113枚目 「謎肉のサンチュ」
クァリィ共和国入国から四日目。
野営中に襲撃あり。見張りをしていたハーミット・ヘッジホッグが単身で撃退した模様。出国前の負傷に加えてクラフト運転の疲れと、今回の交戦での新たな怪我が気にかかったために後部座席に乗せたが、しばらくして親方さまなる人に従事する子どもたちに絡まれて交戦。敵意はないらしく、薬らしいものを譲り受けた。
同日中にシンビオージ湖のほとりにある天幕市場の西端に辿り着いたものの、スケジュールの遅れを取り戻す為に夜間の移動を試みる。道中、東の天幕市場の一群が賊に襲われている現場に遭遇、鎮火と実行犯の捕縛を行った。
尚、賊たちの首謀の行方は分かっていない。
「……こんなものかしらね」
前日の夜に書きそびれた日記を綴り、うねる黒髪の毛先が揺れる。
詳しくは、目的地である町に着いてからまとめると決めていた。
机があるのとないのとでは記入する内容にも変化があるだろうと思ったのだ。
ラエルは手帳をポーチに収めると、持ち歩いている水を取り出して髪を濯ぐ。
サンドクォーツクを出発してまだ三日目だが、髪の軋みを感じるようになってきた。魔導王国で良い生活をさせて貰っていたが故の現象である。
(毎日シャワーに入るとか、旅人には贅沢過ぎるものね……荒唐無稽かもしれないけど、クラフトに家のような機能がついていたら随分と楽なのに)
現在地からイシクブールまでの距離はさほどない。少しクラフトを走らせれば余裕を持って到着できるだろう。
黒髪の少女はぼんやりとする頭でスケジュールを組むと、貸して貰っていた藁のベッドから降りる。
「……」
一考。
「……家主はいずこ」
この場合は天幕主が正解なのだが――難しいことを気にするほど、少女の体調は良くなかった。
草木の繊維や生物の毛を編んで作られた天幕は、夏は涼しく冬は暖かい。
賊の襲撃によって燃えてしまった天幕もあったようだが、規模のある商会の天幕は魔術耐性が付与されていたらしく無事だった。ラエルたちが泊めてもらった場所も、無事だった天幕――というよりは馬小屋――の一つである。
昨夜の襲撃での被害は天幕や商品の焼失に留まり、犠牲者は一人も出なかったらしい。
とはいえ、売買が商人の生命線であることを考えると手放しで笑える話ではない。
(「命があれば」って言いはするけれど、生きていくにはお金と食べ物が必要なのよね)
消火に魔力を使いすぎて今の今まで眠りこけていたラエルは、朝方にハーミットが天幕を後にする様子を見送っていた。
化け物染みた体力と対応力。
見習うにしてはハードワークすぎるな、と少女は思う。
簡単に仕切られた馬小屋の天幕からのそりと暖簾をはけるようにして顔を出すと、鼻息を荒くした馬の鳴き声が聞こえた。
見れば、その辺の木に轡の紐を繋いだ黒い馬がゆうゆうと草を食んでいる。
「……ぶふっ」
ラエルを一瞥するなり鼻を鳴らした黒い馬 (頭頂部に角が見えるので黒曜馬だろう)は、黙々と草を口に運ぶ。
黒髪の少女は寝ぼけ眼のままそれを見つめ「美味しいんだろうか」とぼやく。
馬はあきれた様子で、もう一度鼻を鳴らした。
「――あ、ラエルさん! おはようございます!」
「あぁ、おはよう。……えっと、ペンタスさん?」
「へ? さ、さん付けなんて恐れ多い! 『ペタ』で良いって昨日言ったじゃあありませんか!」
「ごめんなさい、実はそのやり取りの記憶が無くて」
「そ、そんなぁ……めぇ」
茶毛の馬の毛を慣らしていた手を止め、眠たそうな目をしている獣人の青年が渋い果実を齧ったような顔をする。
