147枚目 「跳痺虫の鱗粉」
手紙を届けて返答を持ち帰るのに大分時間を割いてしまったが、町長夫妻は受け取った二通の封筒を目にして満足そうに微笑んだ。どうやらいい返事だったらしい。
一同は昼食終わりに町長宅に集合すると約束して解散することになったため、ラエルとハーミットはポフに戻り、二人で情報交換をすることになった。
昼に食事をとる習慣がないラエル・イゥルポテーは、ザクザクと「枝パン」を切りながら木製の平皿に盛りつけていく。
「――そういうわけで、彼が『勇者』を捜す理由は、失踪した父親を捜す手がかりを集めるためだったらしいわ」
「……そうなんだ」
「ハーミットは何か知ってるの? キーナさんのお父さんのこととか、そもそもスカルペッロ家の事情とか」
「うーん。スカルペッロ家に関してはある程度調べがついてるんだけど、ラールギロス家についてはあまり情報がないんだよね。家紋があるから、それなりの家だとは思うんだけど」
ラエルは手元のバターに塩と香草を入れて練り、スライスしたパンに添えてテーブルに出す。先に淹れていた紅茶を器に注いだ。
「魔導王国でも得られない情報ってあるのね?」
「それはまあ。クァリィ共和国は魔導王国の配下だけど監視してるわけではないからね。人間が情報を管理する以上、少なかれ不備は出るものさ。……というより、キーナのお父さんは第四大陸の出身らしいから。情報が無いのは仕方がないんだ」
「……第四?」
「そう。第四大陸に白き者の国があることは知ってるだろう? キーナくんのお父さんがそこの出身だってことは分かっているんだ。それ以上は、国同士の約束事が壁になって踏み込めなかったけどね」
第三大陸より遥か北に位置するとされる第四大陸。そこにある白き者の国は、魔導戦争で双方に一切の支援と援護を行わず中立と不干渉を貫いたことで有名だ。
ラエルも地図や書籍でちらりと目にしたぐらいだが、所謂鎖国状態にあることでも知られている。ここ数年は厳しい慣習に逆らって脱国する国民が後を絶たないとも。
「って、それじゃあキーナさんが外を出歩くのはかなり危ないんじゃ」
「心配ないよ。彼らは国を出た人間を国境の外まで追いかけはしないから」
「……国境の内側だったら追いかけ回すのね」
「そう。だから、最近は旅行に乗じて失踪するのがブームらしいね。命をかけて自分に雷を落とす必要があるとかないとか、噂では聞くけど」
「……食事に合う話題じゃあないことは確かね……」
「ははは。言われてみればそうかもしれない」
ハーミットはパンにディップソースをナイフでのせ、いただきますの言葉と共に噛み千切る。鼻をくすぐる香ばしさを追いかけて、バターの塩味が華やいだ。麦の風味に、薄めの紅茶がよく馴染む。
美味しい。と少年が呟くと、少女はにこりと笑った。
「そういえばハーミットの方も、悩みの種が一つ無くなったみたいね」
「ああ。グリッタさんが狙われてた件は、一旦保留してもらったというか」
「ふうん。グリッタさんが狙われてた件、ねぇ」
笑顔のまま、紫の瞳が細められる。
琥珀の瞳は一拍の間を置いて、逸れた。この目はよく知っている。彼が無茶をする度に周囲から向けられるものと全く同じだ。呆れと怒りと憤りが混じった視線。
(そうか、昨日帰って来た時にはラエル寝てたから……朝一に報告するのも忘れてて)
「ははははは」
「ははは……じゃないわよ。昨日町中でやりあったことも聞いてるんだからね」
「はは。流石、情報の回りが早いね」
「褒められても嬉しくないわよ。それに、理由はともかく……怪我したそうじゃない?」
「(全力で目を逸らす金髪少年)」
「誤魔化せると思わないで欲しいわね」
食事中であるハーミットの目の前に現れたのは、書見台のような形をした設置台だ。
ラエルは壁にかかっていた鏡を机の上に固定すると、魔石に魔力を注ぎ込む。
一日ぶりに目にする光景に、金髪少年の表情は石のように固まった。
