107枚目 「人の眼は天に懸く」
目を開いて、世界を知覚して、ああ、これは夢だと思い知る。
夢を夢と認識できるこの状況をどう過ごしたものか。毎夜、手に余る時間だ。
白い砂漠の中に、今日は一人だ。
夢見が悪い時のシチュエーションとしてよくあるものだが、今日はそのどれとも違うように思える。慣れない場所で無理に寝たからかもしれない。
(北も南も同じ陸の上なのに、どうしてこうも環境が違うのかしらね)
乾いた砂の土地。嵐の音が近付いている。
幻と分かっている空はどんよりと薄暗く、数日以内にやって来る酷い天候を予感させた。
(そういえば、雨の匂いが濃い気がする)
水の匂い。水を含んだ土から、砂からせり上がるむせ返るような匂い。
(……嵐? いいえ、違う……あの日は雨なんか降っていなかった)
視界が滲み、ピントがずれる。
いつの間にか少女の周囲には砂利の道と、サンドクォーツクに似た砂岩の壁が現れた。自らを圧倒するように、言うならば追い返そうと、真っ白な城壁が圧を放っている。
(……確かに、パリーゼデルヴィンドには大きな壁があった様な気がするけれど)
今は、無い筈よ。
少女は呟こうとして、それから呪いをかけられたように喉から声が出ないことを悟った。
脳内で綴った言葉の輪郭は覚醒に伴って千切れ、再現不能なほどに散り散りになる。
どうしてか、酷く眠い。
草が倒れて擦れ合う音。
カムメの声。渡り鳥の羽音。温かい陽だまりの熱。
まどろみから覚めた視界が、徐々に輪郭を取り戻す。昨日よりほんの少しだけ強い風が草原を駆け抜けて、雛が鳴くような音を立てる。新緑色の海が鳴いているかの如く。
「ん。おはようラエル」
「……おはようハーミット。今、何時?」
「六時だよ。君が起きる予定だった時間より一時間は早い」
少年の姿は昨日と変わらず黒の長袖タートルネックである。手のひらには茶革の手袋がされているが――その周囲からほんのりと、身に覚えがある香りがした。
「朝食を作ったんだけど、君の口に合うかが心配でさ。実験しつつ軽食をね」
「……」
何度か口を開け閉めしつつ、喉から声が出ていることを認識したラエルは寝ぼけ眼のまま、金髪少年の顔をゆるりと見上げた。
少女の膝の上には薄い毛皮が二枚。一つは多分少年の物だろう。
「ラエル?」
「何かあったの」
ハーミットは少女の言に琥珀の瞳をぱちぱち瞬かせると、ノハナ草をパンに挟んだそれを遠慮がちに差し出す。飲み物を器に注ぐことも忘れない。
「何も? 強いて言えば試作のスープが激苦い代物になったというだけで」
「……なるほど、原因はそれなのね。紛らわしい匂いがしたものだから身構えちゃったわ」
食用の野菜として流通している植物の中には、鉄のような香りを伴なう物が存在する。
ノハナ草もその一つで、煮出すと鉄のような独特の金属臭がするのである。
(気のせいよね)
黒髪を手櫛で整えて、魔法で集めた水で濯ぐ。リリアンを巻き付けた。
旅服には浄化魔術が作用しているので無理に取り替える必要はない。有事の為に数着同じものを用意して貰っているとはいえ、この着心地の良さだと着替えるのを忘れてしまいそうだとラエルは思う。
