188枚目 「そして蚤の市は続く」
――波打つ闇の中で、目を開ける。
口の端から泡を吹きながら、底の無い湖に身を投じたような。
手足の感覚は尽きて、重しをつけられたような脱力感と共に目を開ける。
冷たいとも温いとも感じられない圧迫感は呼吸を妨げることなく、ひたすらに周囲を黒に塗りつぶしている。
服装は、魔導王国で支給された長袖タートルネックに獣人様式の革ズボンだった。
水に浸されたそれらが重みを伴なって、流れにそってゆらりとなびく。
風に吹かれるよりは鈍く、焚き木が燃えるよりは優し気に。
開いた瞳は染みない。空気にさらされたかのようにクリアな視界だった。
(……)
冷たさを感じるのは、錯覚。身体の芯が熱いのも、錯覚。
金糸をなびかせ、長い睫毛を瞬かせ。呟く言葉が気泡に溶ける。
(……寒く、なかっただろうか。最期まで冷たい岩蔵の中で)
疑問が口を吐く。声にはならない。
(……熱く、なかっただろうか。最期まで炎に巻き付かれて)
あの日の記憶を繰り返す。
ずっとずっと、心に残っていた出来事のひとつ。
祈ろうが懺悔しようが誰も許しはしない。そも、許しを乞おうとは思わない。
思考を遮るように、水音がする。
ぼちゃんぼちゃんと、物が落ちて来る音がする。
熱い鉄の刃が、何処からともなく胸に突き刺さる。腕にも。足にも。腹にも。喉にも。
磨かれた刃が一本ずつ。丁寧に、虫を針で刺し整えるように、身体を貫く。
(――――…………)
考えるのを辞めるのは、慣れているつもりだった。
琥珀は濁る。水の底を背に、胸を貫く刃を認識する。
夢の終わり、刃物だと思っていたものが、実はそうではなかったのだと気づく。
白くて、白い。
それこそ凶刃よりも遥かに身近で見覚えがある――生物のパーツだった。
ここ数日の内に見慣れた木製の天板に、木製の梁。
鳥の声すら入らない嵌め込み式の磨り硝子から、やんわりと光が差し込む。
「……」
まず、自分が寝起きする部屋がほんのり明るいことに違和感があって、少年は身を起こす――瞬間、びきびきと神経が攣りそうになって悶えて枕に突っ伏した。
呻くことすらできなかった。
足の爪から枕に埋めた顔面まで、びりびりと痺れるように痛い。
しばらく無言が続き、数秒遅れで声が漏れる。
「がっ、ぐ、えっ、いぃっ……、痛ってて……え、ちょ、まさか」
力と気力を振り絞り、キャビネットの上に置いた目覚まし鈴を確認する。
毎朝鳴り響くはずのアラームは今日に限って解術されていたが、本人にその覚えはない。
問題はそこなのだ。慌てて首を振り、血の気が引く頭を上げる。
目に入った時計は――既に真昼を過ぎたことを伝えていた。
「……………………」
普段通りならここで叫び声をあげてでも脳を無理に覚醒させ、遅れた作業時間を取り戻すように一日を始めるのだが、今朝はそうもいかない。
全身を巡る毒にしても解毒のアテを用意することをすっかり忘れていたので、あの蚤の市で無理をしたからにはグロッキーになって当然で――そしてその事を知っているのは、あの時地下道で鉢合わせた面々と町長夫妻ぐらいのものだ。
どう考えても、ポーカーフェイスに頼りすぎた結果である。
這いずるようにベッドから落ち、立ち上がろうとして足に力を入れるも「かっくり」と前方に崩れ落ちる。金髪少年は、床に敷かれた絨毯に顔面から着地する羽目になった。
(嘘だろおい……痺れもそうだけど、腹が焼けてるのかってぐらい痛いぞ、これ、薬の副作用だったりしないよな……っぽいよなぁ……)
がっしりと棚の縁を指に引っ掛けて身体を支え、就寝用に着用していた薄手の手袋を噛んで引き抜く。
左手、右手。
順番に床に落ちたそれを足で拾って、シーツが乱れたままのベッドに放った。
震える腕を抑えつけ、普段使いの茶手袋を意地で両手に嵌め込んだ後、寝間着に手をかけようとして急に面倒臭くなる。
着替えは最重要ではない。鼠顔を被るのも後回しにしようと思った。
側頭部から響き渡る頭を割らんばかりの鐘。恐らく熱発している。
並行する思考力は通常時の半分ほどの知能と言っても過言じゃあないだろう。
