97枚目 「出発前夜」
……長い、長い、三日間だった。
「よ、ようやく部屋に戻って来られたわ……死ぬかと思った……」
「お疲れ様ですぅ。お茶でも飲みますぅ?」
「お邪魔してるぴょーん」
「ありがとうストレン……。大丈夫、自分で用意するわ」
靴を棚に置いて腕輪を外し、襟元を緩めるラエル・イゥルポテー。
「そして実に自然にエルメさんが居るわね」
水を飲み込んで後、ストレンが腰かける椅子の対角線上に座る獣人の女性に目を移す。
茶色のショートカットは毛先が赤く、橙色の瞳が爛々と輝いていた。
「神出鬼没が通常運転のアルメリアだぴょーん! 久しぶりー、ポテー」
「久しぶり」
烈火隊の練習に参加しなくなってからは殆ど顔を合わせていなかったラエルは、獣人特有の鋭い爪と牙を確認しつつ首を傾げた。
いや……確かに「久しぶり」と言われればそのような気がするのだが。
「どうかしたぴょーん」
「いいえ。何でもないわ」
黒髪の少女は語尾についての言及を避ける事にした。
「ストレン、シャワー使うわよ」
「どうぞぉ」
着替えを用意してシャワー室に消えたラエルを目で追って、エルメは目を半眼にした。
「ストレンは呼び捨てなんだぴょーん……いいなあ」
「いいなあ、じゃあないですよエルメ。私も彼女も、喧嘩した後に『さん』付けして呼び合うのが馬鹿らしくなってしまったというだけの話なんですから」
ストリング・レイシーはそう言って、焼き菓子の追加を硝子の皿に投入する。
「ワタシもポテーと喧嘩したら仲良くなれるぴょーん?」
「無理でしょうね。というか、今でも十分仲がよろしいじゃないですかぁ? 貴女たちは」
「それもそうだけど、ぴょーん」
何だか不服そうな獣人の視線を躱しながら、ストレンはちゃくちゃくとノハナ茶を用意する。買ってしまった茶葉は飲み切るのがストレン流である。
「……香りからして苦いぴょーん」
「つべこべ言わずに私と一緒に飲んでください。まさかこんなにも早くラエルが出張することになるなんて予想もしてなかったものですから茶葉が有り余ってるんですよぅ……」
「獣の舌には拷問だぴょーん」
言いつつ口に運びはするエルメに、ストレンは苦笑いしつつお茶を飲み込んだ。
黒髪の少女は軽く浴びるだけだったらしい。水音が止み、温風装置の音と衣擦れの音を経て戸が開く。
「あれ。ラエルさん今から出るんですぅ?」
黒髪の少女の服装は部屋着のそれではなく外出用のワンピースだ。
武器と防具の最終調整でついさっきまでマツカサ工房に閉じ込められていたとは思えない服装である。
「今日は最後の夜だから、散歩でもして回ろうかと思って」
「……そのリリアン……」
「気づいた?」
ラエルは髪を三つ編みにするとリリアンを結んだ。半透明な白黒の糸で編まれたそれは色の組み合わせこそ違うものの、少し前に燃えてしまったものと同じデザインである。
「さっきカルツェに貰ったの。物々交換みたいになっちゃったけれど」
私があげたものは随分と細かったのだけどね。と言いながら、小さな紙袋の包みを机に二つ置く。ストレンとエルメは目を瞬かせた。
「お世話になった人に配って回ってるのよ。まあ、必要ないなら処分は任せるわ」
「い、いいんですぅ!? エルメはともかく私まで!?」
「ぴょーん!! やったぁ!!」
「凄い喜ぶわね……。あ、それじゃあ行ってくるわね」
「いってらっしゃいですぅー!」
「ぴょーん」
青いワンピースでポーチ片手に出て行った黒髪の少女を見送って、残された二人は紙袋を開封する。暫くの沈黙の後、ストレンとエルメは顔を見合わせた。
数秒後、堪えられなくなったのか笑い出す。
「こ、これは。えっと、きっと知らないんでしょうねぇ? ふふふ」
「そうだねー、多分知らないね。教えてないカルツェもカルツェだよー、ぴょーん」
「まあいいですよぅ。きっと私達だけですからぁ、明日は見せつけてやりましょう!」
「ぴょーん」
