99枚目 「晶砂岩の宿屋から」
しんしんと降る雪も、たまに降って来る白い砂も。美しさに惹かれて手にしてみれば、等しく濁った灰色だった。
ねえ母さま。 はどうして「ダブル」なんだろう。
皆と同じような色のついた髪じゃなくて、皆と同じような目の色じゃなくて、どうして「ダブル」なんだろう。
そう問うと。幼いながらに分かり切っていた答えを、母さまは復唱する。
『貴方は、私とあの人の子どもだから』
……知っているさ。帰ってこない男のことも。ああ、知らない筈がない。その血がこの身体の中に流れていることだって。貴女がずっと泣きながら待っていることだって、知っている。
けれど。どうして は母さまに似ていなくて。どうしようもなくあの男の姿に似ているように、産まれてしまったんだろうか。
この華奢な身体に。この細い肩に。灰色の髪に。青灰の瞳に――どうして?
母さまは、毎日待っている。
あの男が帰って来ると信じて、待っている。
は として生きたいのに。
母さまは。僕にあの男の姿を見るんだ。
伸びる背を呪い、変わる姿を憎み、いずれ低くなる声を恨んで。
僅かな抵抗として、帽子のつばに指をかけた。
「……ふああ」
夢すら見ることなく起床して、好き勝手に跳ねた黒髪を指で梳いて、遅れて鳴り出した目覚まし鈴を止めた。
「……」
黒髪を梳く手を止めて、鏡を見る。
(なんだか、浮島を出た実感が沸かないわね)
日課であるシャワーを済ませ、湿る身体を乾かして。すっかり慣れた下着に袖を通し、それから壁に掛けていた真新しい服に手を伸ばす。
足先まである黒レギンスと、太もも部分にベルトが付いたショートパンツ。
七分袖でノーカラーの胸元が特徴的な水色のワンピースを被って背中のカフスを留め、腰元をベルトで締めた。
金色の糸で刺繍が入った灰色のケープを肩に羽織る。胸元の紐をカフスに巻きつけて固定し、くるりと翻る。
鏡に映るのは、マツカサ工房製の旅装に身を包んだ自らの姿。
黒髪の少女は紫の瞳を瞬かせた。工房で散々直しをくらったので既に目が慣れてしまっているが、過剰な装飾のないシンプルなデザインである。
彼女が服に求めるのは機動性と機能性、周りから浮かない程度の見た目だけだった。今回の出張に合わせて同じような旅装を数着、予備で用意してもらっている。
幼いころからサバイバル生活を嗜んでいた彼女からすれば、浮島で部屋を借りていたときのように服が何着も手元にある環境は憧れこそすれ、自分には合わないとも感じていた。
彼女は浮島生活を通し、気に入った組み合わせの服を何度も着る癖があると自覚したのだ。
それなら、これと決めた組み合わせの服を飽きるまで着る方が楽でいい、と考えたのである。
乾かした癖のある黒髪を整えて編み込み、一つに纏めた。
黒髪の上に、白黒の真新しいリリアンが揺れる。
「……」
一文字に結ばれた口角を、普段するように「きゅ」と上げてみる。
鏡の中の少女は、不器用なりに笑みを作る。
「……」
この部屋には、黒髪の少女が一人いるだけである。寝起きにノハナ茶を勧めてくる同居人も、ぴょーんの掛け声とともに飛びかかって来る獣人も居ない。
静かな朝を迎えた個室には、最低限の手荷物を詰めた『引き出しの箱』搭載のウエストポーチと水色の手袋が、備え付けの棚にぽつんと置かれている。
(一度は鍋で煮込んでしまったけれど、こう、見違えたわね……)
つい一週間前まで只の魔法手袋だったそれが、金属製の甲が付いたワンタッチ着脱式の新様式になって戻って来た時には目を疑った。それでいて以前よりはるかに使い勝手が良いのだから、技術者の情熱には頭が下がる思いである。
とはいえ、手袋は手袋。籠手のような堅牢さや重さは無い。
あくまでも魔術を制御することを目的とした装備だ。装着し、指の可動性を確認する。
「さて。支度は済んだし、朝食に行きますか!」
