182枚目 「振戦と布石」
イシクブール地下道。
一行はスカルペッロ家へ突入する準備を着々と進めていた。
駆動に乗ったアステルとその隣に詰めて腰を下ろしたパルモ。二人の後ろにはサンゲイザーが控えている。どうやら表でやったように、力がある彼が車椅子を押す作戦らしい。
最終確認の為に蜥蜴の獣人と蝙蝠が話しているのを確認した金髪少年は黒髪の少女を手招きする。水色の手に赤色の手が重なった。
作戦開始直前になって引き留められる形になったラエルは疑問の視線を投げ返す。
手渡された物は親指程の大きさをした小瓶だった。特に装飾の無い硝子の内側には粘性のある赤黒っぽい液体が入っていて、数日前に親方さまから送られた解毒薬とは似ても似つかないおどろおどろしさがある。
「念のため、これを君に渡しておくよ」
「薬瓶?」
「うん。薬は薬でも、劇薬だけどね」
劇薬と聞いて、瓶を握る手に力が入る。ハーミットは慌ててそれを制した。
聞けば、魔力圧をかけることで瓶が割れるようになっているらしい。
ハーミットはにこりと笑むと、手帳の走り書きをラエルに見せる。
「使い方はこっちだよ。製法と用途、共に国家機密だからここで暗記してね」
「…………私、人に対して手加減するのは得意じゃないのだけど。これ、面白くない話よね」
「ああ、退屈であることは確かだ。心配せずとも、全力で挑んで無力化が精々だと思うよ。君の方こそ最後まで気を抜かないように。死ぬ気になってでも生きて戻ること。いいね」
相変わらず一言多い少年は、少女が読み終わったことを確認して手帳を閉じる。
ハーミットが受けた毒の効果は震えだけではない。多分、痛みや痺れもあるだろうに。彼はお得意のポーカーフェイスで綺麗に隠してしまっていた。
ラエルは暗記した薬瓶の使用方法を頭の中で繰り返す。
何度繰り返しても、最後の方が引っかかって仕方がない。
「あは、これから格上の相手に挑む後輩にするには酷いエールね。それとも、四天王としての命令かしら?」
「そうだよ。俺は、君が死ぬことを許さない」
「酷い人」
「そりゃあ。これでも俺、『強欲』だからさ」
頼んだよ、ラエル。
ケープ越しに肩をポンポンと叩いて送り出す。
これで残るはあと一人、だった。
彼に「解術」を施し、周囲に作戦を説明し――それから三十秒。
解術前にハーミットが提示した猶予時間をたっぷり使いきった灰髪の少年は、青灰の瞳を見開いたまま壁に額をつけて蹲っている。
許容できる時間はもう残っていない。今すぐにでも走り出して欲しいというのが本音だが……意識を取り戻してすぐ、えづきを繰り返すその様子に今まで何も言えずにいた。
キーナに付与されていた魔術は解術され、既に思考を盗聴される心配はないだろう。立場を考えれば、この場に引き留めることが正解だと分かっているつもりだった。
それでもハーミットは無魔法を使った身として、彼に問う。
「さて、どうするキーナ君。きつかったら俺とここに残ってもいいんだぞ」
「……………………」
灰髪の少年は唇を噛み。ほんの数秒だけ瞼を閉じる。
冷たい汗と血が全身を駆け巡る不快さに顔を歪めそうになる。
フラッシュバックする記憶を振り払おうとして、辞める。
キーナは一度、石壁から額を浮かせて軽く頭突きをした。白い肌に傷が入る。
流れた血を拭って振り向いたその顔には、戸惑いはあれど迷いは残っていなかった。
「母さまだけ行かせて僕が行かないっていうのは、違うと思う」
「俺は、解術しただけで君が何を見たのかは分からない。君が知った事実が何なのか知る由もない……あんまり思いつめないでほしいって言うのは、あるけども」
「ああ、その点は問題ないよハーミットさん。元々問い詰める予定だった所に『一発殴りたい』っていう項目が追加されただけだからさ」
キーナは何処からともなく取り出した髪紐で、降ろしていた灰髪を一つまとめにする。
ハーミットは目を細め、そのまま笑う。キーナが顔をひきつらせたのが見えた。
「ますます君が何を見たのかが謎だな。俺にだけ教えてくれたりしない?」
「はっ。ぜっっったいに、やだね!!」
んべっ!!