烈火隊の名に相応しい色。赤と橙の糸で編まれたリリアン――魔導王国では、赤い糸で編んだそれを、唯一と決めた恋人に贈るのである。
(……なんて、今頃騒いでいるんでしょうけど。資料室に入り浸る前に沢山買ったそれを捌く為に作ったなんて、言える訳がないわよね……)
黒髪の少女は心の中でぼやきながら、灰色の回廊をゆく。
魔導王国には獣人の国の文化も色濃く影響した物が多いが、その一つがリリアンだ。どうやら糸の色で願掛けをする際に用いられるそうで、それは城内に敷かれた絨毯が灰色であることや、教会の絨毯が白い糸で編まれていたことにも関係がある。
(灰は仕事。白は鎮静。赤は愛情。橙は友情。そして黒は力)
赤い糸だけで編み上げてしまうとそれこそ告白染みたものになってしまう。そう教えてくれたのはカルツェだ。リリアン自体は制作に時間がかかるものではないので、それぞれに合うように色を混ぜて贈ることにした。
カルツェとスフェーンには赤と白。
ストレンとエルメには赤と橙。
ロゼッタやモスリー、ベリシードとフランには赤と灰色。
昨日、それぞれの職種に色を合わせながら買いすぎた赤色の糸を丁度使い切ったのだ。
色の合わせ方や編み方を教えてもらったので全員分を用意するには半日を要したが、それでも貰い手の反応を見たあとの感想を正直に言うと、作ったかいはあった。とでも言おうか。
散歩を口実に浮島を歩き回る理由も、残る二つの紙袋をそれぞれ相手に手渡すためだった。
(あと渡してないのは、アネモネさんと彼だけね)
とはいえ、四天王の現在位置を知る様な権限をラエルが持っているわけも無い。通行人の姿も無いので、歩き回っていた三棟五階の渡り廊下手前で聞いてみる事にした。
「えっと……貴方はアネモネさんの現在地を知っていたりするかしら? いま、私を見張っている貴方のことよ」
これで誰も監視がついていなければラエル・イゥルポテーは独り言の激しい黒髪の少女となってしまうのだが。問いかけをして直ぐ、頭上に紙片が降って来た。
反応が返ってきたことに驚きつつも、ラエルは内容に目を通す。
『現在、嫉妬は一棟訓練場前』
「……本当に教えてくれるとは……ありがとう、顔の見えない貴方」
紙片が示した通りに共同訓練場の前にさしかかると、扉の前でストレッチをする赤い三つ編みを見つける事ができた。
「こんばんは、アネモネさん」
「おっ。ラエルちゃんじゃねーか!」
細長い銅版がついた鍵をくるくると指で回しながら振り向いた。
どうやら鍵を受付まで返しに行く途中だったらしい。
「こんなに遅い時間まで訓練?」
「ははは、大体そんな感じだ。ラエルちゃんは?」
「散歩ついでに人探しをしていたのよ」
紙袋を取り出してアネモネへ手渡す。内容を確認したアネモネは口元を緩めた。
「んー? これは、どういう意図で?」
「カルツェとスフェーンさんに聞いて、親愛の意味で貴方に渡すのであれば、赤は含めない方が良いって言われたから。……灰色と黒って、組み合わせが地味かも知れないけれど」
「いや、どんぴしゃだぜ。ありがとなー、ラエルちゃん」
灰色と黒の糸が混ざったリリアンを指に絡めたアネモネは、少しだけ寂しそうに目元に皺を作った。
「訓練とかで切れても困るからなぁ。部屋に飾るとかでも構わないか?」
「どう扱うかは受け取った人に任せる事にしているの。今回は材料を買ってしまっていたからリリアンだけれど、次からは食べられるものにしようと思ってるわ」
「承った。いやほんと、助かる」
あの人に嫉妬されちゃあ敵わんからなぁ。
――耳に届いたその言葉に踏み込んではいけない何かを感じたラエルは深く言及することなく、最後の探し人について尋ねる事にした。
アネモネは前髪をかきあげるようにすると、明後日の方向へ目を向ける。
「適当に歩き回っても会えないと思うぜ。あいつは遠征前になると大体同じ場所でぼんやりしてんだよ」
「同じ場所」
「噴水広場が無事なら、可能性の一つとしてあったんだけどな。中央広場じゃなきゃ、確実に何処かの棟の屋上に居ると思うぜ」