最低限、服の皺を伸ばす努力をして――それも杞憂だと気づいて手を放す。どうやらあの工房主は皺伸ばしの手間すら省いてくれたらしい。細かい部分まで手が回る職人である。
金髪少年は琥珀の目を泳がせながら自作したスープを含んで「うびゃあ」と顔を歪める。
煮出したノハナ草は相当苦いようだ。ハーミットはラエルがパンに手を伸ばしたのを見て身支度が終わったと判断したのか、スープの器を片手に寄って来る。
「嫌な夢でも見たのか?」
「……どうしてそう思うのかしら」
「なんだか眉間の皺が消えないみたいだから、さ」
つん、と額を小突かれたラエルは眉間に入った皺を更に深くする。
「生憎、憶えてないのよ。まあ、気分の良い夢じゃあなかったことは確か」
「そっか。俺も夢見は悪い方だから、仲間ができたみたいで新鮮だな」
「?」
「俺の周りには悪夢を見てもケロッとしてる奴が多いからさ。自然に俺自身もそうなっちゃう傾向にあってね――そういう話をすることもあまり無いから、新鮮」
「……ふぅん」
眉間の皺を解いて、察するに彼も昨夜はあまり寝れなかったのだろうと少女は思い至った。
少年の両腕の痛みが引いているのか、いないのか。黒い生地の下に隠れたそれは傍目には分からない。
ラエルはノハナ草とパンを口に突っ込むとおもむろに立ち上がって、まな板を皿代わりに朝食を摂るハーミットの、使っていない右腕を軽く握った。
「いっ」
咀嚼を続ける口の端からほんの一瞬、声が漏れる。
「……」
「……」
昨日の夕方の時点ではここまで酷くなかったはずだ。
この少年は本当に、昨晩何も無かったとしらばっくれるつもりなのだろうか――。
肩にかかった黒髪を払ったラエルは盛大な溜め息をついて後に、視線を逸らしたまま帰ってこない濁った琥珀を紫目の瞳で凝視する。敢えて、何も聞かない事を選んだ。
「……あははは」
「別に構わないわよ。ただし、その状態でハンドルを握らせてもらえると思わないことね」
長距離移動は慣れている。ただ、この二か月でどれだけスタミナが鈍ったかが分からない。
疲れを感じたら直ぐに休憩を取れるようにしたい――少女は地図で現在地を把握しながらペース配分と本日までに走った距離と時間を勘で計算しつつ、今日で湖のほとりまでは行けるだろうと結論を出す。
飲み込んだ薬草の香りをスープの鉄臭さが凌駕して蹂躙するのを舌に刻み付けながら (ノハナ草を煮出すのは辞めようと心に刻みながら)、ラエル・イゥルポテーはハーミット・ヘッジホッグの熱を持った腕に冷たい布巾を押し当てたのだった。
交代制でひっきりなしに走った昨日とは違い、頻繁に小休憩を挟みながらの道のりである。
クラフトの諸々の点検を済ませ受け流す壁搭載ゴーグルーを装着、魔術を発現させた。黄色い魔力子が点描の魔術陣を形成して周囲に薄い膜を張る。
厚みはそれほどないものの、中級黒魔術の直撃すら防げる仕様だと言っていた。
一昔前なら国宝級の盾と勝負できる代物ではないだろうか?
