153枚目 「鏡を磨ぐ」
あれこれ話すうちにあっという間に日は高く昇り。
ポフの軒先、偵察を終えて戻って来た蝙蝠は転寝をして揺れている。
ノワールからの報告を受けた針鼠は、枝と呼ばれるパンをほんの少し口に運んだかと思うと、例の鏡をレーテと運び出して町長宅に戻って行った。
これから夕方までの数時間をかけて、聖樹教会の代表、各宿屋の責任者、蚤の市に出店する業者の代表、グリッタを始めとした商人を集めて会議をするのだという。
魔導王国の関係者からは針鼠が出席することになり、黒髪の少女は留守番だ。
ラエルは水筒に入れた冷たい水を喉に流し込み、なんとなく空を見上げてみる。
二か月前まで白砂漠の真ん中で浴びていたのと変わらない日の光が少女の目をくらませた。夏になったので、今頃の白砂漠はもっと暑いのかもしれないが。
(もし帰れたとしても、サバイバル生活には戻りたくないわね……砂魚は食べたいけれど)
鱗を剥がし、つるりとした赤身に炭樹の枝を突き刺して火にかける。焦げた皮ごと歯を立てれば、噛み応えある魚肉と滴り落ちる油と旨味が口に広がり――想像するだけで頬が緩むラエル・イゥルポテーだった。
「何か楽しいことでもありましたか」
「ぶはっ!?」
声をかけられるまで接近に気づかなかったラエルは慌てて口元を拭い、紫目で白髪の使用人の姿を捉えた。スカルペッロ家の使用人で、彼女の魔術訓練に付き合ってくれている白き者のネオンである。
硫黄のような鮮やかな黄色。両目に収まったそれらが「す」と細められる。
「申し訳ありません。もう少し音を立てて行動するべきでしたね」
「いえ、気がつかなかった私にも非はあるわ。……今日は流石に、お休みよね?」
「スカリィさまには『よろしく』と言われましたが」
「そ……そう……」
今日ぐらいは休めるだろうと思っていた黒髪の少女が弱々しい声を上げると、使用人は目を丸くして口元を隠した。
「はは、冗談ですよ。これから私も会議に参加しなければなりません。貴女は自主練をおろそかにするような不真面目でないと見込んでいますし。その間、頼みごとをさせて頂きたいと思いまして」
「頼みごと?」
「はい。スカリィさまから魔術訓練をする見返りとして要求された内容を覚えていらっしゃいますか?」
「……もしかして、グラスクラフトのことかしら」
グラスクラフトとは、ラエルやハーミットがイシクブールに来る道中、草原を走るために使用していた魔力駆動の乗り物のことだ。
ラエルの魔術暴発事情をスカリィとレーテに明かした際、浮島での魔術訓練は事情があって続かなかったと伝えると、スカリィはこの庭を使って午後を訓練にあてるよう勧めた。指導役として魔術に長けた使用人をつけよう、と。
実はその際、ハーミットとラエルはありがたい申し出だとは思いながらも町長の提案を断ろうとしていたのである。
(だけど、スカリィさんの押しが凄かったのよね……ハーミットが「せめて訓練時間分のスカーロを支払わせて欲しい」って譲歩した瞬間に「いえ、勉学の機会は誰にも平等です。金品は頂けません」って……)
話し合った結果「それなら魔術訓練を受ける見返りに、とある人物へグラスクラフトを見せて欲しい」という、よく分からない提案を受け入れることになったのだった。
レーテは頷いて、隣の豪邸の庭と町長宅の庭を仕切る柵の一部を操作する。
金属製の細い柱が次々に地面へと沈み込んだかと思えば、向こう側から人がやって来た。
きぃ、と。耳慣れぬ駆動音と共に。
黒髪の少女は目を丸くする。それは、魔導王国では見たことがない駆動だった。
もしかすると、ラエルが知らないだけでこの駆動を使って生活している住人も居たのかもしれないが。
