187枚目 「渥地の酸土」
魔法瓶を抱えるように座ったラエル・イゥルポテーは、イシクブールの町並みを眺めていた。
カンテラの橙が瞳に反射して、紫が黒に近くなる。
「怪我の調子はどう、ラエル」
「止血してもらったわ。これ以上酷くなることはないだろう、って」
ラエルは言って、包帯が巻きつけられた右腕を見せた。
灰色のケープは彼女を雷から守りこそすれ、氷刃からは守れなかった――もしかするとここに辿り着くまでの間、刃物を持った賊を相手にしたのかもしれない。所詮は布なので、魔法陣を切り裂かれてしまえば効力が落ちてしまうのだ。
ハーミットは、腕を上げようとしたラエルを制する。
「無理はしないで。傷に障るよ」
「そうは言ったってねぇ。何処かの四天王は薬を過剰摂取しているそうだし、いつ倒れ込むか分からない同僚を放って休むわけにもいかないでしょう?」
「あー、ばれてた? あはは。後でスフェーンに謝らないと」
「……妙に明るいのは薬のせい? それとも、全身の痛みが増してるとか?」
「あっははは。後者かなぁ」
「休むべきはどっちよ!! っぐ、いたたたた」
止血されたとはいえ、傷口が塞がったわけではない。
痛みに悶えたラエルにハーミットは苦笑して、隣に胡坐をかいた。
意識して肺に空気を取り込めば、少しばかり催涙雨の香ばしさが鼻を掠めた気がした。
……町長の采配もあって、町の住民が黄昏に紛れて動き出している。
壊れた看板や装飾物の撤去。割れた石畳を新しく取り換え、罅が入ってしまった家々の漆喰を塗り直す。落ちた石瓦を戻し、削れた色を塗り直す。
夜も近いというのに、あっという間に人の声が賑やかにするようになって。
耳を澄ませば、町のあちこちから木材を叩いたり石を削る音が響いて来る。
あれだけ静まり返っていたイシクブールの町が、ゆったりと着実に元の営みを取り戻していく。
「……凄いわね。この町」
「……うん。本当、そう思うよ」
燃えるように赤かった町並みが、マジックアワーを通り越した闇へ溶けていく。
纏わりつく夜をはらうように――消えない灯がともる。
六年と少し前の災害。あの日も似たような景色をこの場所から目にした。
イシクブールは変わっていないのだ。良くも、悪くも。
(……だからって。俺に、何ができたっていうんだよ。王様)
浮島の玉座に在る、見透かすようなコバルトの目を思い出す。
金髪少年は回線硝子を革手袋で握りしめて、辞める。
琥珀は無言のまま笑むと、ラエルの腕から魔法瓶を優しく取り上げた。
――ああ、失敗した失敗した!
悪者は悪者らしく、ここいらで退場といこうじゃないか!
