103枚目 「葉先と牙魚」
海風が塩辛い。空は目に刺さるほど青い。
石づくりの船都市、サンドクォーツク。白い晶砂岩で組み上げられた石畳は、数多の人間に踏み鳴らされ――まるで木の根を張るように、主要の街道を構成している。
ラエルとハーミットが泊まっていた「晶砂岩の宿屋」は街のシンボルとも呼べる高台の上に鎮座している。鉄瓦とタイルで覆われたこの建物こそ国賓を受け入れる為に作られた宿泊施設であり、出入国管理局と直通する観光客の玄関口だ。
街の騒がしさから距離を取った場所に建っていることもあって、仕事以外の理由で現地の住民がここに顔を出すことは殆どない。巷では「宿泊料が高い宿屋」扱いである。
太陽が真上を通り越してしまっているので、どうしたものかと腕を組む針鼠。
ラエルが聞いてみれば、どうやら夜盗と出くわす確率をできる限り下げたいとのことだった。
「夜盗って、盗賊のことよね? 本にのってたわ。第三大陸の地方紙にも行商人が襲われたって事件が取り上げられてた」
「サンドクォーツクの八月刊?」
「え? ……あぁ、多分そうだったような。よく覚えてるわね」
「俺だって、伊達に情報収集してた訳じゃないから」
針鼠は言って、砂岩の街へ降りる階段に足をかけた。階段には見栄えをよくするための色が塗られていて、今彼らが踏んでいるそれは鮮やかな黄緑色をしている。
「それにしても、緑色ばっかりね」
宿屋で敷かれていたタイルも緑調の物が多かったように感じる――ラエルは少し考えて、あとでメモにでも取って置こうと思った。
「ノット教によれば、第三大陸は『聖樹の葉先』だとされているんだよね」
「……そんな話もあったわね」
「それもあって緑色が凄く普及してるみたいだよ。新緑というか、若芽の色。それこそ枝の末端に開くような葉の色だ。加えて、漁獲の多い牙魚の鱗もあつらえた様に緑色」
「ふぅん」
「あんまり興味なかった?」
「いえ、ためにはなるのだけど。私、元ノット教だから……複雑ね」
第三大陸のことを調べた際にサンドクォーツクの歴史や文化のさわりに触れている黒髪の少女は、気まずそうに視線を逸らしてみせた。
第三大陸南部に位置するクァリィ共和国は、魔導戦争が起きる以前から獣人や魔族との貿易をしていた人族が集まってできた国である。
大陸左手に獣人の国、右手には魔族の国があるのだから、それは必然だったのかもしれないが――この「聖樹の葉先」という表現は、あまりいいものではない。
同じ人族が住む土地でも、第一大陸と第三大陸とでは考え方が違うのだ。
「聖樹の葉先」とは、ノット教で神聖視される白木聖樹を世界に見立てた場合の末端――都市とされる第一大陸から極めて離れた場所にある異国、異境の地を指す皮肉である。
「その呼び方を定着させたのは、第一大陸の某国王でしょう? だからこそ、大手を振って『緑色が綺麗な街だ!』とは、なり辛いわ」
「ふむ、確かに。景観に歴史の俯瞰が入ると純粋に楽しめなくなることはあるだろうけど……。まさかラエルがその境地に達しているとは思わなかったな」
「貴方はそういうこと、無いの?」
「あるよ。実際、浮島で人族が生活するのがどんなに面倒か。嫌というほど身に染みてるし」
あっけらかんと言い切るハーミットに、ラエルは最後の段差を降りると「はぁ」と溜め息をつく。疑いを晴らすための資料集めが目的だったとはいえ、一度は頭に叩き込んだ知識だ。端を引き出せば、後は芋づる式に記憶と知識が解放されていく。
「今思えば、ノット教にも例の宗教にも、それぞれ変だと思う部分はあったわ」
「?」
「けれど、信じるとか信じないとかじゃあなくて、既に染みついているからこそ聖樹信仰の思想を受け入れようとしちゃうというか、どこかで納得している自分がいるのよ。……その感覚だけは、まだ抜けないみたい」
「……」
話しながら道を行けば、海風を防ぐ為に細い小道と乱立する軽食屋の前に出る。あっという間に道に迷いそうな路地を抜け、少年は目に入った露店で棒の刺さった飴を二つ購入した。
黄金の海の様に揺らめく発光体を内包した魔法菓子。輝きは少年の虹彩を思わせる。
「これ、砂糖菓子なんだけど。食べる?」
「え。……ええ。ありがとう」
ラエルは手袋越しに棒を指でつまむと、硝子の様に透き通った飴色の端に歯を立てる。
あっという間に飴の三分の一が噛み砕かれた。
強靭な顎の力に呆気にとられたハーミットだが、彼にとっては珍しい光景でもないので特に気にしない。
「……そういう物だと思うようになったら、人はそうなってしまう生き物なんだろうと思うよ」
「?」
「いや、経験則だけどね」
針鼠は包装紙が付いたままになっている棒付き飴を口元に寄せる。
隠している口に届けるには、人に見られない場所まで移動する必要がある。
針鼠は棒付き飴を進行方向に傾けた。