髪の長い女性は珍しい形の駆動に乗ったまま、自身の腕で車輪を回してこちらへ向かって来た。ネオンが補助しようとするが女性は首を振る。
どうやら自力でラエルと合流したいらしい。
黒髪の少女はその様子を見て、ゆっくりと距離を詰めた。
「……こんにちは。私はラエル・イゥルポテー、魔導王国から来ました」
「あら」
きゅ、とその場で向きを変える女性。
よく手入れされた栗色の髪が胸元に落ち、庭を吹き抜ける風に微笑んだ。
「初めまして、魔導王国の従者さま。わたくしはエイストレーグ・スカルペッロ=ラールギロスと申します」
彼女はそう言って、ラエルと真正面から相対することなく町長宅のバルコニーを向いた状態で、骨ばった細い腕を差し出した。
握手でもしようとしたのだろう。だが、その方向にラエルは立っていない。
具体的には、九十度ほど進行方向がずれている。
エイストレーグはその場に訪れた静寂の意味を量りかね、手のひらを開いては握る。
状況は変わらないし立ち位置も変わらないので、彼女が手を伸ばす方向にラエルの姿はやはり、ない。
「アステルさま、九十度ほど左です」
「あら、そう? ふふふ。ごめんなさいね、からかっているわけじゃあないのよ?」
「アステルさま、回りすぎです。百八十度ほど右に戻ってください」
「ふふふふふ、ありがとうネオン。まったく、わたくしの駆動はじゃじゃ馬で困りますわ」
エイストレーグ――アステルは、椅子のような形状の駆動から庭に降り立った。
備え付けられた杖を手にすると、細い脚先が寸分狂わずラエルの方を向く。
重く閉じられていた瞼が上がれば、磨り硝子のように白濁した青い瞳が現れる。
その瞳は焦点を合わせず、少女の遥か向こうへと意識を差し向けているらしかった。
改めて差し伸べられた手を取って握り返し、ラエルは悟る。
目の前で笑う女性には黒髪の少女の姿が見えていないのだ。海風に揺れる庭の草も、軒先で欠伸をした蝙蝠の姿も、使用人の笑みも。晴れ渡る青い空とカムメの影も。
「改めて。わたくしはエイストレーグ。アステルとお呼びください。時間がありませんので挨拶は手短にして――あの、貴女がクラフトを所持していらっしゃるのですか?」
「え、ええ。そうだけど……」
けれども彼女は少しも悲観する様子などなく。寧ろ少女の返答を聞いて、骨ばった掌で力強く水色の手袋を握り返した。
この熱量には、身に覚えが、あるような。
黒髪の少女が何かを思い出そうとしたその瞬間、腕が上下方向に乱舞した。
「そうですか――よくやりましたネオン!! 褒めて遣わします!!」
「ありがたきお言葉です。アステルさま」
「!?」
満面の笑みで頭を垂れた使用人も気になるが、掴まれた腕を上下に振り回されているラエルはそれどころではない。
目が見えていないだろうに軽快なステップを踏むアステルは、切り揃えられた芝の上で黒髪の少女の両腕を取るとくるくる回り出す。
「ええ、ええ!! ありがとうございます!! ここ数年駆動といえば自分で組んだ物しか触っていなかったもので、外部から運び込まれた駆動をこの手で触れずにずぅーっとうずうずしていたのですよ!! 家中の駆動をばらしては組み立てることの何と心寂しいことか!!」
振り回される脳内で導き出されるデジャヴのわけに今更ながら気付くも全てが遅く、見知った魔法具技師のハイテンションを思い出しながら芝の上を踊らされる黒髪の少女。
高笑いしながらリードするアステルの足を踏まないように。また、ラエル自身が転ばないようにステップを踏むので精いっぱいだった。
危機を察知する野生の勘はこれっぽっちも鈍っていなかったようである。しかもこの令嬢、「駆動をばらす」と口にしたのは気のせいだろうか。
