110枚目 「流水の斧槍」
真っ暗な草原を、淡々と駆けるグラスクラフト。
ラエルは魔鏡素材の可視範囲を知らないが、運転に支障がない程度には視野があるようだ。クラフトに搭載されたカンテラが丘陵に光の帯を引いていく。。
「ねぇ、ハーミット」
「何だい、ラエル」
「グリッタさんは警戒対象なの?」
後部座席の取っ手を握りながら少女がぼやく。
もみあげが濃い中年の商人グリッタ。彼はサンドクォーツクで知り合ったばかりの人族だ。
しかし、ハーミットは彼と初めて出会った時から、ずっと警戒していたように感じられる。
街の門前で軽装であることをやけに気にしていたり、少女と商人の間に割って座ったり。加えてわざわざ人前で磨く必要のないナイフを、見せつけるように砥ぎながら――緊張の糸を途切れさせることはなく。ラエルがあまり眠れなかったのもそのせいだ。
隣にいる少年から緊張感が伝わりすぎて、脳を休める事があまりできなかった。
これでは二人で野営した時の方がリラックスできていたのではないだろうか?
「……警戒というか、何と言うか」
少年はハンドルを握りながら、「ぱしん」と音を立てて鼠顔を背中に回す。風を感じるためか、耳に入る音を少しでも多く拾いたいのか。
既にグリッタらが居た天幕市場は遥か後方だ。巨大な湖のほとりであることは変わりないが、この辺りにある天幕の灯りは、あらかた落ちている。
「人族相手だとやりづらい、っていうのはあるよ」
返って来たのはそっけない言葉だったが、形容しがたい感情が読み取れる声音だった。
ラエルは目を丸くしながらバランスを取る。運転に慣れていない少年はクラフトの重さに振り回されがちなところがあるので、何気なくフォローしているのだ。
(きっと、バレているんだろうけど)
「そうなの。私だって人族だけど?」
「ラエルはほら、出会った時の状況が特殊だったし……なんだかんだで俺のこと知ってるから」
「何言ってるの。私は貴方のことを全然知らないわよ――寧ろ、一方的に知られてるみたいでむずがゆい時があるくらい」
「ははは、それは気がつかなかった。ごめんよ。仕事じゃなきゃ俺も、君のことを調べる事はなかったんだろうけど」
その場合は、こうして二人旅をする末来はなかったかもしれないね。
少年は呟いてハンドルを切る。より緩やかな丘陵を選んで走行しているらしい。
クラフトに取り付けられたカンテラの放射光で前方は照らされているが、その先は闇が続く。
「……えっと、グリッタさんの話だったよね」
「ええ」
「匂い、っていうのかな」
金髪少年の視線は、橙の灯りで照らされたその向こう側にある。
「薬の匂いがするんだ。あの商人――鎮静剤とか、眠剤とか、毒剤の」
「毒って」
「人族が持つには物騒だろう? ……白き者でもないのに、不自然だ」
「?」
「まあ、それだけが理由って訳でも、ないんだけどさ」
なぜ白き者の話がここで出てくるのだろうか。少女は疑問を口にしようとしたが、辞める。嫌な臭いがしたからだった。
鉄のような、油のような。
「……ハーミット。ここから東南の方向って何かあるの」
「んー、強いて言えば、だだっ広い草原地帯が広がっているはず――ん、これは」
呟こうとして辞め、少年は無言で鼠顔を被るとクラフトの進行方向を変える。
ラエルは振り落とされないように体制を直し、前方へ視線を移した。
湖からはやや距離をとって走行して来た二人だが、急角度をつけるように湖の真横にクラフトをつめて走らせていく。
しばらく走り丘を二つ越えると――カンテラの橙の代わりに燃え盛る火の赤が目に入った。
昼間のように空が焼けている。焦げ匂いに混ざって、何が原因かも予測できない異臭がした。
「……」
「……」
クラフトのギアが一つ下ろされる。
見ると、少年がクラフトの座席の上に立っていた。
思わず声を上げようとして、奥歯を噛みしめるラエル。少年の足で固定されたハンドルはびくともせず、何なら一定の速度を保って走行を続けている。
「な、ななななな!?」
「俺は走った方が速いな。ラエル、火をどうにかして消して欲しい。頼んだ!」
「えええ!? っちょ、うわ、ハンドル、馬鹿っ急に離さないで!?」
後部座席から前方に入れ替わり、崩れた重心を勘を駆使して立て直す。黒髪の少女がその場で一回転分ドリフトする頃には、少年の姿が遥か前方にあった。
成程、確かに丘陵が続くこの辺りの地形では、地面との距離が決まっているクラフトで走るよりも足で走って坂から坂へ飛びつく方が遥かに速いのだろうが――どうにも厄介である。少女一人なら諦めてしまいそうな状況に、黄土色のコートに袖を通した少年は躊躇なく突っ込んでいく!!