……身体を動かさねばならない。リビングに行かねば飲み物を用意することもできない。
重たい鼠顔を被る余裕はないが――ともかく、水と食事だ。
ハーミットは身体を引き摺る心地で部屋を脱出すると、手すりを頼りにリビングまで辿り着く。そうして目に入った光景に、ギュッと眉根を寄せた。
「……」
幻覚だろうか。テーブルの前に見慣れぬ人が座っている。
魔力糸で所々を繋ぎとめた特徴的な白衣だ。黒髪だが、長髪ではないしうねり髪でもない。
重たげな丸眼鏡を鼻にのせ、肩の上でぱっつりと切り揃えた漆黒が揺れている。
視線の先には一冊の本。
題名を意訳すると、「患者を素直にさせるには?」だった。
ハーミットは寝ぼけ眼を擦ったり琥珀を細めたりと些細な抵抗を試みるも、見えている景色が変わる様子はない。同時に、現実逃避を諦めた。
「なんでここに居るんだ……カルツェ」
「ああ、おはようございますハーミットさん。今朝方、魔導王国の第二陣白魔術隊の一員として合流しました。シュガー・カルツェです」
「いや、カルツェなのは分かる。でも俺は、白魔術隊が来るとしか聞いてないぞ」
「……状況を報告してくださった魔法具技師がいまして。師匠も心配していましたし、僕が来たのは念のため、ですよ。きちっと許可を貰ってきました」
王様も、貴方にこんな片田舎でくたばってもらっては困るのでしょう――白魔導士カルツェは眼鏡の位置を直し、本を閉じた。
木組みのフローリング材に足を取られそうになっている少年をさりげなく介助すると、流れるような動きで椅子まで誘導する。流石は医療現場のプロ。身体を上手く動かせない人間を相手に手慣れたものだった。
カルツェは簡単な診察を済ませると、革手袋越しにハーミットの手を取る。
「筋肉が熱を持っているのと、震えが酷いですね。一応、ラエルから過剰摂取の話は聞いていますが……鳩尾が痛い? そうですか。念のため震抑薬は今日は飲まないで下さい。代わりというか気休め程度ですが、師匠に処方してもらった痛み止めと痺れ止めがあります。どちらがいいですか?」
「……痛み止め、で頼む」
「分かりました。食後に飲みましょうね」
問当の間に、水を汲んだ器が用意されていた。
カルツェは手際よく冷やし箱から材料を取り出すと、魔法具の調理台に火を点ける。
油を広げた小さな平鍋にカムメ肉を鍋へ細かく切って入れる。棚の上にあった芋を水で洗うと、器用にも歪な曲面に沿ってナイフを滑らせた。皮を剥いているのかと思いきや、スライスしているらしい。
薄くなった芋がまな板に積み上がっていく様子を、ハーミットは「ぼーっ」と眺めている。
カルツェは芋ひとつをスライスし終えると、肉を炒めるついでにそれを投入した。少しの塩と胡椒を足し、ひと回しした後に蓋をする。
少し悩むようなそぶりをして、冷やし箱の方へ戻る。取り出したのは、今朝にでも使ったのだろう球根菜の残りだった。
「ハーミットさんって、オニオニィ食べられる人でしたっけ」
「……あ、うん。毒もの以外は食べられるよ」
「そういう意図で聞いた訳じゃあないんですが」
こういう時ぐらいわがまま言ってもいいんじゃないですか? と、いいつつ球根菜オニオニィをまな板にのせるカルツェ。
サクサクと心地いい音がして、あっという間にみじん切りになっていく。
(こっちの玉ねぎは、目に染みないから特に嫌いじゃないんだよな)
そも、好き嫌いをしていられるような体調でもない。信頼できる医者の言うことは聞くに限る――そうして机に突っ伏す様にして、少年はうつらうつらとし始めた。
原型も無いほど刻まれたオニオニィが平鍋に投入される。そこに水を張って、蓋をする。
白魔導士は振り向くことなく、火の番をする。
「できあがったら起こしますよ」
「……助かる」
傷んだ身体を回復させるには、休息が必要だ。
ハーミット・ヘッジホッグは暫しの間、夢も見ぬほど深く眠ることになる。
「よかったのラエルさん。あの針鼠のところにいなくて」
灰髪の少年が言う。隣に立つ少女は紫目を丸くして、整えた前髪を指であそぶ。
