130枚目 「彼は転じて」
十指に嵌めた青い指輪。爪の厚み程しかない細い鎖に繋がれたシースルーの黒色。床につく程長いカーディガンに、頭部を覆うベール。
それは色調が黒で統一されていなければ踊り子の衣裳にも思えた。
長い裾を黄色い眼をした使用人が腕に抱えているが、ふわふわとした生地に全身を包まれた本人はというと――キニーネ・スカルペッロ=ラールギロスは、鏡を睨みつけている。
「やっぱアイシャドウ濃いな、明度上げよ」
「いつまで引き延ばそうとするつもりですか。とっくに時間ですよ」
「急かすなよー、妥協できないだけだ。時間は見てるってば」
黒のアイラインに灰色の睫毛が映える。
キニーネは瞼の上にのせていた黒い化粧粉に触れると数段色を薄めた。
傍目には作業前と後の区別はつかないだろうが、どうやら彼なりのこだわりがあるらしい。完成した化粧を鏡でチェックすると、口角を「にい」と上げる。けれどもすぐに下がった。
「はあ……始める前から憂鬱だよまったく……」
「キーナさま、そうおっしゃらずに。この町一番の魔術師候補として周囲に好印象を当たえるチャンスじゃあありませんか」
「好印象、ね」
キーナはネオンの言葉に首を振りつつ装身具のチェックを終えると鏡台から腰を上げ、裸足のまま絨毯を踏んだ。足首にも指輪と同じような材質の装身具がある。蔦の装飾が施されたそれを足を揃えてぶつけてみれば、部屋に高い音が反響する。
鐘のようで、鈴のようで。不思議な音色である。
化粧の確認をする為に上げていたベールを顔に掛けなおし、キーナは半身でネオンを見据える。色彩変化鏡を介さない少年の瞳は曇り空のような青灰色だ。
バルコニー周りを片づける他の使用人の様子を見ていた彼は、灰色の裾を腕に抱え直した。
「なぁネオン」
「いかがしましたか」
「ネオンは、僕がスカルペッロの人間で良かったと思うか?」
ネオンと呼ばれた彼は黙して、ふと口の端を緩めた。朝日に煌めく総白髪は一本の例外も許さずにぴっちりとまとめられている。
使用人の襟先に家紋の金細工が鈍い光を放つ。
「それを決めるのは、従者の私ではなく――」
「……己を見た者、知った者、送った者の胸中に問え。って?」
にた、と少年は笑みを浮かべる。
冷たい瞳が見据えるのは使用人の向こう側。今ここにはいない第三者の面影。
「……母さまもそうだったけど、貴方もあいつと同じようなことを言うんだな」
乾いた声のまま棚の魔術書を手に取る。
開いた窓の先からは鐘の音がしていた。
人の負の感情は伝播するものである。
ペンタスの祖母が亡くなったこの一連の儀式はキーナにとっても辛いものだ。最近妙にぴりぴりしているのは彼自身も自覚していたことだった。
(だからといって。今、ネオンにあたるべきじゃあなかったな……)
キーナは魔術書に挿し込んだ栞の位置を確認しながら自戒した。
窓の枠を越える手前で、顔を覆うベールに魔力を流し込む。魔法具の効能は「周囲へ音が漏れることを遮断する」というものである。
枠を越える前に一度、指を組んで礼をする。
(見送るのはあまり好きじゃない。……それが今の僕にしかできないことだとしても)
足輪がぶつからないように、綱を渡る様な運びで乗り越える。そのまま、音も無くバルコニーの中心に立った。見渡す町は黒く塗りつぶされ、どの家も喪に服していることが分かる。
少年は裸足のまま、背後にて閉じられた窓を気にすることなく東へと身体を向ける。次は西へ。そして、南向きに正面を戻すと閉じた魔術書の背をもって掲げた。
さらり。と、指に繋がれたシースルーの黒色が朝凪に攫われる。
(魔術は――使う度に、あいつの血の存在を思い知らされるから、嫌いだ)
青灰の瞳は、町の向こうに広がる草原を映す。しかし彼は諦めた様に目を伏せ、魔術書に魔力を流し込む。派手な音を立てて鍵が外れた。
(……………………)
儀式の手順を踏む姿を、無関心な視線で見下ろす自分が居る気がした。
「……鎮魂は煙、海風は宙船。聖樹の根元、敬いは根に、感謝は幹に、祈りは葉に。骨は石へ、石は砂へ、砂は土へ、土は蔦へ。還りたまえ――孵りたまえ」
弔いの儀に個人の感情を持ち込むことは許されない。
「……アルストロ・マーコール。この町に希望をもたらした彫刻士よ。我々は貴女を歓迎し、歓待し、ここから送り出そう。そして再訪を願おう。彼の旅路に、悲しみがないことを祈る――」
紡がれた言葉はベールの内部で反響する。
外に届くことのない祈りの言葉が耳から脳へ染み込んでいく。音で飽和していく意識を繋ぎ留めつつ、魔術書を開いた。
挟まれていた銀の栞は細い杖に形を変え、少年の手の中に収まる。
「葬送者、キニーネ・スカルペッロ=ラールギロス。以上を惜別の言葉とする」
黒衣の内側で諱を紡ぐ。
白色の瞳孔が見開かれた。
「――遷移歌七節、『彼は転じて正しき形を得る』」
「……魔術書に指揮棒? 詠唱は聞こえないけれど――」
黒衣の少年を観察していた黒髪の少女は思わずつぶやく。黒魔術に特化しているとはいえ人族用の魔術を中心に使用する彼女にとっては、始めて目にする詠唱方法だった。
隣にいる針鼠を伺えば、彼も食い入るようにしてキーナの姿を見ていた。
固く結ばれていた口元がおもむろに開かれる。
「……禊歌ですか」
「ああ、よく知っているね。実際に見るのは初めてかい? 美しいだろう」