そう頭の端に残った台詞は、オレのことを拾ったあるお人良しが今際の際に放った呪いだ。
沈む船に残って、自分たちは最後に飛び移るからと嘘を吐いて、船と船を引き離す為に梯子を砕いた。そんな愚か者たちの断末魔だった。
そんなことをしなくてもいい。お前たちにはそこまで期待していない。求めていない。
とまあ、人に誤解されやすい冷たい言葉が口癖で、喧嘩を売られては返り討ちにするような。乾いていて、実に単純で、理解できない信条を胸に秘めた奴等だった。
腕に抱いた女児が、火に焼けた喉で必死に声を出そうとしている。
メラメラと船が油に包まれ燃え尽きていく。
揺らめく赤色は、未だ目に染みついて消えない。
思えばあの頃から酸土の人間関係は荒れ気味だった。
初代の首領がまとめ上手だっただけで、二代目から上はころころ入れ替わり立ち代わり、団員も抜けたり入ったりが激しくなった。
来る者拒まず去る者追わずだったはずが、いつからか逃げ出す者を優先して傷つけるようになった。
豊かな町でささやかな盗みを働くだけだったものが、困窮する村々の蓄えを丸ごと奪い去る暴徒に様変わりした。
酸土の名は捨てられた。
泥に塗れた盗賊団、渥地の酸土が誕生した瞬間だった。
……そうした日々すらも日常になって、第二大陸で野営した際の話だ。
曰く、赤い土は栄養を溜められないから花を植えるのに向いていないのだ、と。
とある端役の構成員から、そんな独白を受けた。
オレはその意見に疑問を呈した。赤土の大地からやって来た身としては、そこに花が咲かないと判じる彼女の考えが信用ならなかったからである。
彼女はオレの言葉に笑みを返すと、そうじゃないのだと、言う。
『黒い土で生き慣れた花は、赤い土では栄養不足になっちゃうことがあるの。赤い土は栄養を溜めておくことが苦手でね。黒土以上に、適度な肥料を混ぜてあげないと土が枯れちゃうの。なんていうのか、こう――必要なものを抱きとめておくだけの、力が足りなくて』
今思えば、彼女はあの時「酸土」の話をしていたのだろう。
この団体には必要とされる栄養が常に足りていない。満ち足りても、すぐに枯渇してしまう。物足りなさは加速する一方で、そんな在り方ではいつか大地に罅を入れることになるぞ、と。
栄養を得るのも大事だが、栄養を溜めておける余裕が必要なのだ、と。
オレに警告をした。予言のような、薄気味悪い進言だった。
案の定彼女は次の日の朝、頼んでもいない抜け者狩りに巻き込まれて死亡した。
ある構成員が笑顔で彼女の髪を鷲掴み、その首を献上して来た時。オレは思った。
これはもう、駄目だと。
取り返しがつかない。取り返せるとも思わない。この、竜の尾に生ぬるく締められるような地獄を破壊したい――湧き出た衝動と異様な飢餓感から逃げるように、殺めた。
首を抱いても、弔っても、涙すら流れなかった。
引き返すには手遅れで、理解できなくて、だから理解者であるように振る舞った。
ただただひたすらに道化であろうとしつづけた。
笑え。笑え。笑えない状況でただ笑うだけでいい。
傍目から分かりやすい悪人であり続けろ。
そうしたなら、オレはこの場所で爪牙を磨げる。
内側から食い破るその一瞬を、待ち続けることができる、と。
……そうやって、体よく四人目の首領を行方不明にできたところで、オレの役目は終わりの筈だったんだが……ままならねぇよなぁ……スキンコモル。まさかお前が、首領に担ぎ上げられちまうとは思わなかったんだ。
だが、そのお蔭でオレは色々と諦めがついた。
生き汚く足掻いてみたものの。結局のところはオレも、赤い土に植わった草だったのさ。
栄養が足らねぇなら。競争相手を減らすだけのこと。
愛でてぇ花が枯れねぇよう、周りの雑草を踏み荒らすだけ。なんだ。
(……それがまぁどうして、散々な結果になってくれたんだが)
痛みでぼやけた視界に、ピントを調節する気力すら持てず脱力する身体。
手足の感覚はある。出血も止まっている。だが、腹に空いた穴のせいで何処にも力を入れられない。
