157枚目 「気泡弾ける砂糖水」
「ところで、キーナさん。目星はついたの?」
蚤の市の人の波に揉まれつつ来た道を戻る途中、黒髪の少女は果実水を携え言葉を零した。灰髪の少年は屋台の店主に支払いを済ませ、談笑を終えると振り返る。
「目星というと?」
「教会で言ってたじゃないの。身に覚えがないって」
キーナには、ラエルたちに勇者探しについて明かした覚えがない――二日前、二人が聖樹信仰教会で話をした際に話題に上がったもので、うやむやになっていた謎である。
「心当たりがあるのかな、って思ったのよ」
「何を根拠に?」
「……根拠なんかないわ。勘よ、勘」
ラエルは言って、険しい顔つきのまま果実水を口に含む。
この祭りの中、スカルペッロ家の服を着ている人間で笑顔を繕っていないのは彼女ぐらいだろう。状況が状況なのでキーナが咎めることはないが、祭りには似つかわしくない表情である。
「僕が勇者を探しているってことを他者に漏らしたとして。それを利用しようとしている奴がいるかも、って? いやいや。正直、この情報には利用価値がないと思うよ」
「そうなの?」
「うん、教会では師匠の手前ああ言ったけどさ。僕が町を走り回るようになってもう数年になるんだ。勇者探しのことだって、僕たちに馴染みのある人なら知ってることだよ。子どもの遊びだってね」
子どもの情報網を信用に足ると判断する大人は、ほぼいない。
現に、勇者探しが理由でキーナが狙われたことは今まで一度も無いという。
「不確かな勇者の情報よりも、僕を攫って得られる身代金の方が魅力的じゃないかなぁ」
「攫われたこと、あるの?」
「ないよ。僕の家の使用人は君が思うよりずっと凄いからね。特にネオンとかは、魔術なしでも十分相手をあしらえる実力があるし。大抵は返り討ちさ」
キーナは嬉しそうにして、右手の果実水に口をつける。
「彼はスカルペッロに従事している使用人の中でも古参なんだ。なんでも、僕の兄が産まれる前から居るらしい」
「……教会で言ってたけれど、貴方のお兄さんはサンドクォーツクに居るのよね?」
「そう。だからネオンは、二十年弱スカルペッロ家に居ることになる。……その分、寂しい気持ちが沸かないわけではないんだけどさ」
「?」
ラエルが首を傾げるとキーナも首を傾げた。
これまでもラエルの行動をキーナが真似することはあったが、灰髪の少年の表情は疑問を抱いているというよりは何処か……。
「ラエルさんは、白き者の知り合いとか居ないの?」
「……居るわ」
「そっか。それなら、嫌でも分かる日が来るって」
金縁ハーフリムの内側に秘された紫色の瞳には、好奇心と不安が見て取れる。
青灰の瞳はどこか羨ましそうにそれを見据え、寂し気に笑ってみせた。
「今日はお祭りだし。しみったれた話はまたの機会にしようよ」
「……」
「ラエルさん?」
場を明るく保とうと配慮したことが裏目に出たのか、黒髪の少女は無言のまま動こうとしない。何かを目で追いかけた後、ふと視線をキーナに戻した。
「……ああ、ごめんなさい。道を歩いていた観光客に混ざって、知った顔があった気がして。多分、見間違いだと思うのだけど」
「びっくりした。僕の精一杯の気遣いが滑ったのかと」
「大丈夫、内容は聞いてたから。難しい話は祭りの後、ね」
「そうそう。祭りの後!」
キーナは少女を少しだけ追い越すと、ぱちりと片目をつむった。
ラエルは口の端を少し緩めて後を追う。
腕を振るペンタスの姿が見えたのは、そのすぐ後のことだった。
サスペンダーのベルトを指で弄んでいたのを辞めて、角を生やした獣人は飲み物を受け取った。毛量が多い彼には昼前の日差しが暑かったのだろう。一口果実水を口に含むなり、淀んでいた横長の瞳が輝きを取り戻す。
「めぇぇぇぇ……生き返る……」
「あぁーっ。やっぱバシーノさん所の果実水美味しい!」
しゅわ。と気泡が弾ける音が耳に届いた。
ラエルが頼んだのは以前も飲んだことがあるラクスの果実水だが、キーナとペンタスが飲んでいるのはしゅわしゅわする果実水らしい。
飲み物がしゅわしゅわ弾けるとは一体どのような感覚なのだろうか。機会があれば飲んでみようと思ったラエルだった。
「……バシーノって、芋揚げが美味しいあのお店の名前よね?」
「そうそう。店主さんの名字が『バシーノ』で、そこからお店の名前を付けたんだってさ」