「屋上って、普通は立ち入り禁止なんじゃ……」
「四天王ともなれば許可一つであがれるんだ。行ってみて入り口の鍵が開いてる棟が正解」
「そう。しらみつぶしに回ってみるしかなさそうね。ありがとうアネモネさん」
「おうよ――って、んあ?」
移動を開始しようとした黒髪の少女の顔面に紙片が音も無く落ちる。
咄嗟にレイピアを抜こうとしたアネモネだが、一度経験済みの少女は落ち着いた様子でそれを摘まむ。
「……今三棟の屋上に居るみたい!」
「何だそりゃ」
「私を監視している人にアネモネさんを探して貰ったのだけど、多分気を利かせてくれたのね。二度もありがとう、顔の見えない貴方!」
「か、監視役をてなづけてんのな……」
「言い方が悪いわね……こんな風にお願いしたのは今日が初めてよ。できれば今日中に渡したかったものだから」
紙片を仕舞って、黒髪の少女は三つ編みを揺らす。
蝶結びの白黒リリアンがその動きを追いかけていった。
「それじゃあ、行くわね」
「ああ。不死鳥の加護がありますよーに」
「あはは、そんなに大層な用じゃあないけれど。気持ちはありがたく受け取っておくわ」
来た道に戻ることなく、三棟方面へと歩いていく黒髪の少女。
その無邪気な背姿に、アネモネにとって懐かしい誰かの面影が重なる。
「…………」
赤い三つ編みの幻影を振り払うように目を閉じ、青年は踵を返した。
さて。
第三大陸の離れ小島、センチュアリッジ島で保護した人族との距離を測りあぐねている少年が一人、三棟の屋上に座っていた。浮島の城壁の上、鋸壁の凹凸を椅子がわりに、眼下にうねる雲海と星を眺めている。
飽きないものなのか、うねる波間に夜の海が黒く口を開けても、また押し返す雲がそれを覆い尽くしても、特にこれといった感想を抱いている様子は見られない。
水平線の星を眺め、星雲と火球走る空を観察する――少年にとって、一仕事が終わった後の天球観賞はルーティンだ。
(新しい仕事が始まる前日は寝れないんだよなぁ……昔からそうだけど)
つまるところ、最後の休日を不健康に過ごそうとしている獣人もどきことハーミット・ヘッジホッグは、始まったばかりのこの夜をこの屋上で過ごすつもりでいた。
朝日が上がるまでひたすらに星の川を眺め、幾度も流れ落ちる点のようなきらめきに旅の成功を祈る。
(しかし、一つの流れ星に対して三回唱えるのは無茶だろ。条件が鬼畜なんだって)
彼は優れた魔術士のように、滑舌に長けている訳ではない。
ハーミットは雲を目で追いながら、次の仕事相手について思いを馳せる。
(……ラエル・イゥルポテー、滅びた国の生き残り。夢物語なら、亡国のお姫様だったりする展開が待っているんだろうけど生憎ここは現実だ。ロゼも、王国が滅びたこと自体にはあまり関心がないらしいし)
とするならば、おぼろげだという戦時の記憶も、あまり思い出さない方が幸せなのかもしれないと少年は考察していた。
(本人がどう思うのかは、また別の問題なんだろうけどな)
鋸壁に背をのせ、足の裏を引っ掛け、満天の星空の下で目を閉じる。
眠れはしないが、昼の暖かさが残るこの城壁の上で仮眠程度の休息はとれるだろう。眠れないからという理由で明日からの活動に支障を出してはいけない。
故郷の慣習に従って、少年が羊を数えようとしたその時である。
(人?)
耳に届く音よりも早く、屋上へ至る階段を踏む気配に気づいたハーミットは上体を起こす。
昇ってくるのが誰であろうと、咄嗟に行動できるように体制を整える。
こん、こん、こん。
革靴の音。踵の低いパンプスだろうか。
屋上が出入り禁止と知らないのか、迷わずこちらに向かっているようだ。
(……誰だろう、こんな時間に、一人で)
扉が開く。雲間から顔を出した青い月光に照らされて。
カラスの濡れ羽のような、鮮やかな黒がまず目に入って。
アメジストのような紫――宝石のような、その瞳と目が合った。