(……いや、違うか。起き上がる必要がねぇって、身体の方が察しているんだろう。この瓶の中にいる間だけは誰にも干渉されない。誰に寝首をかかれる恐れもない)
自由がない代わりに酷く安全で。少なくとも死に場所ではない。
もしかすると、僅かな時間ではあるが意識を失っていたかもしれないとすら思う。
瓶の中を暗くするように、周囲を赤い手袋が覆っている以外には――快適だった。
「目が覚めたみたいだな、サンゲイザー」
子どものような、大人のような声がして。
黄昏時に琥珀を濁らせた少年と、殺せなかった紫目の少女の姿が目に映る。
お互いに、満身創痍だといっても過言ではないだろう。
それでもこの役人たちは、真っ直ぐに賊の目を射ぬいて来るのだった。
「気分はどうだ」
『……しゅるるる。最悪に決まってんだろ』
「情動的なことを言っているんじゃあない。悪寒とか目眩とか、痛い以外に異常があるかって聞いてるんだよ」
オレは、この期に及んでそのようなことをいう少年にぞっとする。
捕縛した自分の体調を、本気で身を案じているのだということは嫌でも分かった。
『……ねぇよ。すこぶる痛てぇが感覚はある』
「そうか。ならいい」
短い、怒りを理性で押し潰すような返答。
次いで出る言葉は、予想通りのものである。
「サンゲイザー。お前はどうしてこの町を巻き込もうと思った。東市場を襲った時点で何故辞めなかった。何故俺に捕まった時点で賊の野営地を吐かなかった。そもそもの目的は、ラエルを殺すことじゃなかったんだろう?」
隣で聞いていた少女が口を半開きにした。どうやら最後まで気づかなかったようだ。
サンゲイザーにしてみれば「紫目の娘」が死のうが生きようがどうでもよかったので、対峙したあの時に向けた殺気は純粋なものだったのだが。それを口にするのはナンセンスだろう。
『あぁ、そうだなぁ……それで? 俺がその質問に答える義理はあるか?』
「ある。被害が出ているからな。あと、俺が個人的にお前を許せそうにない」
『くくくくっ。捕縛した悪人を相手に今更何をほざいてんだか。なんだ、俺があの使用人と賊の開放を条件に取引していたと気づいた時点で、オレの動機は明確だっただろ? 捕縛された賊の開放。新たな拠点の確保。他に何があるっていうんだ』
黄金の瞳がきゅ、と細められる。
琥珀はひるまない。
「……違う、順番が逆だ。お前は捕まった後に取引したんじゃあない。お前の方からネオンさんに接触して取引したんだろ。しかも東市場を襲撃すること自体を事前に伝えていた。サンドクォーツクからイシクブールに連絡が飛ぶように仕組んで、俺たちが通りかかるタイミングを見計らった。違うか?」
『しゅるるる』
口癖で誤魔化す様に答えれば、少年は眉間に皺を刻んだ。
「……白き者が晶化に対して持っている恐怖は並々ならぬものがある。お前は町や家族を巻き込みたくないというネオンさんの思いを利用すると決めて」
少年が赤手袋の指を折る。
「この土地で息絶えた盗賊団の首領の、現場の状況証拠を掲げてラエルへ悪意が向くように焚きつけ、部下から冷静さを奪った」
少年が赤手袋の指を折る。
「そうやってお前は、自陣営を崩壊させる為に手札を揃えた――違う、か?」
ぎゅ、と。革が軋む音が耳に届く。
オレは呆れたようにため息をついて、身体を起こした。本来なら身体を動かすのはおろか呼吸すら億劫なのだが仕方がない。瓶底に片膝を折り、硝子に背をもたれて楽にする。
『……人間は諦めの悪い生き物だろ。「漠然と膨れ上がる不安を撤去するきっかけが欲しかった」つった方が、少しは分かりやすいか? しゅるるる』
死に瀕する恐怖も、大事なものを手放す恐怖も、信条を捨てる恐怖も、誰かを裏切る恐怖だってそうだ。
固定された集団生活の中に留まれば、人の想いは放っておく程に加速する。
恐怖が伝播するように、不安もまた伝播する。
僅かなずれが歪みとなり、崩壊につながるように。
同調力は生き様すら――生き急ぐ在り方すら――伝染させていく。
『誰かさん曰くな。赤土にゃあ、栄養を溜める器が足りなかったんだとよ』
故に。全てを欺き、全てを裏切った。