「お手軽で量があってさらに美味しい。飲食の需要をよく分かってるめぇ……」
「それな!」
先程までアンニュイな雰囲気を醸していたとは思えないキーナの溌溂さに、ラエルは少し安心して果実水を口に含む。冷えたラクスの果肉は舌の上を滑り、冷たい爽やかなのどごしを残して次の一口を誘う。
みるみる減っていく果実水が底をついたところで、黒髪の少女はキーナに肩をつつかれた。
振り向けば、満面の笑みで頷く灰髪の少年。
「そういえばラエルさん、この度は蚤の市の手伝いを引き受けてくれてありがとう」
「ふふ、いえいえ。眼鏡も貸して貰っているのに、果実水まで奢ってもらって……寧ろこれだけで良かったの?」
「そりゃあもう! それに僕らは例年通り、午後の当番に割り当てられているんだ。だからこの後のお仕事に対する前払い報酬だと思ってよね!」
「……?」
お仕事。前払い報酬。
すべてラエルには初耳だった。
そも、彼女はキーナとペンタスがしていた賭けのペナルティが「蚤の市に使用人の服をきて働く」だったことを。なぜ、祭りの手伝いがペナルティになるのかを理解していない。
現在彼女がスカルペッロ家の使用人服に身を包んでいる理由は、前日キーナに頼まれたからで――少女からしてみれば、普段は身に着けない服を身に着ける機会という以上の意味は含まれていなかった。
しかし。使用人服とはつまるところ「お仕事用のお洋服」である。
「キーナ。まさかとは思うけど、説明も無しに彼女を巻き込んだ、めぇ?」
「ふふふふふ。説明しろとは一言も要求されなかったからね」
「……服を着るだけのお仕事なんじゃなかったの?」
「そんなこと僕、言った?」
確かにラエルは聞かなかったし、言わなかった。なるほど。
ラエル・イゥルポテーはそこで初めて、自分が彼の手のひらの上で転がされていたことを知る。飲み干してしまった果実水は返しようがないし、首元には彼から渡された晶砂岩のループタイが揺れている。
この場に居る三人とも灰色のシャツを着て同じループタイをしめ、つまるところ整った軽装をしている――道連れというか、巻き込みというか、ラエルだけが被害者になるわけではないらしい。黒髪の少女は反論をぐっとこらえて飲み込んだ。
「……仕事の内容は?」
観念した黒髪の少女に、キーナは「にぃ」と口を歪める。
「蚤の市にやって来るお客さんの誘導、お店への案内と町の紹介、迷子の親を探す、有事の際の避難誘導及びその判断と経路確保、あとは昨日の会議で話したあれこれ、えとせとらえとせとら。時給は千五百スカーロから頑張り度合いによってボーナスあり。チーム制で普通は二人組だけど、ラエルさんは初心者だから僕とペンタスに同行する形で三人組。極めてお得だよ?」
「めぇ……」
「逃げ場がないわね……」
「そこは断る理由がないって言って欲しかったんだけどな?」
確かに果実水は美味しかったが、代金を請求されたなら十分支払える額である。
むくれたキーナに対し、ラエルは少し考えて首肯した。
「お洋服返すから無かったことにならないかしら」
言ってみて、ちらりと少年たちの様子を伺うとこの世の終わりのような悲壮な顔をしていた。ラエルは水色の手を振って、苦笑いと共に撤回する。
「冗談よ。でも、給料は要らないわ。さっきの果実水とこれまでの恩で十分釣り合うし」
「めぇ。もしかして、魔導王国ってかなり時給高いんじゃ?」
「魔導王国全体がどうかは知らないけれど。私の時給は三千スカーロで不定期にボーナスが入る契約よ。実働十二時間はざらだけど、分単位で残業代が請求できるわ」
「黒に限りなく近い灰色じゃん……」
「命の危機にさらされたり、最後の一言が無ければもの凄くいい仕事、めぇ」
「私もそう思うわ」
現に針鼠はどれほどの給料で、あれだけ身体を張る身の振り方をしているのだろうか。
(……あの行動力はお金を理由にしたものではないようにも思うけれど)
ラエルは空になった果実水が恋しくて、残りの一滴をストローで吸い上げた。
蚤の市に沸く白い町に、教会の鐘が鳴り響く。時を告げる鐘が十回。
ラエルたちは顔を見合わせ、移動を開始する。
町のあちこちで僅かながら、人の挙動に変化があった。
現在は午前十一時。時を告げる鐘には一つ足りない。
それは、町の外に賊の存在が確認されたことを告げる、暗黙の合図だった。