185枚目 「氷を笑う」
暗殺者は、名乗りを上げることも対象者に存在を悟らせることもない。
しかし時には音もなく味方に入り込み、機をてらってことに及ぶものだ。
味方とも敵とも断言しないものの、殺意を悟らせない立ち回り。
鱗が擦れる音すら、瞬きの音すら零さず――その点で、彼の演技は完璧だった。が。
金属と氷が擦れる音。手袋の銀の手甲が槍を受け流す。
音もなく繰り出された刺突をすんでのところで床に落とし、黒髪の少女が振り向く。
獲物を前にした獣のような荒々しさすら感じられる眼光を前に、蜥蜴の獣人は「にぃ」と口を裂くように笑みを返した。
ラエルは間髪入れず、手を構える。
「――『霹靂』!!」
至近距離の雷撃。一刻前ネオンが放ったそれとは違い、安定しない雷が空気を切り裂き放たれる。蜥蜴の獣人は距離を取った。極めて身軽に避け切ると、光帯から零れた一撃を長い尾を振って叩き落す。邸宅の屋上に、焦げ臭い匂いが漂った。
ラエルは駆け寄ろうとして声を上げたキーナを片腕で制し、パルモに任せる。
どうやら羽交い絞めにされているようだが。生憎、視線を寄越す余裕もなかった。
ラエルは背後に居るネオンに「隙を見て逃げて頂戴」と端的に告げる。膝裏の腱を切っているので歩けはしないだろうが、這ってでも距離を取るよう促した。
「しゅるる。くくっ。くくくくくっ」
蜥蜴の獣人はそう喉を鳴らすと、長い舌をべろりと空気に晒す。黄金の双眸が音もなく少女の眼光を捉えた。
「いつからだ?」
「最初からよ」
「ははははは!! ……そりゃあねぇよ、俺が保証してやる」
尾がゆらりと波打つ。サンゲイザーは槍の構えを解くと片足に体重を乗せる。
それだけで、重心が読めなくなる。
ばらばらと威嚇の為に動く鱗が一枚一枚、剃刀のように磨かれている。槍に触れても怪我をする、鱗を掠めても怪我をする。その巨体で動きは素早く一撃は重いと来た――最悪だ。
「あぁ、アレか。地下で合流した時だな。あの四天王の野郎となんかやり取りしてた。その時だろう、オレへの警戒を強めたのは?」
「……」
「くくっ、図星かよ。はー、してやられたぜ。単独行動したわりにゃあ上手くいってたと思うんだがなぁ? 何なんだあの鼠顔もどき。人間不信にもほどがあるだろうがよぉ」
「……っ」
ラエルは唇を噛む。
(――違う。あの人は、最初から最後まで信じる道を捨てはしなかった)
薬瓶を手渡されたあの時、手帳に殴り書かれていた指示は一言だけだった。
だからラエルは確認したのだ。それは戦闘行為に値するのか、と。
ハーミット・ヘッジホッグは、その答えを濁しながら頷いた。
つまり、サンゲイザーが手のひらを返した場合の対処は「裏切ってからで構わない」としたのである。それまでの間どれだけ憂慮されていたのか、彼自身が理解できていないはずもない。
(今思い返せば、それすらも計算の内だったのだろうけど)
「敵の敵は敵、ってなぁ。まあ、第三勢力ならぬ第四勢力がオレだったというやつだ。予想してくれていたにせよ、少しぐらいは驚いてくれたか?」
「……ええ、まさかネオンさんを無力化した直後に襲い掛かって来るとは思わなかったわよ。もう少し油断させてから不意打ちにくるものかと」
「しゅるるるる!! んなまどろっこしいことするかよ。人間、命のやり取りをしている時が一番無防備になるんだぜ。味方に気をはらってる余裕なんかねぇからなぁ」
殺るなら、強敵を打倒した瞬間だろ?