額には黒くねじれた二本の角。短毛の茶毛が全身を覆っており、勿論顔も例外ではない――浮島のアルメリアやラーガはかなり人に寄った姿をしていたが――獣人にも色々居るのだなぁと、ラエル・イゥルポテーは寝起きの表情筋に鞭を打ち、余所向けの笑みを作った。
何故昨日出会ったばかりの獣人が彼女の名前を知っているのかといえば、ラエルを連れて戻ったハーミットに対して、彼が自らの諱を惜しげも無く開示したからである。
工房主や商人は名前でブランドと責任を担う人も多いので名乗られること自体は珍しくはないのだが、諱を告げられた以上、こちらも名乗らないのも失礼だと判断したのだ。
まあ、ラエル・イゥルポテーは自身の諱を欠片も知らないし、ハーミット・ヘッジホッグだって諱を明かしたわけではないのだが。青年はそれで満足したようである。
「それじゃあペタさん。あの針鼠が何処に行ったか知りたいのだけど」
「はい! ハーミットさんは被害を受けた市場のフォローに向かわれました。なんでも被害に遭った商品の売り上げを保証するとか――あっ、ハーミットさーん」
青年ペンタスが手を振ると、市場方面で何やら話込んでいた鼠頭 (っぽい人影)がもそりと動いた。重要な話は済んだのか、その場に居た商人に促されるようにしてこちらに向かって来る。
コートは羽織っておらず、黒のタートルネック姿だ。この見た目だとどうしても顎の部分が露出して人族であることがばれるのだが、血塗れのコートを着て怯えられるよりはましだと思ったのだろう。
(あのコート、浄化魔術がかけられていないのかしら)
「おはようラエル。眠れたかい?」
「ええ。快適だったわ」
そう言い切った黒髪の少女の言葉にハーミットは相槌を打って、横に居る黒曜馬を目にとめると顎に指を添える。
黒曜馬は過去に軍馬として重宝された希少種だが、それを第三大陸で連れ歩いている人間は一人しか心当たりがない。もみあげの濃い商人の顔を思い浮かべる二人。
「まさか昨日の今日で?」
「貴方も、そう思う?」
「丁度、市場を一通り回って話をつけてきたところなんだけど……見かけなかったなぁ」
「……ハーミットさんたちは、あの黒曜馬の乗り手とお知り合いなんですか?」
ペンタスの言葉に顔を見合わせる少年少女。
角をかりかりと弄りながら青年は言葉を続ける。
「カフス売りのグリッタさん。天幕市場では有名な方ですね」
「えっ、そんなに有名なのあの人」
「えぇ。有名というか、顔馴染みといいますか。彼はよく天幕市場に出店しに来るんです。いま目の前にある東市場まで来て、そのまま湖を一周するようにして第二大陸に戻るんですよ」
「も、戻る?」
「はい。ボクの記憶が正しければ、ここ六年近くはイシクブールに来てないはずです」
「……?」
ラエルたちは首を傾げる。グリッタの目的は「イシクブールの蚤の市」だったのでは。
「というかペタくん。君、イシクブールの人なのかい?」
「はい。ちょっと事情があって今回は一人で店を開いていたんですけど。いつもは祖母と一緒に、町で石工彫刻を作っています」
「へえ、彫刻士!」
「めぇぇ。……まあ、簡単な掘りと磨きしか、させて貰ったことないんですけどね……?」
照れ半分、自虐半分といった笑みを浮かべて、ペンタスは口元を抑える。
なまりが出るのが気になるようだ。ここは第二大陸より人族を相手にすることが多い土地なので、口調を気にする者も多いのかもしれない。
「あっ、そうだ!」
「へっ、何」
「ラエルさんもハーミットさんも、朝食まだ頂いてないんじゃないですか? 市場はもう復旧しているそうですし、商人さんたちも喜ぶんじゃないかと思うんです」
「き、昨日大火事になってたのにもう立て直したの!?」