渾身の反抗を表明したキーナはラエルたちの方へと駆けてゆく。
金髪少年はグローブにノワールを受け取り、闇に溶けゆく背姿に手を振った。
『で。貴方はどうするです』
「んー、俺?」
一人残った金髪少年は全員の姿が突き当りを曲がったことを確認すると、ずるずる背中を壁に引き摺りながら座り込んだ。グローブから地面に降りたノワールは「じとり」と視線を向ける。
ハーミットは蝙蝠の眉間に寄った皺を指で揉み解してやりながら、力無く笑った。
「事情はあれど頭は取れて涼しいし。暫くは休憩かなぁ」
じくじくと膿むような痛みがある。傷のついた腕で両手剣を振り回したかいがあった。
小さかった傷は治るどころか縦に裂けてひび割れ、身体には毒が巡っているときた。
状態異常のフルコース。
蓄積型スリップダメージは地味にきついものだ。
(ウィズリィさん所の解毒薬。ラエルならともかく、俺には効かないんだよなぁ)
ショルダーバッグに沈めたままの青い瓶を思い出す。
目つきの悪い白魔導士から処方された薬の瓶を思い出す。
……使う機会など、無い方が良いと分かっている。
無言になった金髪少年の隣で、思考を読んだ蝙蝠が「きい」と牙を剥く。
黒から黄に変わったその眼光に、琥珀は満足げに歪められた。
西地区、竜の肋骨の麓。
栗色の三つ編みが宙を舞う。首に巻きつけていた筈のそれは彼女の動きに合わせて解れ、また元の位置に収まった。
スカルペッロ家三姉妹の長女、親方さまウィズリィことユニフロール・スカルペッロは涼しい顔で首を鳴らした。
毛先を結んだ晶砂岩のチャームが夕日に反射する。
足元には夥しい数の血痕と共に、賊が封じられた魔法瓶が転がっている。
彼女の手には支給された空の魔法瓶が握られていた。どうやらラエルが捕縛できなかった賊たちを回収しに来たらしい。道中眠っていた一般人も含め、彼女は魔法瓶を活用して保護と捕縛を行っていた。教会へ引き返さなかったのはその為である。
(やはり、あの娘一人では倒しつくしきれていなかったよう。白魔術使いが潜んでいたのなら、幹部があの調子でも周囲が余裕をもっていた理由が分かりますし)
黒髪の少女――ラエル・イゥルポテーは魔法瓶を所持していなかった。それもそのはず、本来の作戦であれば彼女の役割は町の人間を避難させるところで終わっていたはずなのだ。
(手負いの構成員を見る限り決定的な一撃は一つも入っていなかった。腕や足が折れた人は居たけれど、それだけ。最後だって、ナイフの柄で殴りつけていましたし)
しかも事前に聞かされた話では、黒髪の少女は黒魔術士だったはず。
にも拘らず彼女は黒魔術を一度も対人に使用せず、加えて二人の一般人を庇いながら西地区を走り抜けたのだ。若さとは末恐ろしいものである。
(いくら高性能な魔法具を所持していたとはいえ……いえ、あの人と肩を並べているわけですし。気にしたら負けなんでしょうけど)
栗色の髪を首に巻き、周囲の観察に徹する。
どうやらこちらの隙を狙っているようだが、弓引きも魔術師も居場所が隠しきれていない。
仕方がない。あまり気は進まないが一人残らず捕まえるためだ。
ウィズリィは器用にも地面を転がる瓶を足で掴み、こんこんと足でジャグリングを開始した。内部にいる賊がワーキャー言いながら壁に全身をぶつけている。
「隠れているそこの貴方。出てきませんか?」
こん、こん。足の甲に乗った瓶を地面に下ろす。別の瓶をまた同じようにする。
「出てきませんか? いくらなんでも、魔法瓶の中でだって怪我はするのでは? 私のことを、黙って見ていてよろしいと?」
勿論、相手にしている賊だって人間だ。誰もかれもが非情という訳ではない。だが、誰も外に出ていくことはなかった。
酒屋の樽の裏に息を潜めた新入りも、民家の屋根に腹ばいになった弓引きも、怯えで腰が立たなくなった黒魔術師も。
ウィズリィは足を止める。瓶を地面に下ろした。
「……」
