているようだ。
息子にそのような目を向けられたのは初めてのことで、父親は髪をもしゃもしゃと掻きまわしてため息をつく。
「ワタシ一人では限界がある。夕食だけ頼めるだろうか」
「……めぇ。それじゃあ、十九時ごろに三人分作って持って来るよ」
ペンタスは何か言いたげに、けれど何も言わない。
父親の後方、パン屋の女性は床に伏せっている。
(止まった心臓は動かした。息を吹き返すまでそう時間はなかったはずだ)
じんわりと手に籠もる熱が、昨日のことを鮮明に想起させる。
骨を押す感触も、折れた軟骨の音も。
(パルモさんや魔導王国から来た白魔術使いの人が、大丈夫だって言ったんだ。だから大丈夫。……心配するな。ボク)
「めぇ、売上げについては風呂敷にメモを入れてあるから」
「べぇ……。助かる」
「こういう時はお互い様、めぇ」
いってきますも、ただいまを言う予定もない。
ペンタス・マーコールは踵を返す。
黒毛の獣人はその背を引き留めなかった。代わりに、静かに戸を閉める音がした。
日の傾きを見る。待ち合わせの時間には間に合いそうだと、ペンタスは思った。
――が。この日、彼が二人の待ち人と合流したのは十七時半を越えたあたりの話だった。
金属製の新しいネームプレートが張られた父親の習作に背を預け、子どもたちがわいわいと聖樹信仰教会を出入りするのを眺めながら、教会の壁にあしらわれた蔦彫刻を観察する。
時間を潰していると、息も絶え絶えに着替えを済ませた少年少女が、重い足を引き摺って石畳を歩いて来るのが見えた。
イシクブールの夜は夏でも冷える。キーナは詰襟に首元を庇うファーがついたカーディガンを、ラエルも普段使いしていた灰色のケープとは別の上着をつけていた。
……そういえば黒髪の彼女は、昼間にペンタスの出店スペースに来た時も灰色のケープを着ていなかった気がする。気分の問題なのだろうか。
ペンタスが恐る恐る質問してみると、ラエルはきょとんとしたあとで照れくさそうに笑う。
やっぱりこの娘、可愛いぞ。角つきの獣人は素直にそう思った。
「昨日の戦闘でね。最後に魔術陣が破られて機能しなくなったせいで、ケープに血がこびりついてしまって。今頃ポフの洗浄装置でぐるぐる回ってるはずよ。これで落ちなかったら物理的に血の色を抜く方法を考えなきゃならないけれど」
「……そ、そう……めぇ……」
どうやら気分で服を替えたという訳ではなかったらしい。
ひとりで勝手に残念な気持ちになっている自分に、心の底から嫌気が差すペンタスだった。
苦笑する獣人の傍にキーナが寄る。
「というかペタ、お前昨日から碌に寝てないだろ。今日こそ寝ろよ?」
「めぇ。蚤の市は明日もあるんだよ」
「そりゃあそうだけどさ。昨日ので十分気をすり減らしただろ」
「それは、キーナたちも変わらない。めぇ」
ペンタスは笑う。救命行動より戦闘行為の方が――後者は賭けるものが自身の命である以上――気を張るだろうと思ったゆえの言動だった。
シグニスは一命をとりとめているし、ペンタスはキーナとの約束を守れなかったことの方を後悔している。そして同時に、自分が針鼠と合流しないことが正解だったのだろうとすら考えていた。
恐らく自分の脚力では、雷の雨を避けられなかったに違いない、と。
「めぇ。ボクは、これといって役割を果たせたわけじゃないから」
顔を曇らせた上に俯いてしまった獣人を見て、キーナとラエルは顔を見合わせる。
やがて、示し合わせた様に二人が「ばしり」とペンタスの背中を叩いた。
じんわりと背中から広がる痛みに硬貨が歪むと、青灰の眼も歪んだ。
「ペタがそういうなら僕だって、今回の一件で別段役に立ってないぞ! なんていったって味方陣営に向けて催涙雨を降らせた挙句、護衛付きで教会まで行って、解術した後なんか同行と見物ぐらいしかしてないからな!」
「私だって、好き勝手に魔術を使った所為でまた血中毒になるところだったし、加減を知らないから相手に怪我させ過ぎちゃったんじゃないかと思うわ。最終的に蜥蜴の獣人を食い止めたのだって私だけの力じゃあないし……」
「め、え、え、そんな、そんなことないって!! 二人共凄かったじゃないか!?」