「それは、まあ。あの程度は日常茶飯事ですし……売れるものはさばかないと勿体無いですから!」
法にのっとる真っ当な範囲であれば何が何でも金を稼ぐ。これぞ商人根性。
ツノ付きの青年は言いたいことを言い切ったのか、すごすごと茶毛の馬の隣に戻っていった。どうやらブラッシングの続きをするらしい。
後に残された針鼠もどきと黒髪の少女は釈然としない気持ちを抱えつつ、天幕市場で朝食をとるという方向で意見を一致させた。
ペンタスが言った通り、昨夜燃え盛っていた現場は活気ある市場と化していた。
呼び込みの為に張り上げられる声、安売りの札、書き直された商品名――焼けた肉は焼けた肉として。燃えた木材は炭や灰として。使い物にならなくなった果物や野菜は肥料として――売れるものは何が何でも売りつくすという執念を感じる陳列内容である。
ラエルは幾つかの天幕を巡って食材と朝食の調達をすると、市場内にある小さな広場の丸太に腰掛ける。本日の朝食は焼かれた何かの肉 (焼き上がると色が同じなのでほぼ判別不能らしい)を、萎れてしまった葉野菜で包んだだけのものである。
「これぞ謎肉」
「?」
「ん。美味しい」
「そ、それは良かったわね?」
針鼠の少年はたまによく分からない言葉を口にするが、ラエルは諦め混じりに慣れてきた。
噛みごたえのある赤肉は、肉屋の主人が選んでくれたものだ。
(歯ごたえが魚とも鳥とも違う……獣肉ってこういう味なのね)
思考しつつ無言の食事が終了する。肉汁からは仄かに塩の味がした。
「よし、それじゃあ今後のスケジュールを簡単に説明しようかな」
朝食を終えたハーミットは口元を拭う。薄い朱色の上を赤い舌が這った。
「まず、今日は休息日にする。移動も仕事もなるたけしない。これは決定事項」
「朝から仕事をしていた人間に言われると説得力がないわね」
「……と、ともかく。俺も君も無理を重ねてるもんだから今日ぐらいは休まないと――まさかイシクブールで力尽きるわけにはいかないだろう」
ハーミットは腕を負傷しているし、ラエルは前日に魔術を暴発させてしまっている。
この状況でクラフトを運転しても事故を起こす危険性が高まるだけだ。
黒髪の少女は、束ねた髪を指で弄びながら苦い顔をする。
前日の夜に走行距離を稼ごうとしたあの判断が吉と出たのか凶と出たのか。あの火災を日常茶飯事の一言で片づけた商人たちに、果たして手助けが必要だったのか。今となっては微妙なところである。
「あと、俺たちは現場の当事者として第三大陸のお役人から聴取を受ける必要がある」
「へっ」
「聴取自体はイシクブールで行われると思う。心配はしてないけれど、嘘は吐かないように」
「思わぬ足止めにはなりそうね」
「……俺があの時突っ走らなければ、ね」
「何言ってるのよ。あの日の風向きからして、時間のずれはあっても貴方は火災に気付いたと思うし、私が止めたとしても突っ走っていたでしょう?」
「それはまあ、その通りなんだけど……」
針頭はもさもさと揺れる。ラエルはその様子に苦笑して、それからすっくと立ちあがった。
「ほら、くよくよしないの。ともかく、今日はこの市場周辺で過ごすのよね?」
「うん。その予定」
「それじゃあ、早く回りましょうよ。昼なら良いんでしょう?」
人の数も騒がしさも市場内で食事を終えた以上、気にするそぶりはない。ようは慣れと経験。少女が欲しかったのは、人混みの中で危険なく身動きがとれるという保証――それらは、今隣にいる針鼠がもたらしてくれるだろう。
「お仕事をしないっていうなら、一緒に買い物でもどうかと思うの」
手袋の水色が、茶革の腕を引いた。