何だかとても嫌な予感がするが、咀嚼中に席を立つ勇気もない。
「あ、あの、ラエル……」
「貴方昨日、スフェーンさんと連絡とっていないでしょう」
鏡は砂嵐だ。まだ猶予はある。
いや、あまりないような気もする。
「これに懲りたら、次からはしっかり報告して頂戴。毎回怪我を隠すことに気を張られたら、私が困るわ」
「えっと……逃避権は……」
「あると思うの?」
「い、いいえ」
「よく分かってるじゃない。それじゃあ、私は一足先に町長さんの所に行ってくるわね」
「……の、ノワールは町を偵察してもらってるけど、呼べば来てくれるはずだよ」
「そうなの。ありがとう」
自身の紅茶を飲み干した器を片付けて、ラエルは灰色のケープを身にまとう。鏡の砂嵐が止む前にポフから出て行ってしまった。
多分、彼女はハーミットが怪我をしても相談しない理由をそれとなく察しているのだろう――席を外したのは、彼女自身がドクターに会いたくないからというのも理由の一つかもしれなかったが。
(目を離したら逃げるかもしれないとか、思わないんだろうか)
或いは、逃げても構わないと思われているのか。
少年はパンを飲み込んで、しかし席を立つことをしない。
ラエルはハーミットを信用し過ぎている。そう思いつつも、現状を受け入れることにした。
砂嵐が止むと同時に、隈が入った医者の眼光と濁った琥珀の目が合う。
『……お前たちは、約束を守ることを憶えた方が良い……』
「開口一番何を言ってるんだドクター。疲れてるんじゃないか?」
『診るべき患者がごねて診察をボイコットしたんだ、正気で居られるものか。それに白魔導士は総じて異端であると言うだろう』
総白髪のオールバック。白衣を纏った白魔導士は鋭い三白眼をこちらに向けた。
歯ぎしりしつつも、金髪少年が素直に診察を受けないことは想定の範囲内だったようだ。
ハーミットは琥珀の瞳を歪め、大人しく手袋を脱ぎ始めた。普段は手袋の下にあるので目立たないが、顔に似合わぬ骨ばった男の手である。
細かい傷の痕がある左手の甲には、鱗のような痣が三つ。
「感じ方は人によるだろうけど、個人の健康をないがしろにしてまで他者に心を砕く精神力がある時点で、十分常軌を逸してるとは思うよ」
『言っておくがお前の基本姿勢も私と似たようなそれだからな……?』
「ははは。気のせい気のせい」
ハーミットは笑いながら誤魔化すふりをして――琥珀の瞳を歪ませる。
「俺はただ、他人より強欲なだけだよ」
『それを言うなら私は傲慢なだけだ。大して変わらんさ』
皮肉交じりの会話を交わしながら、少年は腕を捲ろうとして手を止める。どうやら脱いだ方が早いと判断して、うなじ側から黒布をひっつかむと金髪頭がすぽんと顔を出した。
右腕は滲んだ血で袖が包帯と引っ付いて、震える左手ではなかなか剥がせないようだ。四苦八苦して一度休憩し、満を持して爪で摘まみ引き剥がす。今度は上手くいった。
一連の行動を観察していた鏡の向こう側。
白魔導士スフェーンは組んだ腕をそのままに、眉間の皺を深くする。
『……おい』
「うーん。解毒薬を使っていないとはいえ、ここまで痺れが残るとは」
『一から説明しろ、まずその腕の傷はなんだ』
「第三の草原で野営中にラエルを狙って射られたやつが流れて当たったんだよ。殺気がこっちに向けられてなかったから回避が遅れちゃって」
『そうか。剥がせ』
「息をするように痛みを伴う行為を要求する医者だなぁ」
ぶつくさ言いつつも素直に右腕の包帯を解く金髪少年。言われずとも新しいものと交換する予定だったのでこの行動は想定内だが、普通に痛い。痛いものは痛いのだ。傷口に貼った湿布を剥がすなどすすんでやりたいことではない。
かさぶたや赤い血や黄色い血がぐろぐろとしているその傷痕が空気に晒されて、鏡の向こうの医者は大きなため息と共に席を立った。戻って来た彼の手には一本の薬瓶が握られている。