投降は難しいにせよ、激情で襲い掛かってくれたならどんなに楽だろうか。
ウィズリィは煙管を口につける。
――――ふぅ。
区画整理された東地区とは違い、民家が乱雑に積まれた西地区。その中央を走る陸橋を掠めて煙が舞う。やがてそれは、かすれて目に映らなくなる。
「……不愉快です。元はと言えば、そちらが攻めて来た側だというのに」
長い袖からするりと腕を伸ばす。魔力の塊を想起する。
吐き出した煙に土色の魔力が通う。
「私、黒魔術は苦手なんですよ」
(加減が、難しいから)
じわり。溜めていた魔力が滲み出る。周囲の煙が意志を持つように形になる。
「『手繰る煙腕』」
人間の、前腕。幾つもの煙塊がその形を取り、ウィズリィを中心に町中へ飛び散った。
程なくして、西地区のあちこちから悲鳴と恐怖の叫びが響き始めた。死霊魔術ではないが、そのように誤解してくれただろうか。
「……だれだって死んだ生き物は怖い、ですものね?」
町のあちこちで煙の腕に追われる賊を少しずつ追い立てながら、ウィズリィは砕けて途切れた竜の肋骨の胸骨部分を見上げる。
町のあちこちへ飛び立った煙の腕には、それぞれ魔法瓶を握らせている。このペースなら、一人たりとも逃すことなく捕縛が可能だろう。一度魔法瓶に入れてしまえば、後で回収に行けばいい。
(一度、聖樹教会に戻るとしましょうか。解術の準備に取り掛からないといけませんし)
……子どもたちには、巻き込んでしまったことを謝らねばならない。
引き留めようとした母の腕をすり抜けるように行ってしまった二人を抱きしめてやりたい。そして、こんな危険な状況に発展させた賊を許さない。一人たりとも許すものか。
息子に呪いをかけた賊だって、見つけ出し次第ボコボコにしたいという感情もないわけでもないが、それはあの針鼠に止められてしまうだろう。阻止されると分かっていることを実行するほどウィズリィは子どもではなかった。
そも。当初、ウィズリィは目的あってこの町を近い内に訪れると決めていたのだ。それがどうしてこのようなことになるのか。ただ、人と会いたいだけだというのに、運が悪すぎではないだろうか。
(見つけたところで、咎めたところで。今更何かが変わるとも思いませんが)
六年前の彼女には計り知れずとも、今の彼女には分かってしまう。
彼がどうして、安楽毒を持ちだして行方をくらませるなどしたのか。
(……グラソン。私、貴方の子どもを産んだんですよ)
ウィズリィは青い瞳を歪め。ふと、西の赤い空を仰いだ。
――歪んだ空が、目に飛び込んだ。
「!!」
察知するよりも身体が先に動いたが、つま先に落雷が掠る。
飛び退きざまに地に足をつけていなかったせいで衝撃を殺せず、そのまま土の地面へ背中を打つ。慌てて空を見上げるが、状況は変わらない。
めらめらと歪んだ空が広がって、町全体を覆い尽くしていく。
「なっ……何なんですか……!? か、雷!?」
ざあ、と全身から血の気が引く。
地面に転がった魔法瓶を気に留めることすらできず、足で踏みつけてすっ転げる。
そうこうしている内にまた一つ。閃光が瞬き、轟音。
ずがぴしゃぁぁぁあああん!!
「ぎゃああああああああああああああ!!??」
……第三大陸の監視役、義賊の親方さまことウィズリィ。
主な武器は持たず近接格闘を得意とする。使用する魔術系統は土まで。
遊撃衛兵の枠には入らず、軽い身のこなしで町の人々の安全を守る義賊である。
だがその実、虚勢を張ることで気力を保つほど引っ込み思案であり、人よりちょっぴり雷が苦手な二児の母――足癖が悪いことを踏まえても、彼女自身は極めて普通の成人女性だった。
そんな訳で、西地区のウィズリィはまるでバッサリ背中から不意打ちされてやられたかの如く悲鳴を上げ、そのまま土の地面に突っ伏すと気を失った。
この後、乱闘を肴に昼から酒瓶を開けていた一人の男が倒れた彼女をみかね、一連の騒動から逃げ遅れた住民が集っていた酒場へ避難させたのだが……それはまた、別の話である。