172枚目 「健脚のウィズリィ」
思えば、彼女の噂はイシクブールに足を踏み入れてからも時々耳にしていた。
イシクブールを治めるスカルペッロ家の長女。
賊を名乗り出し家を飛び出した元お嬢様――彼女は「ウィズリィ」と呼ばれているらしい。
「ウィズリィさんがどんな人かって? ……んー。普通の人だよ」
「『親方さま』を名乗る元お嬢様の義賊っていうだけで十分混乱の対象なのだけど」
会議と会議の合間、食事を摂りながらポフのリビングに資料を広げていたハーミットはラエルの言葉に「それもそうか」と笑うと、冷めたコーフィーに口をつけた。
「ラエル、西市場に着く前に会った二人のことは覚えてるよね?」
「憶えてるも何も、最近グリッタさんと貴方を襲撃した子どもたちのことでしょう」
「そう。彼らは「親方さま」として第三大陸の街道を見張っているウィズリィさんの補助をしてるそうなんだけど」
「聞く度に子どもに何させてるんだろうとは思うけれど、指摘は後回しに理解はしてるわ」
「うん。ウィズリィさんは何を隠そう、その子どもたちの実の母親だよ」
「…………」
ラエルは金髪少年の言葉に首を傾げ、カフィオレを一気飲みして内容を反芻する。
「母親なら尚更、どうして本人が出て来ないわけ!?」
「それがね。俺たちを追いかけて来たのも、グリッタさんを追いかけてきたのも、あの子たちが言うには独断だとかなんとか」
「行動力の塊ね……」
「ま、実際はそんなことないんだけどね。問い詰めたらウィズリィさんが絡んでたし」
「……なんだか貴方と相性が悪いように思えてくるのだけど」
「うん。あんまり仲良くはないかな」
「貴方にしては珍しく断言するわね」
「ラエルとノワールに隠しててもしょうがないからね」
最近痛い目を見たばかりだし……と、包帯を巻き直した腕をさするハーミット。
どうやら先日の診察が精神に堪えているらしい。
彼が処方された薬がどのような効果を持っているのか、ラエルには明かされていないが――眉間の皺が解けないことから、身体に負担がかかっているのは一目瞭然だった。
ラエルは読み終えた資料を積み上げていた手を止める。
「……ハーミットが「普通」って言うから、あまり心配はしていないのよ。現にあの兄妹、話は通じるじゃない?」
「うん。最終手段に肉体言語を持ってこないところは、父親の血なのかな」
「?」
「こっちの話だよ。……まあ、苦手とはいえ仕事のやり取りをするぐらいには知った仲ではあるんだ。もし彼女と作戦中に会うことがあったらよろしくね」
「あはは。私は町の人を誘導した後は町長さんのところで待機なんでしょう? 町中を走り回ることなんてないでしょうし、遭遇率が高いのは貴方の方なんじゃない?」
冗談交じりに笑うラエルに目を丸くして、琥珀の瞳はにこりと笑う。
「そうかなぁ。案外、そうでもないかもしれないよ」
地面につく程長い髪に、褐色の肌。青い瞳を際立たせるのは青緑の紅。
ラエルはウィズリィを名乗る彼女の後を追いかけて教会へと向かっていた。
(……まさか、ハーミットが言った通りになるとは思わないじゃない)
入念に練った計画が崩壊するのはよくある話だが、遭遇率が低い相手に出くわす確率だってそう高くはないはずなのだ――だが現在、黒髪の少女の前方にはその「ウィズリィ」を名乗る女性が歩いている。
出会い頭に名前を呼ばれたこともあって始めは警戒していたラエルだったが、どうやら針鼠本人から情報が回っていただけのようだった。
「……ラエルちゃん、でいいのかな」
「へ?」
「諱じゃないって聞いていたから、そう呼ばれたいのかなって思ったのだけど」
「いえ、構わないわ……こちらこそ、もっと人間離れした人を想像していたものだから。面食らってしまって」
言い淀むラエルを一瞥して微笑み、すぐに前を向き直すウィズリィ。
消耗した少女を庇うように先陣を切る彼女は、遭遇する賊を悉く蹴り倒している。
「はぁ。こんなに賊がうろうろしているんじゃあ、楽しい蚤の市も台無しよね」
「……」
黒髪の少女の視線に気づいてようやく、ウィズリィは踏みつけていた賊から足を放す。
その行動だけで、どうやら癖者の気配がした。
(……成程、言葉遣いに対して粗雑というか、乱暴というか。荒々しいといったらいいのか)
少なくとも、彼女自身にその自覚はないようだ。
道行く賊を片っ端から蹴り倒し、長い足を鞭のようにしならせて昏倒させていく。手技を織り込まないところを見ると、足技特化ということなのかもしれない。
(なんていうか。元お嬢様っていうようには、見えないわね)
「……」
「……」