「君は、誰か初対面の人にスフェーンのことを紹介しようとするとき、どう表現する?」
「スフェーンさんを? ……魔導王国の白魔導士で白き者だ、って説明すると思うわ。あと、目つきと口は悪いけれど、できるお医者様」
「うん。目つきと口調はともかく、それでいいと思うんだ。君がそうであったように、『気付き』や『理解』が、意識を変えるきっかけになることがあるんだって、俺は知っている」
「……なるほど?」
「難しかった? つまりは『学び続ければ良い』ってことだよ。ラエル」
獣人もどきは言って空を見上げる。
晴れ渡った青空だ。雲一つなく、鳥の一羽も飛んでいない。
第三大陸は南半球に位置しているので現在は夏。とすれば、少年が危惧しているよりは少し長く――日が落ちるまでに猶予はあるだろうか。
「どうしたの、ハーミット」
「予定変更だ。今日の間にできる限り進むことにしよう」
「いいけれど、……昼は過ぎているし、きっと二日後は雨よ?」
「……背に腹は代えられない。それに、酷くなって嵐にでもなれば道が水没しかねないし」
水没という言葉をきいて、少女は眉を寄せる。
「湖が氾濫するんだよ」
獣人もどきはその後に続けて「シンビオージ湖があるからね」と口にした。
シンビオージ湖というのは、第三大陸の南部中央に位置する巨大な湖の事である。
故郷には夜な夜な現れる氷柱ぐらいしか水源が無かったので、ラエル・イゥルポテーの辞書に氾濫の文字はのっていない――そもそも、第三大陸にシンビオージ湖ができたのはそう昔の話ではないのである。
「使う道は山側にしようか。崖から海側に押し流されたらひとたまりも無い」
「……氾濫って、水が沢山流れてくる様な災害なの?」
「そう。大雨とかで湖や川に溜められる水量を超えて、溢れる。これが氾濫だ。地形によっては濁流が押し寄せることになったりして危険なんだよ」
「ふうん」
砂漠で生活していた少女には、大量の真水が流れている状況こそ想像がつかないのだが。
海のような飲めない液体が、波になって襲って来る様子を考えてみる。
想起するのは、以前センチュアリッジ島で目にした、崖下の波打ち際だ。
「……恵みの雨が凶器になる事もあるのね」
「まあね。その辺りは恵みを育てる海や砂漠と変わらない」
「恵み?」
すっかり噛み砕かれて棒だけになったそれを口にくわえようとして、ラエルはハーミットへと視線を落とす。魔鏡素材が太陽の光を弾いて輝いた。
「その心は?」
「どちらも魚が泳いでる」
「……」
「あ、あれぇ、おかしいなぁ……」
針鼠の少年は首をひねった。どうやら笑いを誘おうという魂胆だったらしい。
黒髪の少女は少し考えて、そう言えばこの針鼠は少年ではないのだったと思い出し、余計な事は言わず大人しくこのやり取りを聞き流すことにした。
年下の女性に気を遣おうとするなど、百年は早いと思った。
晶砂岩の宿屋は基本入国許可が下りるまでの仮宿なので、彼らは許可が下りた時点でチェックアウトを済ませていた。街に降りれば宿屋は嫌というほどあるし、食事にも観光に困ることも無いからだ。
サンドクォーツクは貿易と観光産業を中心に成り立っている街ということもあって、晶砂岩の宿屋の内装にも見られた「晶砂岩文化」を前面に押し出すためか、街道は煉瓦造りで内装はタイル張りという石材ばかりの組み合わせが多く見受けられる。
そんな街の中で異彩を放つのはやはり、道を挟んで隣接している聖樹教会と不死鳥教会だ。
砂岩で組み上げられた両の教会は「我らこそが」と己が権威を主張するかの如く堂々としたたたずまいである。
「街道へ出る道は、こっちか」
「人、多いわね」
「この街は陸側の門が一つしかないからね。しょうがないと言えばそうかもしれないけど……確かに、多いな……」
並んでいるのは商人が連れた馬たちである。紋章が違うので、海を越えた向こう側からも集まってきているのだろう。馬車を引く灰馬や茶馬の中に混ざって黒曜馬の姿も見受けられる。
二人は最後尾に並んでいた商人の後ろについた。ついでに情報収集を試みる。
「もし、そこのお兄さん」
「んぁ? ああ。どうした鼠の童」
「この馬車たちは何処へ行く予定なんですか」
「ああ、ここから東に行ったところのイシクブールで、大規模な夏の蚤の市があってなぁ。今年は第二大陸からも商人が来てるっていうんで、この大渋滞さ」
商人は伸びたもみあげを摘まみ、頬の皺を歪めながら豪快な笑みを浮かべる。
「童こそ、護衛してもらいながら旅行か? 背に似合わねぇ良い服着けてるし」
「背……」
「うん? 違うのか?」
「あはは。ごめんなさい、身長がコンプレックスなのよ。彼」
琥珀が濁っているだろう少年と何も知らない商人との間に入り、取り敢えずラエルは笑ってみせた。何処の土地でも笑顔は警戒心を解くに十分なものである。
しかし、少女はそこで少年の方を振り向いた。
「……ところで蚤の市って何?」