一通りぐるんぐるんと振り回されて後。気が済んだのか解放されたラエルは、息も絶え絶えに口を開く。使用人は黄色い瞳を嬉し気にこちらに向けているだけだった。
「あ、あの。これは一体……ネオンさん?」
「それではラエルさん、後は宜しくお願いします」
「えっ!?」
「さあ! 貴女の駆動を見せて頂けますか? あっ、物理的には見えないので正確には触らせて頂くんですが!」
「ちょっ、まっ!?」
誰か説明をしてほしい――残念ながら、その叫びを聞き届ける者はいなかった。
スカルペッロ家の令嬢アステルは、日影に移動したラエルが魔法具からクラフトを引っ張り出したと分かるなり満面の笑みを浮かべ、椅子状の駆動から取り出したツナギに袖を通すと魔法手袋とフルフェイスガードまで装着して飛びついた。
黒髪の少女は、グリッタに奢ってもらった昼食の席での会話を思い出す。
スカルペッロ家の豪邸にはラールギロス家と婚姻関係を結んだ、寝たきりの次女さんが住んでいるのだとか。
商人グリッタはカフス売りであるにもかかわらず、わけあってその女性に手紙を届けなければならないのだとか。そういう話だったはずである。
人の噂は膨らむものだが、目の前に居る彼女が話に聞いたスカルペッロ家の次女なのだろうか。寝たきりと噂される割には生命力が有り余っているように見えるというか。筋肉量が少ないことを除けば、身体が弱いようには思えなかった。
両目にしても、もしかしたら焦点が合わせ辛い体質だというだけで、少しぐらいは見えているのかもしれない――そう錯覚する程度には工具を手にした彼女の動きは滑らかで、驚くほどに迷いを感じられないのだ。
(……でもちょっとまって。工具を持ったってことは……)
「あ、アステルさん。フレームを外すのは構わないのだけど……魔族が作った魔法具だから、人族の魔力では制御しきれない仕組みがあるかもしれないわ」
「ええ勿論。心臓部の魔力濃度は手袋の振動で把握しています。技術師として純人族の私にはとても辿り着けない領域ですわね。しかも、マツカサ工房でのカスタムとなれば、恐れ多くて下手に触れたものではありません」
「……分かるものなのね?」
「フランベル家の魔術は独特ですもの。魔力と振動で、ある程度は推測できますわ」
アステルの返答にラエルは分かったような分からなかったような気分になって、取り敢えず相槌を打った。
しかし、あれだけお世話になっている魔術訓練のお礼がこんなことでいいのだろうか。ラエル・イゥルポテーはこのクラフトを取り出して見せた。ただそれだけだ。
少しだけ不安になったラエルが町長宅を覗きこむと、閉じそびれたカーテンの向こう側で難しい顔をした大人たちが、ああでもないこうでもないこうしたらどうだこれじゃあいけないと議論を繰り広げている。
(……思ったよりも難航しているみたいね)
針鼠の姿を見つけるも、身長が低い彼は男性方に囲まれるようにして姿を隠してしまった。こちらの視線に気が付いたのか、レーテが困り顔で「ごめんね」と口を動かし指を振る。カーテンは今度こそ、隙間なく閉じられてしまう。
ラエルは残念そうに肩を落とすと、クラフトに夢中になっているアステルへ視線を戻す。
この数十秒の間に、外れていたフレームは元の位置に戻されていた。
「よし、気がすみました。元通りにしたはずですが、確認して頂いても構いませんか」
「……えっ。こんなに短時間でいいの?」
「はい。少々名残惜しいですが、あまり無理をするのに向いていない身体なので。ここまでとさせていただきます。ありがとうございました、ラエルさま。マツカサ工房の方にもよろしくと伝えていただければ幸いです」
「は、はい。こちらこそ……?」