少女は意気込んで木枠の扉を開く。タイルの廊下と、部屋番号が振られたプレート。
黒髪の少女は持ち出した荷物に忘れ物が無いか確認して、部屋の鍵を閉めた。
一階、エントランス。
一般客も出入りするタイル張りの上には幾つか革張りの椅子が備え付けられているが、その一つに見慣れた姿がある。背もたれの向こうに伸びた棘針は、毛並みに沿うように落ち着いていた。
街の住人だろうか。いいや、一般客は不思議なものを見るかのような視線を投げている。
見慣れない獣人が居ることに――いや、「魔導王国の紋章を身に付けた獣人」がエントランスに居座っていることに、違和感があるのかもしれない。
注目の的となっている少年だが、茶色の革手袋をした鼠顔の針頭は右に左に揺れるのみで気にしている様子も無い。緑色のブックカバーが施された書籍を開きながら、次へ次へと読み進めていく。ちらりと見えた中身は、少女の知らない植物類が描かれた図鑑のようなものだった。
黒髪の少女はその背姿に近づくと、革張りの背もたれを指で叩いてから話かける。
「おはよう。へ……ハーミット」
「ん、おはようラエル。早起きだね?」
「貴方が早すぎるのよ。昨日だって、私より先に起きていたでしょう」
「ははは。元々ショートスリーパーだから、それが原因かもしれないな」
鳥のモチーフが描かれた栞を本に挟んだ少年は顔を上げるが、その首元に白い肌は少しも伺えなかった。黄土色のコートの襟はぴっちりとじられて、外界に彼の肌がさらされることを許していない。
肩に留められた針の山は、首回りを覆うように配置されている。
浮島に居た時とは違い、彼は今「獣人」としてこの場にいるのだ。
(こうしていると、只の獣人にしか見えないわね……)
黒髪の少女――ラエル・イゥルポテーは鼠頭の鼻先を「つい」と突き返した。
「まずは朝食だけれど、その前に。今日一日の予定は?」
「特には無いよ。役所が君の入国書類を受け入れるまで、この宿からは出られないからね」
過去にこの地へ入国したことがあるらしい針鼠――獣人もどきのハーミット・ヘッジホッグは既に審査を通っている。それでも宿に留まっているのは、パートナーであるラエルの入国審査が終わっていないからだった。
ラエルは灰色のケープを指で弄りながらソファの背に肘をつく。座る気はないらしい。
「私が言うのもなんだけれど、事前に審査しておくっていう選択肢は無かったの?」
「この国は入国者を受け入れて後に審査を開始するという厄介な特性があってね。こればっかりは俺もお手上げだよ。郷に入っては郷に従えってやつ」
「どれぐらいかかるのか、目安は?」
「……始めてここに来た時は、五日は待った」
「結構長いわね」
「俺も、君と同じで無国籍だったからね。そりゃあ根掘り葉掘り色んなことを聞かれたけれど……ラエルはそんなことなかったんだろう? なら、今日か明日には入国の許可が出るんじゃないかな」
そうのんびりとした口調で、しかしはっきりと見通しを語った針鼠はショルダーバッグの空間魔術に書籍を突っ込むと、伸びをしながら席を立つ。
「朝食は軽く済ませようか? それともがっつり食べたい?」
「うーん、予算と味によるわね」
「予算は魔導王国から出るから、気にせず好きなものを食べると良いよ」
「じゃあ砂魚より美味しいもので」
「……俺、君にとっての砂魚の評価がたまに分からなくなるんだけど……」
それじゃあ油料理にしようかなぁ。とぼやいて、宿屋内にある食事処の扉を押す針鼠。
ラエルはその後ろに続いて、降りかかる視線を気にしながらも今日一日をどう潰そうかと思案した。少しだけ俯けた頭は、すぐに上げられる。
まずは、腹ごしらえが先だ。
足止めを食らおうが頁は進む。
第三大陸南西部、クァリィ共和国――首都、船都市サンドクォーツク。
彼らが晶砂岩の宿屋に閉じ込められてから、既に二日が経過していた。