「――っ、く」
向かい風に混じった独特の刺激臭。血と肉が焦げる匂い。
慌ててラエルはクラフトを走らせるが、ハーミットはあっという間に燃え盛る天幕市場の一角に突入して姿が見えなくなった。
それを追って近づく度に、天幕が焼けた灰が頬を掠めていく。
「これは、ちょっと――っでも行くのよね!? どうにかするんだものね!?」
燃え盛る天幕の列に近づくにつれ周囲が暖かく感じられるようになってきたが、これはきっと受け流す壁が効いているからこの程度で済んでいるということなのだろう。
それならとラエルはクラフトを降りて収納し、ゴーグルーを目にかける。
魔力を可視化する作用があるそのレンズ越しに、少女は息を呑んだ。赤々と火の粉を散らす天幕の火には魔力が通っている。誰かが意図的に燃やしているということだ。
なら、魔力を込めた何かしらで伝導を断たなければいけない――手っ取り早いのはより強力な魔力で介入して打ち消すか、逆属性の魔術をぶつけるか。
「にしても、これを、消せと!?」
(火は水に弱いけれど、水量がないとかえって大火事の原因になる――風は、もっと駄目)
脳内に式を作りながら、ラエルは市場周辺を駆け回る。
逃げ出した人が居ないということは、外に出られぬよう結界でも張られているのだろうか。しかし火の中からは人の気配がする。
耳に届く金属音。風を切る音――刃物、そして弓矢だろうか。
中で交戦しているのだとすれば、これを引き起こした人間には火が効かない?
(そうか、ハーミットの持ってる衣は魔法耐性がついているんだった。似たような術式のケープでもあれば、後は空気の問題を風魔術でどうにかしたら動けるってわけね)
――とはいえ、事態は一刻を争う。
(燃えないためには、私なら水を全身に被る、けど)
考えろ。考えろ。
(こんなにある天幕に水を纏わせるなんて、風すらまともに扱えない私にそんなことができる? 空気中の水は霧散しているでしょうし、素体になる水があったとしても手持ちの分じゃとても足りな――)
ずるっ。
「!!」
どしゃああああ!!
「うきゃあああああああ!?」
気を取られ、長い草の上を転げ落ちるラエル・イゥルポテー。乾燥した単子葉類が少女の両腕を切り裂いていく。状況把握の為に上ばかりを見て走っていたせいだった。
受け身はどうにか取れたが、痛みから焦る思考が一気に空回りを始める。
「……っ、けほ、どうしてこのタイミングで滑ったりなんかっ……!?」
ただでさえ時間が無いというのに、ただでさえ魔術が不慣れだというのに。
両腕には怪我をして、頬の切り傷が鋭敏に痛覚を刺激する。痛みは集中を散漫にさせるというのに何ということだ。
恐怖が無いだけに、役に立てない自分が許せない。どうしよう、どうすればいい。
あの少年が自分を頼るというのなら、何かある筈なのだ――何か。何かが。
だってあの少年は今まで、黒髪の少女が越えられない課題を出したことは無かっ……たような気がするのだから!
(……いや、ちょっと待って。そういえば私、今まで出された課題ですら完璧にやり遂げられたこと無い気がしてきたんだけど――できないことは頼まないわよね? まさか、ねぇ?)
そうして立ち上がろうとして、踏みしめた足場が草の生えた土の上でないことに気付く。
言うならば泥のような、砂利のような。
足が浸るのは、空気や草とは違う冷たい感覚。
「――――」
そう。
天幕市場は巨大な湖を囲うように存在している。
素体。大量の水。そこには十分な材料が揃っている。
ラエルは、顔を引きつらせる。まさかとは思うが、そのまさかなのだろう。
(風を使うのもやっとで、土を扱おうとして魔力制御失敗して死にかけた黒魔術士に、皿洗いとは程遠い量の水を即座に操れって随分と酷なことを求めるじゃないの!?)
「っていうか、人の命かかってるんだからどうにかやれってことよね!?」
いつの日か趣味の悪い赤と黒のストライプの天幕で、少年がした無茶ぶりを思い出す。幾らなんでもか弱い乙女に何故そんな期待を――期待し過ぎだろう!
こめかみに青筋が浮く。彼の無茶ぶりに振り回される目つきの悪い白魔導士や赤髪の騎士の気持ちが、この時ばかりは理解できた。
しかし、ここでやらなければラエル・イゥルポテーがこの場にいる理由は無い。
「ぜっっったい、ぜったい憶えてなさいよハーミット……!」
ラエルは水色の手袋のまま、湖に腕を突っ込む。
湖面が波打つ。湖の水面には瞬く間に少女の魔力が浸透していく。
「『流水の斧槍』――悪意ある『火』のみを矛先に!!」
少女の魔力に触れた先から、水の槍が幾本も形を作る。
知識で知っているだけの黒魔術が矛先を生命体以外に変えたところで攻撃性を失うのかといえば、術者の少女からしても知ったものではないのだが!!
詠唱を皮切りに射出された幾本もの水槍。
それらは見事な弧を描き、燃え盛る天幕市場に降り注ぐ――。