117枚目 「牙魚のポタージュとアポイント」
イシクブールの朝は早い。少なくとも、ツノ付きの獣人ペンタスの起床は早い。
……夢を見た気がする。きっと幸せな夢だったに違いないが、よく覚えていない。
(結局、恩人だからと無理を言って泊まってもらったけれど。彼らはよく眠れただろうか)
慣れもしない他人の家で、それこそ町に来たばかりの魔導王国の人間が身体を休められるような寝床を提供できただろうか――青年は眠気の残る瞼をぎゅっと閉じ、そして開く。
(……料理の匂い?)
普段は朝一に起きて町の情報誌を配達することで小遣い稼ぎをしているペンタスだが、それ故に日が昇りきらないこの時間に料理をする習慣はない。
コトコトと何やらスープを煮込むような音がする。味見をしたのか、嚥下の音が聞こえた。
音がするのは彼の家のキッチンである。獣人である彼には魔力が殆どと言っていいほどないので使うのは専ら薪式なのだが、どうやらその音とも違う。
ペンタスは急いで寝間着を替えて自室を出る。昨夜は寝落ちするまで彫刻を磨き続けていたので節々が痛い。軋んだ床の音で、調理をしていた相手が振り向いた。
波打つ黒い髪が、リリアンで丸くまとめられている。
紫の瞳は青年の姿を映すと、優しく歪められた。
「おはようペタさん。眠れたかしら」
「お、おはようございますラエルさん。眠れた……ような、そうでもないような?」
「あはは。そんなに正直に答えなくてもいいのに」
「めぇ」
相槌がなまるが、それを抑える気力もない。ペンタスの目に入ったのは、台所に見慣れない調理器具を置いて鍋をかきまわすラエルの背姿だった。
乾いた土の床を、革靴が行ったり来たりする。
火の熱でうっすらと滲んだ汗がうなじを流れる。青年は思わず目を逸らした。
「ペタさんは、お肉とか食べないのよね?」
「えっ、あ、はい。余程の事が無い限りは」
「……良かった。ハーミットに聞いていたのよ、獣人さんが食べられるものと、そうでないもの――魚は食べられるかしら?」
「はい」
「じゃあスープに魚肉、追加するわね」
野菜だけでは栄養が足りないと判断したのか、少女は事前に火だけ通していた魚をポーチから引き出すとクリーム色の鍋に投入する。牙魚の緑革が野菜の色味に混ざっていく。
「あ、あの」
「なあに」
「ハーミットさんは……?」
「ああ、彼ならサンドクォーツクで依頼された配達物を届けに行っちゃった。彼、この町に初めて来たわけじゃないらしいの。『道は分かる』とか言って走って行ったわ」
「めぇ……サンドクォーツクで依頼を?」
「そうよ。衛兵さんから」
魔石瓶式コンロの熱を止め、黒髪の少女は用意した器にそれを盛る。
「これは、芋をすり下ろしたものに水を足して、香草と野菜と魚を突っ込んだだけのものなのだけど」
「……めぇ?」
匙と共に手渡された具沢山のポタージュに、弾かれるように顔を上げるペンタス。
「貴方の分よ。というか、少し多めに作っちゃったから食べる人が多いほど助かるわ」
「!?」
「おかわりもあるから、遠慮なく言って頂戴ね?」
「容赦なく逃げ道が塞がれていくっ!?」
抵抗しつつも出されたスープを口に含み、ほおを緩ませるペンタス。少女はその様子を見て安堵の表情を浮かべた。目元の隈も、昨夜会った時に比べたら幾らかひいている。
丁度、タイミングを見計らったように戸が開かれる。鼠顔の少年はニコリと笑った。
「朝から実に平和だね。ただいま戻ったよ」
「あ、お帰りなさい。届け先は見つかった?」
「ばっちりさ。……俺の分、ある?」
「一杯はおかわりできるんじゃないかしら」
手洗いとうがいを済ませた針鼠もどきに、スープ入りの器を差し出すラエル。市場で買った「枝」という白パンをスライスして盛りつけると、空いていた丸椅子の上にのせた。