きら。と、目の端に赤い反射光。
「!!」
思わず右腕で顔を庇えば、畳んだ二の腕と下腕へと氷の刃が突き刺さる。
あと少し気付くのが遅れていれば首に刺さっていたかもしれない。
鮮血が零れ、焼けるような痛みが脳を焦がす。
(地下では私の『流水の斧槍』で水を集めたけれど……なんだ、自分でもできるんじゃない。厄介ね)
「氷魔法」という魔法系統は、厳密には存在していない。
火に至れなかった魔術師が辿り着く妥協点。氷が火の下位互換とされるためだ。
水を冷やし固めるということは素材の流動性を無に帰し汎用性を低下させることとイコールである。「土魔法でできることを何故水を使って行うのだ」と、多くの魔術師は氷魔術使いを侮ってきた。そういう歴史もあるが、氷自体は非常に便利なものだ。
土魔術が「土」を素体にするのに対して、氷魔術は「水」を素体とする。
土が手に入らない現場が存在する一方で水はどこにでもありふれており、空気中からはほぼ無条件に手に入れることができるものだ。
手元に素体が枯渇していても、湿気さえあれば固形が生成できるという脅威。
例え保有魔力が底辺とされる獣人であっても、水を操れるほど優れた魔術師であれば、無から有を生み出す如く氷塊を生み出すことができる――彼のように。
(獣人に産まれなければ、名を遺す魔術師になっていたかもしれない。今だって、私の魔力を押し返す氷刃が、肉に食い込むのを辞めない)
ぐり、と。肉が押し切られる感覚。すんでのところで進行が止まっているのは黒髪の少女が踏ん張ることで勢いを殺しているからだ。それだって長くはもたないだろう。
鮮血に染まっていく使用人服のことを考えて、「借りものなのに」と考える余裕があることだけが救いだろうか。
サンゲイザーはというと、すんでのところで防がれたと残念そうに肩をすくめるが、余裕たっぷりである。対してラエルは、彼の保有魔力を量れず、無闇に魔術を発動することができない。
ラエルの魔力残量がサンゲイザーの魔力値を下回った瞬間、勝負は終わる。
「……全身を氷菓子にされるのは避けたいわね。命乞いとか聞く気、あるかしら」
真赤な夕日に反射する紫眼。サンゲイザーはそれを見てケタケタと笑う。
逆光で、鱗顔の半分に暗い影が落ちた。
「ねぇよ」
「そうね。愚問だった」
ラエルは言って、魔力を練り始める。
どちらにせよ、黒髪の少女はこの場で彼を止めなければならないのだ。
残魔力に余裕があるとはいえ、彼女が操れる魔術の中で最大火力である『霹靂』を撃ち込むことさえできれば、ラエルとサンゲイザーの相打ちという形でこの場のかたがつくだろう。
それができなければ。
走れないネオンや結界を張り続けているレーテ、足の悪い町長や魔術書の力を借りなければ魔術を使えないキーナ、戦闘能力のないパルモやアステル――この場に居合わせた全員が殺される確率が格段に跳ね上がる。
(この場にいる人だけじゃあない、町に拡散している協力者だって消耗してるはず。そんな時に体力が有り余ってるこいつが槍を向けたら。ひとたまりもない)
そうなれば賊を捕縛した苦労も水泡に帰す。魔法瓶に詰められた賊たちだって、魔法具のポーチを誰かから奪ってしまえば幾らでも連れ出せるのだ。
(……この狙いが狂うだけで)
この手元の狙いが、寸分狂っただけで。
身体に毒を回してでも町を駆けずったハーミットの努力だって、無に帰す。
「くくっ、どうした。自分の一手で全てが台無しになる予感でもしてきたか?」
「……」
ラエルは考える。そも、相打ち覚悟で『霹靂』を放ったところで先程のように躱されては意味が無い。
背後にはネオンがいるが彼の魔力はあまり残っていないだろう。町長やその旦那に協力を仰ごうにも距離があるし、キーナたちには任せられない。
勿論、教会に残して来たグリッタや西地区へ行ってしまったウィズリィの協力も見込めない――どうにかやるしか、ない。
ラエルは顔についた血を強引に拭き伸ばすと、左手を蜥蜴の獣人に差し向ける。
サンゲイザーはぎらりと笑みを剥いて、その巨体を屈めて槍を抱く。
再生成された氷槍が少女との間合いを潰す。
黒髪の少女は氷刃を右腕で受け止めたまま、身体の右方に突き出された槍を躱し、死角に入り込んだ槍が薙がれる前に、言葉を紡ぐ。
「『点火』!!」
「!」