全てを振り落とす勢いで、全てを掻きまわして台無しにして。
だから。全てはついでなのだ。
死にかけの祖母を置いて家出をした青年に目をかけたわけじゃない。
死にたがりの白き者の慟哭に同情したわけじゃない。
行方知れずになっていた少女の今が気になったわけじゃない。
全部、全部。
渥地の酸土を終わらせるために利用したに過ぎない。
魔導王国の役人は濁った琥珀をこちらに向け、額を抑える。
ノハナの茶葉を生で齧ったような、顔だった。
「……認めたくはないけどさ。今回はお前の一人勝ちみたいなものだよ、サンゲイザー」
『くはっ――そりゃあ光栄だ!! あのヘッジホッグにそう言わせたとなりゃ、オレもそこそこによくやれたってぇことだろうしなぁ』
ああそうだ。だから最後まで気を抜くことはしてやらない。
オレは今、気分が良いんだ。
全てを拾わんとする歪な「強欲」の在り方をも、拾ってやろう。
『それだけ事情を見抜いてんなら減刑なり情状酌量なり考えてくれてんだろ?』
無責任な言動に、彼らは思い思いの言葉を胸に抱いただろう。
呆れた顔をした少女を差し置いて、少年の額には青筋が浮いた。
かつて憧れた賊狩りの当事者が、壊れたような笑みを剥く。
「ははははは!! 何を馬鹿なことを。事情がどうあれ罪の重さは変わらない。観念しろ」
ハーミット・ヘッジホッグは、オレに引き攣るような渾身の笑顔を向けた。
(ああそうだ。それでいい)
その顔を目に収められたという事実があるだけで、溜飲が下がるというものだ。
蜥蜴の獣人は清々しい思いで舌打ちを飛ばし――裂けた口を「にや」と歪めた。
サンゲイザーを引き出しの箱搭載バッグに収納したハーミットは、「やっと仕事がひとつ片づいた」とぼやきながら背伸びをした。
黒髪の少女も立ち上がって、眼下の作業を手伝うか休息を取るか、自問自答を開始したようである。
ネオン煌めく復旧作業を眺めていた二人だが、しばらくしてハーミットが顔を上げた。
「そういえば、例の劇薬は役に立ったかな。もし残っているなら回収するよ」
彼が言う劇薬というのは、地下道で黒髪の少女を送り出す際に手渡した小瓶二つのことである。あの薬には「触れた対象の保有魔力子を一時的に強制霧散させる」という、一種の魔法封じの力が込められていた。
ラエルは短い回想の後に首を振る。使ってしまって、ないものはない。
ハーミットは、その反応に首を傾げた。
「……片方はネオンさんの晶化を一時的に止めるのに使ったとして、もうひと瓶は何に使ったというのかな?」
「 (まさか原液を飲みこんだとはいえず顔を逸らす)」
「 (まさか自分に使ったとか言わんよなと思いながら凝視する)」
「……」
「……」
ぐにぃ!!
「ふぇふぁふぃんひふふほほははいはぁほへふぇ!! (怪我人にすることじゃないわよねこれぇ!?)」
「あっ。なんだぁやけに火照ってると思ったら口の中まで切ってるんじゃないか。手袋越しで良ければ指突っ込んで直接ぐりぐりしてやろうか? ん?」
「つ、ぶは!! 辞めなさい!! というか人の傷口を嬉々として抉らないでくれる!?」
「嬉々としたつもりはこれっぽっちも無いんだけどなぁ? そもそも劇薬って言ったよね俺!? しかも見間違いじゃなきゃ硝子の破片が見えたんだけど――こら口を噤まない!! 何なら硝子片とってあげるからさ。ついでに吐き出すのも手伝ってあげるから!!」
「だ、大丈夫よ、多少飲みこんじゃったけど痺れとかないし」
「あれは塗付用で防腐剤の固まりなんだよっ!! 普通に身体に悪いんだって!!」
「えぇ!? は、吐く必要があるなら自分でやるわよ!!」
でも口の中に硝子が残っているのは確かだから次は側を飴にでもしたらいいんじゃないかとか、小瓶を口の中で砕く魔術士がイレギュラーだしそもそも服用を前提としてほしくないだとか――。
少年少女はあれこれ言い合いながら、事態の収拾がついたことを実感する。
イシクブールに夜がやって来る。色とりどりのカンテラと街灯が灰色の町並みを照らす。
日が落ちてなお活気づく石工たちを、二つの月が見下ろしていた。