スープは牙魚の白身と水に解けた芋の粒が絡みあい、何とも言えない舌触りである。たまに鼻を抜ける様な香草と海の匂いが、どことなくサンドクォーツクで食べた油料理を思い出させた。
ラエルは持ち合わせの食材を思い出しながら、明日は何を作ろうかと思案する。
外では名も知らない鳥が鳴いている。町の外にある草原では崖下の海へと流れる朝風が奔っていることだろう。ジワリとした湿り気が頬を撫で、土の床は色を変える。そんな静かな朝食は、針鼠の匙が置かれたところでお開きとなった。
「……ペタくんは、これからどうするんだ?」
「どうする、と言いますと。生計のことですか?」
「それも含めて。昨日は大分打ちひしがれてたから」
「そりゃあ、長年一緒に暮らしていた家族でしたから多少ショックは受けましたが――最期には立ち会えましたし、十分ですよ。めぇ」
後五十年ぐらいは生きると思ったんですけどねぇ。と、黒く塗られた他の家を眺めつつ獣人は呟く。少年少女は複雑な心持で顔を見合わせた。
昨夜。ペンタスの家に招き入れられたラエルとハーミットはことのあらましを聞いていた。
イシクブールという町一つを黒く染める程の弔い。その葬列の棺桶に入っていたのが誰なのか、既に知っている。
石工として有名だった祖母の遺品を、ペンタスは磨き布と共に腕に抱いた。
先日の火事で煤けたそれは、布を滑らせた横から真珠を想起させる光沢が蘇る。
「ペタさんは、彫刻士を目指すの?」
「いえ。……ボク、石工になるためにこの町に来たわけではないんです。第二に家族はいますけど、いられなくなったからこっちに来たというか」
「……」
「初めてここに来た時も試行錯誤しながらお店を開いたり日雇いの仕事をしたりしましたし。暫くはそれで食いつなぐことにします。頼れる隣人も居ますし、めぇ」
自身の脇腹をくすぐったあの灰髪眼鏡の事を思い出したのか、青年は気丈に喉を鳴らした。
「ハーミットさんたちこそ、この後どうなさるんですか?」
「私たちは元々この町に来ることが第一目標だったから、暫くは町に居ると思うけれど……」
「仕事を始める前に町の管理者に顔を通さないといけないからね。まずはそこからかな」
「めぇ。イシクブールの管理者というと、町長のスカルペッロさんですね」
スカルペッロ――可愛らしい家名だが、イシクブール発祥のきっかけである「石工」を始めたのがこの家系の先祖らしい――ラエルは二人の話を聞きながら、資料室で目にした情報を整頓する。スカルペッロというのは、確か鑿を意味する言葉だ。
「面会申請はしましたか? めぇ」
「俺が魔導王国から送った手紙が無事に届いていればね」
ハーミットは何故か遠い目をして肩を落とす。数日予定が遅れたことが原因で、本来なら用意できていた筈の宿が取れなかったことを思い出したのだ。
町長自身が多忙であれば面会の時間だって限られる――前回アポイントを取ったのと同じだけの時間を魔導王国の役人相手に割いてくれるかは、予想もつかない。
(まあその時は最終手段として、俺がこの鼠顔を取ればいいんだけろうどさ……)
その場しのぎには良いとしても、人のうわさはすぐに広まるものである。
町の中で素顔を晒すことはできるだけ避けたいというのがハーミットの本音だった。
彼がこの町を最後に訪れたのは、六年と少し前なのだから。
「地方紙の配達で挨拶をする印象からすると、とても気さくな方なのできっと大丈夫ですよ! めぇ!」
空元気を振りまくペンタスから根拠のないエールを貰い、二人は一宿の礼をして町へ出た。
心傷を負った青年の家に何日も世話になろうという図太い神経は持ち合わせていない。今日こそは宿を取らねばと、まずは宿屋へ向かう。
町の入り口辺りの広場では本日のチェックアウトを済ませた商人や観光客が真っ黒な石畳に座り込んで何やら話し込んでいた。近い内に行われる祭りが無事開催するのかどうかが気になっているのだろう。