「こと治療に関しては白魔導士の方が専門でしょうし。私があのままポフに残っていても役に立てないもの」
そう言ってストローを口に含む。
ラエルとキーナ。二人は昨日と同じく、スカルペッロ家の使用人服を身に着けていた。
しゅわしゅわとするラクスの果実水を口に含んでは、慣れない刺激に「びゃっ」と顔を歪めるラエル・イゥルポテー。キニーネ・スカルペッロ=ラールギロスは、その様子を目の端でとらえると、手にした同じ飲み物を口にする。
ともに、昨日受けた外傷らしきものは見当たらない。
ラエルは右腕の裂傷が。キーナは全身の擦過傷が。綺麗に消え失せている。
「……怪我とか、めっちゃ簡単に治るんだね。魔導王国は」
「……そうねぇ。医者が優秀だからかしら」
彼らに治療を施したのは朝一でポフに殴り込んできた魔導王国の白魔導士――ラエルの友人、カルツェである。
魔導王国から派遣された白魔術隊の大半は町の人の怪我や催涙雨が原因になっている症状の改善に努めているらしいのだが、彼は周囲にそれらの仕事を任せると真っ先に四天王の看病を開始した。
優先順位は間違えていませんよ、と。
普段はそう早口になることもない彼が、額に汗を浮かべてそう口にしたのが印象的で。まだ耳に残っている。
(ハーミット、私にはああ言っておきながら相当な無茶をしていたわけね)
複雑な心境ではあるが、針鼠が一人で片づけたあれやこれも今のラエルには到底こなせない仕事ばかりだった。仕事を分けて貰えるようになるには、まだまだ勉強が必要だろう。
口の中で弾ける果実水を堪能しながら思考する隣で、灰髪がゆらりと上を向く。
一つ結びに髪を束ねて伊達眼鏡を押し上げ、視線を追ってみればカムメの群れだった。
「正直、白魔術先進国を舐めてたよ。あんなに速く治療が終わるとは思わなかった」
「肉が抉れてる程度なら一瞬だものね。それなりに痛いけれど」
「……通りで」
効果促進と患者の精神力がつりあってなきゃ使えない代物なんだなぁ、あれ――と、脳内で分析した内容を全て口に出すキーナ。
白魔術の副作用は「痛み」である。
ラエルは肋骨まで折れていたので、そこそこ悶え苦しんだりした。
それに、身体的な疲労や外傷は残っていないが、精神的摩耗は魔術でどうにかなるものではない。蚤の市の初日は、それほどに濃い一日だったに違いないのだ。
「それよりも……私はこっちの方が予想外なんだけど」
ラエルは目を細め、目の前にずらりと佇んだ天幕と敷物を広げた叩き売りとを、流し見る。
「復旧が間に合ったからって、昨日の今日で祭りの続きをやろうとか思うものなの?」
――そう。今日は蚤の市の二日目だ。
初日にあんなことがあったにもかかわらずこの町は、祭りを再開したのである。
戦闘でぐちゃぐちゃになった天幕を尻に敷いて小物を売る者や、見慣れぬ魔法具を勧める商人がいる。少年少女の手元に果実水があることからも分かるように、飲食店も通常営業だ。むしろ初日に売り上げを伸ばせなかった分、食材を捌く為に安売りすらしている。
ラエルにしてみれば魔導王国の白魔術よりもイシクブールの商売根性の方が奇怪そのものだ。蚤の市の売り上げで生計を立てる者にとっては、祭りの中止自体が死活問題なのかもしれないが、それはそれとして肝が据わりすぎではないだろうか。
キーナはあっけらかんとして、胸元のループタイを弄る。
「それは、まあ。蚤の市はイシクブールにとっても年に数回の重要な観光資源だからさ……店を出してる人たちがどうしてもやりたいっていうなら、止めるわけにもいかないよね。商人さんって怒らせたら怖いし」
「そうは言っても一日中夜通しで舗装とかしていたはずでしょう。あの体力はどこから?」
「お金が稼げる機会が目の前に転がってるのに飛びつかないわけないだろ」
「……なるほど……?」
「んー、利益がないと誰かを養うこともできないっていうのが、僕らの考え方なのかもね?」
キーナが言うそれは、別に間違った生き方というわけでもないのだろう。非道でも悪辣でもない。むしろ、長い期間をできるだけ豊かに生きるための考え方だ。