「魔術が発展した魔導王国ならではだよね。……とはいえ、普通は一般人の国外派遣にここまで技術とお金をかけることはしないだろうけど」
触れると魔法が解ける特殊体質であるハーミットは、鼠顔の上からゴーグルーをかける。二人が今回支給されたそれは「範囲内の物質に対して防御結界を構築する仕様」である。
極端に言えば、このゴーグルーを使いながら手元で魚を捌くことはできないのだ。刃こぼれが先になってしまう。
ラエルはクラフトの駆動に魔力を注いでまたがるとアクセルを回す。「ヴァァゥン」と、良い音が鳴った。これで運転することができる。針鼠の少年が乗るのを待って、発進した。
「必要経費については聞かないようにしてきたのだけど、今回私が受けた仕事の準備にかかった費用って、どれぐらいになるの」
「聞きたい?」
「正直聞きたくないけど知りたいわ」
ハーミットは少女の声を拾いながら、ふと空を見る。湿り気を増した風に吹かれた雲が、延々と続く緩やかな丘陵の上に浮いていた。
「俺のボーナス三回分ぐらいはかかってるかな。先行投資みたいなもんさ」
「……投資先を間違ったりしていない……?」
「大丈夫。王様のポケットマネーから出てるから誰にも迷惑はかけてないよ。んー。個人的には良い貢ぎ方だと思ったんだけどな」
「新手の貢ぎ方ね」
「深く考えることはないよ。それだけ君が期待されてるってことさ」
(着実に外堀が埋められている気はするけど)
少年が最後まで口にすることは無いが、その程度の想像はできたらしい。黒髪の少女は言葉にならない声で唸る。ゴーグルーの紐で抑えたポニーテールが向かい風にひらめいた。
風が湿っているとはいえ、今日は晴れている。林道に沿って馬車道は引かれてるが、道を外れて飛ぶことができるクラフトには関係の無い話だ。なだらかな下りも登りも、同じように低空飛行で走り抜けていく。
クラフトを握りこぶし程浮かせている風魔術。魔力駆動のオイルが跳ねる音。
アクセルを握る手から時折聞こえる革が軋む音。
推進力を生む為に作られたマフラーから、水蒸気が溢れる音。
――左方から風が吹く。
ハーミットは、無言でラエルの肩をつっついた。
「なあに」
「ラエルって、砂漠でもクラフトに乗っていたんだよね。砂魚とかに襲われた時はどうしてたんだ?」
「……突進で駆動を撃ち抜かれたらお終いだから、まずは逃げるわ。で、正面に余裕ができたら周囲を撃ち落とす。それの繰り返しよ」
「なるほど。後ろに乗る人間は大変そうだ」
「その場合は一度降りて交戦して貰うのよ。後で拾いに行くの」
「ふむ」
少年は少女の腰に緩く抱きつくような姿勢をとっているが、その指先がほんの少し圧をかけた。紫の瞳が翳る。
「草原なら林道みたいに隠れる場所もないし、絡まれる心配も無いと思ったんだけどな」
「……それは、面白い話かしら?」
「いいや、退屈な話だよ」
ラエルはその返答に、クラフトのハンドルを左に思い切り振る。
速度を落とすことなく、振り落とされる形で――いや、タイミングを合わせて跳躍した少年の両手には既に細い針が握られている。
緩やかな丘の向こう側。僅かな死角に膝を立てていたのは、じゃらじゃらと貴金属を身に着けた見るにも怪しい輩であった。
見立ては当たらずとも遠からず、彼は飛来した少年の姿を目にするなり刃物を構える。
「んなっ!! 子どもの方か!?」
「ああああぁん!? 子どもとは失礼だなああああ!?」
「えっ、沸点低すぎじゃ――ぎゃあああああああああ!?」
(あーあー、丘の向こうだから何をしてるか分かりやしないわ。楽しそうなのは確かだけれど)
あらかじめ、戦闘開始を意味する合言葉を決めていて良かった。ラエルはそう思いながら、指摘されるまで気付かなかった人間の気配を探る。
(クラフトの音で誤魔化されるほど、耳は悪くない筈なんだけれど……この距離で察するなんて、人間辞めていたりしない?)
速度を落としたクラフトの左後方、魔術が飛来する気配に沿って草原を滑る。
(真後ろ)
ブレーキを入れながら思い切りクラフトを回す。
背後に迫っていた矢尻は受け流す壁の表面で削られ、草原の上へと残骸が散った。
無言でクラフトのギアを上げる。鼻を衝くのは、濃い血の香り。
「……」
ラエル自身に怪我はない。追撃の気配も無い。
纏わりつくような悪意や殺気の類も感じられない。
「……」
「おーい、終わったよー」
「やっぱり」
少女は肩を落とす。声の主の所まで辿り着くと、走らせていたクラフトの駆動を止めた。
矢が飛来した方角。
二人の輩を縛り上げた針鼠は、とても良い笑顔で待っていた。