点検を済ませ、グラスクラフトを収納しようとしてラエルの手は止まる。同じ魔力駆動でも、アステルが再度座ったそれには地面を掴む為の車輪がついている。
アステルは青白い瞳で気配を伺うと、ラエルが何かに注視しているだろうことに気付いて首を傾げた。
「何か質問がありそうな雰囲気をなさっていますね」
「わ、分かるのね……実は、アステルさんが乗っている駆動を初めて見るの」
「そうですか。これは元々、介護作業に使う予定だった駆動でして。わたくしは昔の怪我の後遺症で昏睡中に落ちた筋肉が戻らないので……これは、無理をして足の骨を折らない為の移動手段ですわ」
大怪我と、昏睡。グリッタが聞いた噂の真相は、それか。
ラエルがアステルの言葉を噛みしめていると、当の本人はおかしそうに笑った。
「ふふふ。なるほど、貴女は鏡のような反応をなさるんですね」
「え?」
「息子から聞いたんです、教会で仲良くなった女性がいると。もしかしたら、息子が今の貴女と同じような顔をしていたのではないかと思って」
「……」
「勿論わたくしの目には、貴女の表情も息子の表情も見えないのですが。不思議と瞼の裏に情景は浮かぶものなのです」
アステルはラエルの前まで駆動ごと近づくと、その水色の手を取る。
虹の粉で隠した両手首の傷痕も、指でなぞられれば明確だ。しかし彼女はそうはせず、ただ少女の手を握り締めた。
「何も貴女まで痛そうな顔をしなくていいんですよ」
ラエルは、そう言われて初めて、自分の眉間に皺が寄っていたことに気がついた。
アステルの挙動を観察して、ずっと険しい顔つきでいたことを思い出した。
犯行予告があった蚤の市が近いという緊張感があるのかもしれない。
もう少しで掴めそうな手がかりを求めて急いてしまっているのかもしれない。
目の前に居るスカルペッロ家次女の境遇に同情してしまっていたのかもしれない。
知らない他者からされる同情を何より嫌うはずなのに、他者に対して憐憫に似た感情を向けてしまうなど――。
「ラエルさん。わたくしはちっとも痛くありません。だから安心してください」
ラエルが意識を引き戻してみれば、アステルの手はすでに離れた後だった。
握られていた掌は、空中に置き去りになっている。
「明日の蚤の市が成功するか否かは、魔導王国の貴方たちの働きにかかっています。全てが無事に終わった後で、またクラフトを愛でさせていただければ幸いですわ」
「……必ず」
「ええ」
駆動を操作し、器用にも邸宅へ戻ろうとするエイストレーグの背を目で追う。
キーナに教会で聞いていたよりも、ずっと強い女性のように思えた。話を聞く限り、息子と行方不明の旦那とを同一視しているような異常さも感じられない。
息子と二人きりでいる時だけ、そのような言葉を漏らしていたのだとしたら。それは……。
駆動の車輪が回る音がする。
庭の柵があった場所を駆動が越えたところで、ラエルは口を開いた。
「アステルさん」
「いかがしましたか?」
「アステルさん宛てに手紙を運ぼうとしている知り合いがいるの。貴女に直接渡したいけれど、機会がないって嘆いている、少しだけ不運な商人さんが」
「……」
「勝手なお願いだとは思うのだけど、決して悪い人ではないと約束するわ。だから蚤の市が終わったら、その人に会って欲しいの――あのグラスクラフトを好きなだけ触る条件として……どうかしら?」
ラエルは社交辞令ではなく取引を提示することで、アステルと次に話す機会を作ろうと行動した。彼女とゆっくり話をする機会が欲しいと、思ったからだった。
黒髪の少女の提案に、商人の娘は口角を上げる。
アステルは栗色の髪をくしゃりと顔に引き寄せて「交渉成立ですわね」と、嬉しそうに笑った。