そうした意味では、ただひたすらに生き残ることを信念の柱としているラエルよりは真っ当なのかもしれない。
黒髪の少女は理解できずとも――飲みこむ。
「……当たり前かもしれないけれど、観光客の入りはあまり良くないわね」
「まあね。昨日まで賊に入られてた町であることは確かだし、風評被害もある。盗賊に連れて来られた馬たちが近くの丘陵で暴れまわってたから、それも原因だろ」
城壁の外、草原の方には馬宿のピトロのような馬の扱いに慣れている人間が駆り出されている。カフス売りの商人がさめざめと「稼ぎ時がぁ!!」と嘆きながら朝焼けの中をやけくそに走って行ったのをラエルたちは目にしていた。
ラエルが昨日に引き続きキーナたちの仕事を手伝おうと思ったのは、そのがむしゃらな背中を目にしたからだったのだが――ともあれ、気になっていた飲み物は無事体験できたことだし、後は仕事をこなすのみだ。
観光客を含めたお客さんの誘導や道案内。保護者とはぐれた子どもがいれば関所や祭りの組合に報告。トラブルがあれば所々対応、である。
今のところ、値切り交渉で勃発した小競り合い以外にこれといったトラブルも無い。
ラエルはこの昼休憩を終えたら何処を巡回するのか、脳内でルート検索をかけている。
キーナは、そんな横顔を淡々と観察する。青灰の眼が伏せられた。
「ラエルさんは前に、あの四天王と利害の一致で一緒にいるって言ってたよね」
「えぇ」
「あれ、本気で言ってるようには見えなかったんだけど。どういうことなんだろうと思って」
灰髪の少年の言葉に少女はポカンとして。それから少し考える。
「あれは本心よ。ただ、私が思うように単純じゃあなさそう、というか」
「?」
キーナは言葉を上手く飲みこめなかったようで、ラクスの果実水を喉に流し込んでは首を傾げるのを繰り返した。ラエルは苦笑してストローを口に含む。
――恋情も親愛も友愛も無く、泥のように重い責任感が向けられている自覚はある。
人を助けようと必死に足掻き、苦悩する。それが何をきっかけに発生した感情か分からずとも。これまでも嫌というほど後悔してきただろうことだけは、隣に立っていて伝わってくる。
(死なせたくない、と。死なせてはいけない、は違うものだと思うけれど……彼にとっては同じ。多分、区別しようとしていないのかも。だから強欲にも全て拾おうとする)
ハーミットが後悔したくないというなら、それを手助けするまでのことだ。
……それでも。本音を言えば。
(利害の一致で一緒にいてくれるのなら、どんなによかったか)
ラエルとハーミットの関係は監視対象と監視役で、それ以上でもそれ以下でもない。
だからこそ、身を粉にされてまで守られるのはごめんだった。
利害の一致で傍に置かれるぐらいには――強くありたかった。
我ながらわがままも甚だしい。多くを望み過ぎていると理解しているつもりだ。
(空が青い。浮島や砂漠で見上げたそれよりも。目が焼けそうなくらい青い)
スカルペッロ家に特徴的な青い瞳を思い出す。
隣に立つ白き者とのダブルであるキーナのことを連想する。
そして、この場に居ないツノ付きの獣人のことを思い出す。
(……第三大陸に来て十二日。まだ、二週間も経っていないのよね)
二人は襟を正して立ち上がった。
「ペタさんのところ、売れてると良いわね」
「そうだね。差し入れでも持っていくか」
中央広場の骨竜のオブジェを越え、使用人服姿の二人は町を行く。
道の端の方で商品を広げていた角つきの青年が、笑顔と共に腕を振った。
ラエルは喫茶バシーノで購入した軽食の差し入れの内容を確認して、ふと思い出す。
「そういえば、貴方たちが勇者探しに賭けてたものって、結局何だったの?」
「……あー、ラエルさん。その説明、必要?」
「必要じゃあないけれど、興味はあるわ。是非説明して欲しいわね」
「――ペターっ!! 差し入れだぞーっ!!」
「あっ、誤魔化した!!」
果実水を手に駆けていく灰髪の背を追う。晶砂岩のループタイが、鈍い輝きを放った。