「……そう言うならさ、僕たちがペタのことをどう思ってるかも分かるよな?」
魔法具の腕輪を嵌めた両手が、獣人の手のひらを拾う。
「ペタが居てくれたからどうにかなったんだ!! 今回のことを誰かに聞かれたら、僕はそう言い続けるからな!! 手始めに教会で演説でもするか!? するぞ!?」
「ぇぇええええそれは辞めてよ勘弁してよキーナぁぁあぁああ!?」
「あっ。……行っちゃった」
ペンタスを引き摺りながら、キーナがずんずんと教会へ入っていく。
ラエルは骨竜の前で一人、満足したような表情で見送った。
(イシクブールに初めて来た日を思い出すわね)
ペンタスの祖母が危篤になったからとグリッタを頼り。
ラエルとハーミットがイシクブールに辿り付いた時には、町が真っ黒に塗られていて。
七日程度の付き合いとはいえ、ペンタスの祖母についても聞きたいことがある。亡くなったかの女性が何故町の住民から信頼を寄せられていたのか。ラエルはその理由も知らないままなのだ。
「……彼が回復したらすぐにでも本題に入らなきゃだし。この際、聞いてみようかしら」
ラエルはのんびりとした歩調で二人を追いかける。
聖樹信仰教会の入り口に立てられた小さな看板には、「障壁の衣」という文字が綴られていた。
厳かな雰囲気漂う教会内には、展示物を眺める為にやって来た観光客や町の住人がちらほらと見られる。
先に行った二人を探すラエルだが、その姿は展示物の前にはなかった。
「障壁の衣」という魔法具の為に作られた通路を外れて、右の方。
壁の方に正座をさせられている二人組が見受けられる。
「……はふぅ。拳骨一つで足りましたか、二人とも」
「足りました」
「めぇ」
「そうですか。罪を自覚したというなら構いません。次からは教会内を騒いで回ることなど無いようにお願いします。聖樹は寛容ですが、私は人間なので限度があります。忘れないで下さいね。……忘れないで下さいね?」
二度言った。
マンティラが微動だにしないのに拳がカタカタと震えているのが見える。
流石に助け舟を出そうとラエルが声をかければ、怒り心頭の彼女は笑顔と共に振り返った。
昨日教会で会った時でさえ、人あたりの良い表情をしていただけのことはある。怒る時はこんなに破顔するものなのだなと、ラエルは人ごとのように思った。
真顔で声をかけて来たラエルに対して彼女は――パルモは、吊り上げていた目をゆっくりと元の位置に下ろし、とろんとした元の顔つきになる。
「ふ、ふぇ。ラエルさんですか。もしかして、展示を目的に?」
「ええそうよ。……ハーミットは来られそうにないわ。体調がまだ優れないらしくて」
「……そうですか」
「?」
黒い瞳が一瞬、翳ったように見えたが。気のせいだろうか。
パルモはにこりと笑うと、その影を隠すように目を開く。
天井から吊り下げられたカンテラの一つ一つが彼女の瞳を輝かせる材料となった。
刺繍で模られた指先が揃えられ、おもむろに東の壁面へ向けられる。
黒髪の少女が顔をそちらに向けると、ステンドグラスから差し込む光が当たらない位置に、横に細長い額が飾られている。内側には純白のストールのようなものが飾られていた。
遠目で見る限り特殊な刺繍が施されているようには見えない。端にはそれなりの装飾がされているようだが、いずれも蔦柄というだけで魔術陣や術式刻印の類ではない。
しかし、そこに在るだけで圧を放っているようにも感じられる――なんとも不思議な感覚だ。
「あちらが『障壁の衣』になります。かつてサンドクォーツクに納められた聖法具の一つであり、勇者一行がこの大陸を横断した事実を示す歴史的にも重要な資料です」
「……勇者一行」
「はい。ご存じありませんでしたか」
「この町に勇者が来たことがあるとは、聞いているわ」
思えば、それ以上のことはよく知らない。魔導王国で漁った資料では、勇者に関する記述は最小限にとどめられていた。
ラエルは目を輝かせた。好奇心が勝った瞬間である。
パルモはその様子に笑みを返す。
「成程。それならば、少しばかり説明が必要ですね――障壁の衣がどのようなものなのか。このイシクブールを救った英雄たちが何に立ち向かい、何を成したのか」
黒曜に似た瞳は過去を慈しむようにして、ぱちりと瞬きをした。