案の定、蜥蜴の獣人は油断した。先程受けた『炎弾』ならともかく、下級魔術の『点火』である。
蝋燭やランタンに火を灯すようなか細い火魔術など脅威ではない――と。一瞬だけ。
ラエルの指先に練り上げられた魔力を前にその油断は棄却されたが、彼が飛び退くより早く生成された炎の帯は容赦なく重厚な鱗一枚を突き破った。
「なっ――!! この、アマがぁ!!」
左方向に突き出していた槍を右腕に持ち替え、左に薙ぎ払う。
腹に穴が開いたとは思えない腕力で振るわれた氷槍は砕け散るも、槍の打撃で足が浮いた少女の左脇腹には、間髪入れず蜥蜴の尾が叩き込まれた。
「あ、ぐ……!!」
嫌な音が身体の中から鳴った。痛い。
内臓を振り回されるような感覚と共に宙を舞い、黒髪を振り乱した少女はその場に叩きつけられる。立ち上がろうにも、右腕を庇って無理な着地をしたので思うように体が起こせない。
口の中から鮮血が零れた。
鉄の香りが気管に入って噎せる。
サンゲイザーは、穴が開いた脇腹をそのままにこちらへ距離を詰める。スカルペッロ家の人間には、最初から興味がないとでもいうようだった。
「しゅるるる……やってくれたなぁ。つぅか、今のが『点火』だと。ふざけてるだろ魔導王国!!」
悪態を吐きながらも、勝負はついたと判断したようだ。彼は適当な方向へ槍を投擲すると、あっという間にラエルの目の前までやってきて腕を伸ばす。
灰色の胸ぐらを掴み、ひょいと顔の高さまで持ち上げた。
足が宙に浮く。喉ではなく動脈が締まる。
「魔導王国は関係ない、わよ。私が、不器用なだけ……いっ!!」
少女の腕に刺さった氷刃を獣人が撫ぜれば、ラエルは痛みに顔を歪める。その様子がどうにも加虐心をくすぐるらしい。
「……あは、は」
けほっ。
ラエルは咳き込みながら獣人の腕を掴む。水色の指先は血に濡れて酷い色になっているが――痛みに笑う趣味はないが、にたりと笑う。
「『霹靂』」
「――あ!?」
ばちん!! と、全身を瞬く間に通り過ぎる雷撃。鱗の内側から煙が燻り、獣人の足元がおぼつかなく、ふらつく。が、倒れることはなかった。
サンゲイザーはその程度で意識を手放せるほど弱い身体をしていなかった。
全身を走るひりつくような火傷に似た痛みと、今の一撃で目の前の少女の体内魔力が自分のそれを下回った事実を同時に認識する。
右腕に刺さったままになっている氷を媒体に、サンゲイザーの魔力を彼女に流し込めばそれこそ氷菓子に仕上がることだろう――蜥蜴の獣人は極めて冷静に、それを実行しようとして、気がつく。
(魔力の匂いが、しないだと)
自分の魔力も、少女の魔力も、感じられない。
その事実に一瞬だけ思考がフリーズする。少女の肩から氷刃が零れて砕けた。
ラエルが口の中から何かを吐き出す。割れた小瓶が足元に転がる。
金髪少年が渡した薬の二瓶目。
ほんの数秒だけ、魔力の流れを妨害する力がある劇薬。
彼女が先刻、口元を拭った際に含んでいたものである。
見開かれた黄金の視線と、紫の視線が交差する。
いや、交差したと思ったのはサンゲイザーの方で、ラエルは蜥蜴の顔を見ていなかった。
少女の瞳に映るのは、無音で羽ばたく蝙蝠の姿。
小瓶を口に含む直前、蜥蜴の向こう側の欄干に足を留めていた伝書蝙蝠だった。
耳鳴りの音が徐々に晴れるように、じわりじわりと手繰り直す魔力の気配に安堵する獣人だが――この瞬間魔術を使用できないという事実を認識するまでにはラグがある。
これだけ確かな隙があれば、十分だった。
獣人の背中に、左足の裏から右肩にかけて振り上げるように深い斬撃が刻まれる。
鱗の固さをものともせず、身の丈程もある両手剣を返した腕で少年は刺突を繰り出した。
ぶつりと、肉が千切れる生々しい音と共に蜥蜴の身体に大きな穴が開く。
蜥蜴の身体を貫いた鉛色の丸い刃先が、ラエルの身体に触れる寸前で止まっている。
サンゲイザーは自らの身体に生えた刃を前に、ぱか、と口を半開きにした。
痛みや死の恐怖より先に、憤りが勝つ。
「ぅ、ぐ、がぁああああああああ!! て、めぇ、てめえ、は――」
「ああ、そうだよ。そっちこそ。よくも裏切ってくれたな」
賊の背後をとった少年はくすりともせず、怒りから端麗な顔立ちを歪める。
慈悲なき魔法瓶が傷口に叩き付けられるまで、瞬きする間もなかった。