『……恐らく、血の結合を阻害する物質のせいで傷が塞がり辛いんだろう。カタクリ草の湿布だけでは完治まで時間がかかる。これを使え』
「お、俺が使って大丈夫なやつ?」
『安心しろ、お前も使ったことがある薬だ。安寧草も含まれている。痛みも和らぐはずだ』
「あー。えっとねドクター。非常に言い辛いんだけど、実は昨日の昼に別の毒もくらっててさ……」
『……………………』
凄い顔をされた。黒髪の少女を診察する際には見せなかった表情である。
「……申告しただけ偉いって褒めて欲しいくらいなんだけどな!?」
ハーミットは懐から手袋越しに取り出した小瓶を鏡に向けて放る。
透明な瓶の中には、昨日西地区で襲撃を受けた際に回収した毒の矢尻が入っていた。
鏡の向こう側でそれを受け取り、訝し気に蓋を開けるスフェーン。
暫く観察して、どんな毒なのか解析する魔術を発動させた。
『……自己申告は偉いが、お前が立て続けに怪我をしていることが意外に思えてな。二年前に旅をした時はそう無謀じゃなかったろうに』
「おかしいなぁー、無茶は避けてるつもりなんだけどなぁ」
『現に怪我をしているやつが何を言うんだ……さて、これの主成分は跳痺虫の鱗粉らしい。混ざり物が含まれていない上に高濃度だ。これ自体は持続性に乏しく、即効性に特化していると見た』
解析を終えた小瓶を指の腹で転がし、モスグリーンの瞳が細められる。
金糸の髪を手櫛で整えつつ、少年も琥珀を鏡へと向けた。
「うん、人を転ばせるのに一滴も要らないと思う。掠っただけで動けなくなったし」
『それは……相当だな。お前に魔力があれば後遺症も残らんかもしれないが』
スフェーンの言葉にハーミットは目を丸め、それから天井のカンテラを仰ぐ。暫く脳内検索をかけてみたが、跳痺虫の鱗粉を打ち消す薬効には心当たりが無かった。
分かるのは、その鱗粉と安寧草の成分を混ぜた薬品が世間一般に「安楽毒」と呼ばれているということである。
混ぜるな危険、だ。
鏡の向こう側、浮島の研究室にいるスフェーンも同じ結論を出した。先程用意した薬瓶とは全く系統が違う瓶をいくつか手にする。
『痛みか痺れか震えか――どれか一つしか抑えられそうにないな。選んで良いぞ』
「んん……震えを抑える薬で頼むよ。痛いのは気合いでどうにかなるけど、震えで得物を取り落としたら洒落にならないからね……」
『承った』
目の前に並んだ瓶の内、濃い緑色をした物が鏡を通って机に置かれる。中に入っているのはどろりと粘性のある不味そうな薬だ。そして、同じものが合計五つ机に並ぶ。
「……これ、塗るやつ? 飲むやつ?」
『飲み薬だ。一日一回、朝食後にパッチテストして飲み込むといい。飲んで一時間後から震えが収まって来るだろう』
「効果時間は八時間ぐらい?」
『ああ。だが間違っても日に二本以上摂取するなよ、内臓を壊す。……あと、腕の怪我は安寧草が含まれないこの軟膏を使え。その湿布でも間違いはないが、こちらの方が治りが早くなる筈だ』
「ありがとう。必要経費はスカーロで請求して欲しいな」
『言われずとも、鼠の巣に領収を送りつけておくさ』
軟膏を受け取った少年は解いた包帯を腕に纏めて腰を浮かせる。鏡を元の位置に戻すには少女の手助けが必要になりそうだ。
鏡の向こう側の医者は瞳を細め、一度眼鏡を外すと眉間を抑える。
『まさかとは思うがハーミット。お前たち、仕事と関係のない面倒ごとに巻き込まれているんじゃないだろうな?』
「さて。どうでしょーか」
『はぁ……ともかく、何かあればすぐに連絡してくれ。ラエル嬢もそうだが、お前も監視されている立場だということを忘れないようにな』
「忘れてないよ。忘れるものか」
『そうか、それならいい。無理はするなよ』
医者の言葉に金髪少年は悪童のような笑みを返し、素手で鏡の枠に触れた。
無魔法『魔法の無効化』によって遠隔通信が切断される。
ハーミットは震える左手を握ったり開いたりして眺めたかと思えば、手袋を嵌める。
琥珀を青く濁らせ、震える指を静かに強く、握り込んだ。