レーテは言って、優しい眼差しをキーナへと向ける。
祝詞と詠唱に伴い魔力を練り上げていく灰髪の少年は、ベールの内側でひたすらに何かを口ずさんでいるようにも見える。
ラエルはしばらくキーナを観察していたが仕組みが理解できなかったらしい。眉間に皺を寄せて針鼠の方を振り向いた。
「ハーミット、禊歌って?」
「白き者の国がある第四大陸で主流の魔力制御技術だよ。比較的年若い層が使うものなんだけど……」
「年齢制限があるの?」
「制限というか、白き者は元々魔力値が高い人が多いからね。禊歌は詠唱と共に行うことで魔力の流れを御しやすくするものだから、魔力制御ができるようになった大人が使用することはまずないんだ」
多分、キーナくんが使おうとしている魔術は中級か上級に区別されるものじゃないかな。
ハーミットはそこまで説明して、しかし悩むように顎元に指を添えた。
『しかし徹底していますです。蝙蝠の耳にすら音が届きませんです』
「魔導王国から取り寄せた魔法具で詠唱が漏れることを防いでいるんだよ。耳に届く音の並び次第では不慮の事故が起きかねないからね」
「不慮の事故って?」
「臓器が潰れたり、血が茹って肉が破裂したり、全身がひび割れて砂になったりだね」
レーテが笑顔で答えると、スカリィが額に青筋を浮かべて引き攣った笑みを浮かべる。
ラエルとノワールは耳に届いた内容を一字一句脳内再生して後に、やや引いた。黒魔術というわけでもなさそうなのに、影響も代償も大きすぎやしないだろうか。
少しも失敗が許されない魔術制御など、魔術をよく暴発させているラエルにしたら鬼門のような存在である。興味はあれど使用してみようとはとても思えなかった。
「ふふ、そんなに不安な顔をなさらないで。そうならないように魔法具があるのですから――ハーミットさんも、魔導王国の魔法具技師の腕前には信頼があるでしょう?」
「ええ。もっとも、私が知っているのは浮島に所属している魔法具技師に限られてしまいますが、発展の規模で言えば第二の技術にも劣らないと思います」
思考を中断して表情を切り替える針鼠。気になることはあるが、今はそれを問うタイミングではないと判断したようだ。詠唱を行っていた灰髪の少年に動きがあったからだ。
指揮棒から形状変化した栞を持ち、魔術書の鍵がかかる。
「ああ、そろそろだね」
レーテが言い終わるが早いか、静寂な町に鈴のような、鐘のような音が鳴り響いた。
一回、二回、三回――。
その音に呼応するように、町を覆う結界が波打つ。
細動は跳ね返り、町の黒を少しずつ薄めていく。
服の灰色と同じぐらいの明度になると、服の色にも変化が現れる。
「……白に近くなっていく……?」
「……!」
魔力はともかく、素材の色はそう簡単に変えられるものではない。
色は物体の形状に対応した反射光だ。それを魔術で変化させるということは、魔力を介して素材の質を変化させていることと同義である。
(文字通り、存在の色を塗り替える魔術式――素体すら使わないとは)
針鼠はコートの内側、静かに拳を握り込む。怒りや焦りではなく、純粋な安堵だった。
六年前に彼のような存在が居ると知られていたら――考えるだけでもぞっとする。
町を塗りつぶしていた黒色は、彼が足元の魔法具を十二回打ち鳴らしたところで一面白色に差し替えられた。
汚れを感じさせない漂白したかのような純白が真上に登った日の光を反射して鮮やかに光り輝く――そうして丁度、時報を兼ねる教会の鐘が町に鳴り響いた。
灰髪の少年は最後に足を揃え、深く礼をする。
純白の礼服に身を包んだ彼は開かれた窓へ足を踏み入れる一瞬、こちらに視線をなげた。
青灰の瞳はベールの下で見開かれ――ラエルとハーミットの他にも観客が居たことに気が付くと、一旦は貼りつけたような笑みを作る。
彼はそうして何事もなかったように窓の内側に消えた。
「……」
「……」
『……』
「すごかっただろう? 今は手塗りで町を塗るより、彼に任せた方が早くてね。あと数年はお願いするつもりでいるんだが――うん? どうかしたかい二人共。ノワールくんも」
すがすがしい顔で振り向いたレーテを余所に、黙り込んだ二人と一匹。最初に反応したのは蝙蝠だった。目を細めて眉間に皺を寄せるとテーブルの上からハーミットの膝の上に降り立つ。
針鼠は蝙蝠の固い爪に太ももを引っ掻かれたのか口の端を歪め、それからお茶を飲む為に開けていたコートの襟を閉める。
ラエルは耳をすまし、そろそろだろうかと屋上の出入り口を見やる。
――――ッばぁんっ!!!!!
強烈な音と共に開け放たれた扉。そこには肩で息をする少年の姿があった。
床につきそうな程に長い礼服をたくし上げて腕に抱え、素足のまま走って来たらしい。指輪に繋がれた鎖がじゃらじゃらと音を立てる。
顔面蒼白、灰色の髪は乱れ、慌ててかけてきたらしいハーフリムの金縁眼鏡がずれている。
つい先ほどまで高度な魔術を使用していたのと同一人物であることを疑いたくなるような破顔ぶりだった。
「なんであんたらがここにいるんだ……!?」
「ははは……やあ、キーナくん」
「昨日振りかしら」
「に、苦笑いでごまかそうとするんじゃない!!」
『我々に言われても困る、です』
ノワールは面倒臭げにつぶやいて、くぁ、と欠伸をしてみせた。