少年少女は昨夜最後に訪れた宿屋で本日分の部屋を取った。
どうやら昨日の今日で天幕市場方面へ行った観光客も居るらしい。イシクブール的には損失だろうが、空室の存在は嬉しいものだった。
ついでに受付係の女性に例の家について聞いてみる。
ノハナ草のような濃い緑のラインが入った白襟に銅細工。黒いベストを着た彼女は、褐色の眉間に皺を寄せながら必死になって営業スマイルを繕った。
「ち――町長さまのお宅に用事があるんですか?」
「そう。手紙が届いているかどうかも分からないんだ。何処かで確認できたりしないかな?」
「ぅう、恐れ入りますが配達関係はさっぱりでして……」
「なるほど、それは仕方がないわね。どうするの?」
「どうするというか、回線繋いでもらうしかなさそうだね。それならできそうですか?」
「は、はいっ。いま暫くお待ちくださいませ」
慌ててカウンターの向こうを走り、上司とみられる従業員とやり取りして。栗髪の彼女は白い煙のような模様が入った球体型回線硝子を持ってきた。
ハーミットは礼を言って、手袋越しに硝子を触れる。
球体の中の煙のような模様が動き、像を作り出す――映し出されたのは赤茶の髪をした目の細い男性の姿だった。高そうなシャツを着ている割には、腕を捲って手には鎌を持っている。頬は土で汚れているようだ。
『――あれ、蔦囲いの宿からじゃないか。どちら様だい?』
こちら側を覗きこむような姿勢を取ったことを確認して、ハーミットは一歩前へ出る。
「お取り込み中の所申し訳ありませんスカルペッロ様。我々は魔導王国、浮島より派遣された使いの者です。数週間前に意見交換をしたい旨を封書で伺ったのですが、町に辿り着くまでに幾つかトラブルがありまして。初回のご挨拶が対面ではなく回線を通してのものとなったこと、また元の予定より遅れがあったことをこの場を借りて謝罪させてください」
『……して、君の名前は?』
「私の名が『強欲』だと言えば、現在の状況を理解して頂けますか?」
『……冗談にしてはできすぎているね』
「確かに」
針鼠はそう言って、口元に笑みを浮かべた。
黒髪の少女はというと、宿屋の装飾を観察するフリをしながら引いていた。普段の一人称が「俺」の人物が、意図的に「私」と名乗っているのだ。何だか寒気がする。
『封書は無事に届いているよ。面会なら、今日が丁度空いている』
「では、本日お伺いしても構いませんか。私ともう一人、同僚が同行しますが」
『一人が二人になったところでもてなすことに変わりないさ。私の屋敷の場所は、宿屋の方々に聞くと良い』
「ありがとうございます」
『……できるだけ早く迎えに来てくれたまえよ?』
「はい――……迎え?」
『ああ。迎え、だ』
そのやり取りを最後に、回線は途切れる。
形作られていた像は煙のような模様へ溶けて痕形も無い。やり取りを終えたハーミットは徐に顎へ指を当て、受付係はそそくさと回線硝子をカウンターの内側に片付けた。
「誰か先に屋敷に着いているみたいな言い方だったな……今回の出張で一緒に行動してるのは君だけだし……じゃあ誰が……」
「難しいことを考えなくても、実際に会えば分かる話じゃないの」
「そうだね――受付さん。屋敷までの道を教えていただけますか?」
「はい。町の地図がこちらになります」
ハーミットはその場で購入したイシクブールの地図と受付係の指し示す場所とをにらめっこしながら目的地を目にする。
おぼろげな記憶と照らし合わせても、町長の家の位置は変わっていないらしかった。
(声でばれなきゃいいけど)
「……大丈夫?」
「んー。ちょっとだけ考えごとをね」
煮え切らない風に言いながら地図を手にして受付係にお礼を言いつつ二人は宿を出る。
広場を通り抜ける途中、もみあげを弄る黒髪の商人の姿があったことには気が付かなかった。