その後もぽつりぽつりと一言ずつのやり取りはあったが、西地区の南端に着く頃には話題も尽き。二人はこれといった会話を交わすこともなく、衛兵が集まる関所の前を通りかかった。
遠目に見る限り、門の前では人が倒れたまま放置されている。魔法瓶を持ち歩いていない協力者が賊を倒したまま何処かへ行ってしまったのだろうか――そう目を細めながら思考したラエルは、すぐに判断を改めた。
石畳にごろごろと転がっていたのは、イシクブールの商人や衛兵たちだった。
「これは……ああ、良かった。眠らされているだけみたいね」
淡々と言いながら一人一人を診ていくウィズリィを前に、ラエルは呆然とその場に立ち尽くしていた。
「どうしてそんなに冷静に……」
「それはこちらの台詞だよ。私こそ、貴女なら走って駆け寄るものだと」
「……」
浮島やイシクブールでの生活を通し、少しずつ空気を読むことを憶えて来た彼女は口を噤む。多分ハーミットの前であっても無言を貫いたことだろう。
遠目に倒れた人間の安否を確認することは困難を極める。黒髪の少女は一瞬、その場に倒れ伏した彼らがこと切れているものだと錯覚したのである。
「死体には近づかない」――白砂漠で生活していた頃に死と隣り合わせだった彼女からしてみれば当然の判断だった。
(……それ以外にも、個人的な理由が一つ、あるのだけれど)
ラエルは一度深呼吸して両頬を打つ。「ぱぁん!!」と、何とも痛そうな音がした。
少女の奇行にウィズリィはびくりと肩を震わせる。
「ごめんなさい、取り乱したわ。眠っているだけっていうのは、どういうことなのか教えて欲しいのだけど」
初対面の協力者を訝しむ暇があるなら、きびきび身体を動かせという話である。
何かふっきれた様子のその顔に、ウィズリィは笑顔を返す。
「……全員これといった怪我はしていないし、血色もいいから毒を使われたとも思えない。寝息も規則的。これなら熱中症に気をつけるだけでいいだろうって診断したの」
「そう。それなら、教会へ運んだ方がいいかしら」
「そうしましょうか。幸い、人数はさほど多くないようだし」
先程までの剣呑とした空気は何処へやら、ウィズリィは伸びをすると成人男性を二人小脇に抱えて立ち上がる。ラエルは一人の女性を支えながら、ふらふらとした。
「無理は禁物ですよ」
「言われなくても、承知の上よ」
「……ラエルさん、私のこと苦手でしょう?」
「……苦手だからって、やるべきことが変わるわけじゃあないでしょう」
「はは。確かに――そのあたり、彼と同じようで安心したわ」
教会までの道はどういう訳か空いていて、賊の一人も邪魔に現れはしなかった。
二人はお互いに悪態を吐きながら要救助者を連れ、教会前の広場へと差し掛かる。
教会の前で膝を抱えた灰髪の少年と目が合うまで、そう時間はかからなかった。
「あぁ、ラエルさん! 無事だったんだ!」
「何その、私が負ける展開を期待していたみたいな言い方は」
「ま、負ける期待はしてなかったけどさぁ、ほぼ無傷で再会できると思ってなかったのも本当だよ――えっと、こちらの人は?」
「ウィズリィと言います」
「あっ。噂の」
(噂の?)
やはりこの女性、「親方さま」であり「スカルペッロ家長女」であるということ以外にも何かあるのだろうか。
気になる事柄は多いが、今はその時ではない。ラエルは好奇心を理性で抑え込む。
「キーナさん。教会の床に空きはあるかしら?」
「あるよ、こっちに寝かせて。……そういや、道中でペタに会わなかったか?」
「ペタさん? いいえ、会ってないけれど」
ウィズリィに目配せをしてみるが、彼女も首を振った。
竜の肋骨から見える範囲では、彼の姿を見かけなかったということだろう。
「それじゃあ私は、残りの三名を拾って来ますね」
「え。あ、私も行くわ」
「いいえ、こちらは大丈夫。ラエルちゃんはキニーネくんの話を聞いてて。ね」
首に巻いた三つ編みを撫で、長椅子に寝ている我が子たちに目元をほころばせると、ウィズリィは踵を返した。ゆったりとした歩調で、しかし走るような速さで関所まで戻っていく。
黒髪の少女は溜め息をつくと振り返り、腰掛けた長椅子の下へと視線を移した。
そこには、一人の商人が背中を丸めて身を隠している。
「……私が居ない間に何があったのかも知りたいけれど、彼はどうしてこんなところに?」
「それは、僕にもさっぱり。どうなのカフス売りの商人さん」
キーナは長椅子に腰を下ろして足を組んだ。
足元からの返答は見込めそうになかった。
「よし。ラエルさん、何処から聞く?」
「……現状報告から宜しくしたいわね」
二人は考えることを辞めて情報交換に励むことにした。
教会に雷が落ちる、数分前のことである。